どうして
小さく隔離された世界に、クラリスという新しい人物が加わったことを、私は心の底から歓迎していた。
彼女、美少女だから尚更。
けれど、これは別に望んでなんかいなかったのですが。
「ですから!!何度繰り返させるつもりですの!」
「………ご、ごめん」
「いやぁ、仲良くなってくれたみたいで何よりだね」
怒れるクラリスの前で、私は縮こまったまま項垂れる。
一応謝ってはいるが、彼女がなんと怒っているのか半分以上は理解できていない。
そんな私達を暖かい瞳で見つめるジルは妹を抱えながらコロコロ笑っている。
「す、少し厳しすぎ、では?」
「状況は悪化の一途を辿っていますのよ!ここで甘やかして何になります!」
セリムが珍しく私を庇ってくれようとしたようだが、噛みつかれる勢いでクラリスに言い負かされたようで、慌ててジルの後ろに隠れてしまった。
エメが眉をハの字にしつつ、助けてくれる様子はない。クラウディはいつも以上に険しい顔つきで、何故か窓の方を見ていた。
「はい!続けますわよ。この国の前は!?」
「か、かでんつーあ」
「違います違います!カデンツィア!」
そう。何故か私の先生がジルからクラリスに変更になったのだ。それにより、学ぶモノも増えた。今は地理の勉強中。そして彼女、かなりスパルタだったのである。
飴がなく、鞭のみの授業。私が本当の十代だったらすでに心がボキボキに折れまくっていたことだろう。
幸いにも私は脳内年齢アラサーである。教えてくれているのは私よりもだいぶ年下の女の子。
プライドもあり、これぐらいではまだまだ根はあげるつもりはない。こんなものより、日本社会の方が何倍も厳しかった。
私の卑怯な裏事情に気づく術のない周りの若者達は、私を根性のある人物だと錯覚してくれたらしい。 クラリスの私に対する態度は少し軟化し、セリムも少しずつジルの背後から出てきてくれた。
ただ、クラウディだけは、まだ頑なだった。
もう一つ変わった事がある。
窓の外を見つめていたクラウディが、音を立てることなく、唐突に窓のカーテンのレースを引っ張った。
「○×♪▽▼○」
レースが窓を覆い、部屋を隠した数秒の後、窓の外を騎士の恰好をした人達が綺麗な列を作ったまま走り去って行く。
「「「………」」」
数分続いたその光景を、私とパトリシアちゃんを除く全員が息を詰めて見送った。
そう。これ。
緩やかにではあるが、確実に騎士の数が多くなったのだ。今のように団体で居ることもあれば、個々で行動していることもある。その度に、ジル達の表情が険しくなって、そして彼らは私とパトリシアちゃんの姿を隠す。まるで騎士達に見られたくないかのように。
確実に、何かが起こっている。
だけど、今の私にはそれを知る術はなかった。
無知な私。
だからなのだろう。教鞭がジルからクラリスに移ったのも。クラリスが必要以上にスパルタ教育を行うのも。
立ち込める暗黒に包み込まれていく彼らを私はただ見ているしかなかった。
騎士達が去っても、みんなの厳しい表情は変わらない。ただ窓の外だけを見つめ続けている。
息をすることすら憚られる沈黙に包まれた部屋の中で、私は人知れず拳を握る。
ここは、あの世界じゃない。ようやく、新しい人生を手に入れて、これからまた始めようと思った、大事な場所だ。
「はな、きれ、い、です」
「?」
ジル達がようやく窓から視線を外して呼吸を始めてくれる。
「クラリス、きれい、ですね」
「なっ!」
「エメ、かわいい」
「まぁ」
クラリスの顔が赤く染まり、エメが目を丸くさせて口を押える。
「ジル、きれい、セリム、も、かこいい」
少年二人の表情も緩んだ。
「クラウディ」
「………」
