さぁ行こう
ジルがやってきた翌日、久々にヨハンが顔を見せた。
優しいジルに出会ってしまうと、もうだめだ。同じく麗しい顔で、私に居場所を与えてくれたであろうヨハンが胡散臭く見えてきてしまった。
にこやかな笑顔をどこぞの出血大サービスかと思うほど無駄に振りまきながらやってきた彼、とその付き人テリー。パトリシアちゃんを抱きかかえたまま彼を迎え入れた私の目は知らず知らずの内に据わっていたらしい。
それに目ざとく目を付けたヨハンがその笑顔を一層輝かしいものに変える。その後ろではテリーが眉を下げていた。
苦労するね、君も。
「ジルベルトが来たんだってね」
「ジル?」
耳に残った名前を繰り返せば、頷きが返ってきた。
そうか。彼はジルベルトというのか。なんとも豪華な名前だことで。
「何を話したの?」
つい先日覚えた『なに』という音はわかったので、大体予想を付けて質問に答えることにする。
ジルに貰った冊子を取り出してヨハンに渡す。
「へぇ」
中を読みだした彼に向かって、覚えたての単語を並べてみた。
「勉強中なんだね。物事を知るっていうのは、いいことだと思うよ」
笑顔で頷きながらページを捲っているところからすると、きっと私は褒められたのだろう。
「ジルベルトはパトリシアの兄だし、悪い子ではないから、存分に甘えるといい」
「あに?」
ヨハンがパトリシアを指さしてジルの名前を言った。だけど、それだけじゃ私には分からない。
すると、近寄ってきた彼がパトリシアの顔を覗きこむので、私も思わずといったようにそれに習う。
彼が注目していたのは彼女の瞳。
そこで思い当たった。
『え、ジルってパトリシアちゃんのお兄ちゃん!?』
「なんていってるかよくわかんないけど、多分そうだよ」
ヨハンは私の言ってることがわからない。
私もヨハンの言ってる言葉が理解できない。
きっと適当な事を言っているんだろうなと思う私を前に、彼は笑顔で頷いている。テリーが、ヨハンに見えないところで小さく溜息を零してた。
大方私の想像は正しいはずだ。
「へぇ、お兄さんかぁ」
パトリシアちゃんの淡い水色の瞳を見つめる。
あの宇宙みたいな瞳とはまた違った、水晶の塊が詰まった瞳。
家族事情はわからないけれど、どうやら、お兄さんには愛されているだろうという事がわかって、少し安心した出来事だった。
「メイコ、ずっと中に居るのも飽きるでしょ?ちょっと外に遊びに行こう」
「中?そと、いく?」
ジルの長い文の中で自分の分かる単語だけを抜き取って繋げる。
部屋の中と窓の外を指さして、目を瞬かせた。腕の中にいるパトリシアちゃんも、私の指の動きを追って外と中を交互に見る。
ジルの隣にはニコニコ笑顔のエメが並んで立っており、その後ろには不貞腐れた顔をしたクラウディが立っている。
私の感覚では、彼らは全然年下なんだけれど、前回の発見により、彼らに混じっていていてもまったく違和感のない見た目になっていることで、少しだけ気分が解れていた。
彼らと共に時を過ごすようになって、すでに数日が過ぎていた。
だいぶ打ち解けた気がする。常にご機嫌ななめのクラウディは放って置くことにして、再びジルに注目した。
外に行こうってことだろうけど、私、いいのかな?
「外、行く、いい?」
色々事情があって、私はパトリシアちゃんの部屋とその前にある応接間でしか生活ができないんじゃないだろうか。なのに、いいのかな。
大人な私はあえて物分かりの良い自分を演じて見せる。というか、むしろ自分とパトリシアちゃんの保険のための行動なのだけれど、まぁ、若い子にはまだわかるまい。
心の内の醜い大人な部分を知りもしないジル達は笑顔のままである。
うん、いいと思う。このまま、素直に育ってくれるとお姉さんは嬉しい。
「大丈夫。庭だけだし、僕達が一緒だから誰も文句は言わないよ」
「そうと決まれば、メイ様もパトリシア様も用意をしないといけませんね」
ジルの後に続くようにエメが両手を合わせてなにやらウキウキと言葉を発した。少し興奮しているのか、早口で紡がれた言葉を知る術は、今の私にはない。
エメが、ジルとクラウディの背を押しながら部屋の外へ押しやり、すぐに背後で扉を閉めた。
新しく備え付けられた私専用の洋服ダンスを開けて、何着かの洋服を取り出す。
どうやら、私を飾りたててくれるらしい。そりゃあ年頃の女の子だもん。本当はこういった仕事をしたいに違いない。でも、私自身が世話係なのでそんな機会も全くなかった。
だからか、今日のエメはいつも以上に張り切っているようである。
一人で何事か呟きつつ、私と洋服の間を行ったり来たりしている。その間暇な私はパトリシアちゃんに高い高いをしながら遊んでいた。
ようやく決まったのだろう。一着のドレスを私に渡してきた。
ネイビーブルーの下地に白の水玉模様がプリントされた軽装。多分、パトリシアちゃんの世話係の事も考慮しておいてくれたのだと思う。
そしてもう一つの小さな服を持った手を、パトリシアちゃんの方に差し出してきた。
私と同じネイビーブルーのワンピースが、今日の赤ちゃんの服装に違いない。
エメは、張り切りすぎて、私とパトリシアちゃんをペアールックにしてしまったようだった。
特に反論もないので、大人しく衝立の奥でそれに着がえて、パトリシアちゃんの着替えはエメに任せた。
化粧はする必要がないので、最期に髪を結いあげて完成する。
鏡の前に座ったまま、自分の髪がエメによって綺麗に結われていくのを見つめながら、何とも言えない気持ちになった。
今の私の髪の毛は、本来の元はかけ離れている。
結婚式に向けて伸ばしていた髪はすでに腰ぐらいまであるし、せっかくの晴れ舞台だからと髪を明るい茶色に染めて、パーマをかけた。
すべては、あの人のためだった。
私を捨てた彼との思い出が、鏡越しに見える髪を通して蘇り、瞳をきつく閉じる。
どのくらい考えに浸っていたのか。長い間だったのかもしれないし、一瞬だったかもしれない。
気が付けば髪結いは終わっていたらしく、エメが肩を軽く叩いて引き戻してくれた。
鏡越しにみた彼女の特徴的な色の瞳と目が合う。まるで蓮の花が咲いたような薄い紫ともピンクとも取れるその瞳が好きだ。
目が合って、彼女は再び私の肩を一度やんわりと撫でてくれた。
歳は私なんかよりも全然若いはずなのに、お姉さんのような安心感を覚える。
パトリシアちゃんも準備万端で、エメが抱いていた彼女を受け取る。今となっては、パトリシアちゃん自身が私にだいぶ懐いてくれていた。誰に抱っこされていようと、私がやってくれば必ずこちらに手を伸ばす。
年齢的には、私の娘であっても何らおかしくはないので、正直もう自分の娘のように感じ始めていた。母親の気配も父親の気配も感じない今、私ぐらいそういう想いを抱いていても罰は当たらないだろう。
外に出る間ずっと彼女を抱いていては疲れるであろうという配慮なのか、優秀なエメが差し出してくれた一枚の布でパトリシアちゃんを包み、肩かけ鞄の斜め掛けの要領で胸の前に持ってくる。後ろでエメがしっかり布を結んでくれれば安定性抜群のおんぶ紐に大変身だ。
私の平たい胸でも素直に収まってくれる赤ちゃんが愛おしい。
パトリシアちゃんを抱いて、エメが開けてくれた扉を潜れば、ジルとクラウディの他にもう一人男の子が立っていた。
「セリム」
金髪翠眼の彼はキラッキラとしたオーラを纏っている。
ここ数日の間にジルに紹介してもらった人物の一人で、基本ジルと共に行動しているので、すでに何度か顔を合わせている。
歳の頃は、ジルより少しだけ年上、といったところだろうか。といっても、中学生ぐらいの幼さである。
少し人見知りするようで、今だ会話らしい会話はしていない。というか、ジルの後ろに隠れていることの方が多い。
なんだろう、いいのかな、君の方が年上だろうに。
でも、少し戸惑い気味に揺れる瞳が可愛らしいし、ジルとセットで目に入ることで大変目の保養になっているので文句はなかった。
「じゃあ、行こう!」
嬉しそうなジルが、私の手をとって早足で歩きだした。
眉を寄せたままのクラウディが、渋々な様子で大広間の扉を開ける。
世界の扉が開いたような、錯覚に陥った。