眉を顰めたクラウディと同じような表情を真似した私が見つめ合う。焦らしプレイがお好みなのかしら。
「おこりんぼ」
「おいっ」
「「はははは!!」」」
クラウディの珍しい突っ込みのような相槌に、ジルとセリム、そしてエメが堪えられずに笑い出した。
クラウスは額に手を置き、呆れ顔で「どこでそんな言葉を」なんて呟いている。
私には何もできない。だから、少しでも、この部屋に居る時だけは、みんなが笑顔で居られるように。
何も知らない、何もわからない。幼気な女を装って、私は笑うのだ。
✿ ✿ ✿
『芽衣子、会いたかった』
あの人が、いつも通りの笑顔で私を見つめてくる。
『あれ………?』
見れば、私は、あの日逃げ出した部屋の玄関に立っていた。
思わず首を傾げてしまう。私、どうしてこんな所に居るんだろう。日本じゃない、どっか別の世界に居たはずなのに。そこで、可愛い赤ちゃんと、綺麗すぎる若者達に囲まれていたのに。
それに、あの人は居なくなってしまったはずだ。私の粉々になった心を置き去りにして。
なのに、彼は今目の前にいる。
私達の新居のアパートの部屋の中で、玄関に立つ私を迎えてくれた。
『本当に、中々帰ってこないからびっくりしたよ。そんなに難しかったの、買い物』
『買い物?』
気が付けば手にしていた、買い物袋ががさりとなった。
『芽衣―帰ってきたの?遅かったわねぇ。お父さんがお腹減ったってうるさいんだから、早くしなさい』
彼の背中越しに聞こえてくる、私を急かす母の声。
そしてその奥のリビングに見えたのは、父に妹、そして私と彼の共通の友人達。
『奥様のお帰りだぞぉ』
彼に手を取られ、促されるがままに奥に足を踏み入れれば、一人が私達を茶化すように口笛を鳴らしてくる。その後に続く友人達の喝采。
『よ!新婚さん!!』
『やめろって』
友人の冷やかしに、あの人はこそばゆそうに笑っている。それを暖かく、どこか眩しそうに見つめるのは私の家族だ。
最後に覚えている悲しそうに、憐れむように私を見つめるものとはまったく正反対の幸せそうなもの。
あの日願った日々が、目の前に広がっていた。
そうか。全部が夢だったんだ。
彼が居なくなってしまったことも、私が変な世界に迷い込んでしまったことも、すべて。
本当に?
米神が小さく疼きはじめた。その痛みに顔を歪め、その場にしゃがみ込む。
エメの優しさは嘘だったのか。
ヨハンの胡散臭い笑顔は私の作り出した幻想だったのか。
セリムは?クラウディは?クラリスは?
ジルの思いやりは。パトリシアちゃんの可愛らしさは。
痛みが遠のき、ようやく目を開けられば、ぽっかり空いた穴が私の足元に広がっているではないか。
はっと顔をあげる。
「………なんで」
まるで黒い絵の具で塗りつぶされたかのような漆黒の空間に佇む私を挟んで広がる、二つの光景。
向かって右側では、あの人と友人達が新居のリビングにあるソファーを囲んで楽しそうに語らいで居て、それを見て微笑んでいる私の両親の姿が見える。
左側には、今ではすっかり見慣れたあの部屋。ジルがパトリシアちゃんを抱いて窓際に座っていて、クラリスがその前に座って何事か小言を漏らしているよう。エメとセリム、そして珍しく眉を寄せていないクラウディがそれを見守っている。
普通であれば、迷いなく右側の世界に飛び込んでいくはずだった。
けれど何故だろう。
あれほどまでに夢に描いていた光景が目の前にあるのに、何故か私は動けないでいる。
「あぁ、痛い。くるしぃ、さび、しぃ」
再び襲ってくる頭の痛みに堪え切れずに蹲る。
両側でみんな笑っているのに。
誰も私には気づいてくれない。
『メイコ』
一筋の涙が零れた時、確かに、私を呼んでくれる声が聞こえた。
少し音の高い、優しい声音は。