なんですか
少年の名前はジルといった。
なんとなく、略した名前だと思うんだけど、本名を聞けるほど今の私に語彙力はないので、潔く諦めた。
うん、人間何事も諦めが肝心!
ジルは瞳をキラキラさせて私を見つめてくるけど、特に何も言ってこない。
逆に、私は気まずさという言葉が迫ってきている気がして視線を泳がす。
美少年というのは見ているだけで目の保養になる。しかしそれは、あくまでも自分に注目が当たってない場合の話であって、こうして目を向けられている以上そこに平穏はない。
お腹いっぱいになって眠りについたパトリシアちゃんをベビーベッドに寝かせ、私はジルを促し、パトリシアちゃんの部屋に繋がる応接間に移動した。
ちなみに、私はパトリシアちゃんの部屋にベッドを持ち込み、そこで寝泊まりしている。といっても、まだ赤ちゃんの彼女は夜泣きがあるので、あまり寝ることはないのだけど。
応接間にある小さな丸いコーヒーテーブルを挟んで両隣に並んでいる一人掛けのソファーに腰をおろした。
「さて」
どうしたものか。
パトリシアちゃんのお昼寝の邪魔をしないように移動したものの、その後の事をまったく考えていなかったことに気が付く。
『メイコは言葉が分からないんでしょ?』
「ん?」
ジル少年が何事か告げてくる。
頑張って聞き取ろうかと耳を大きくしたけれど、あまりにも早い速度についていくことが出来なかった。
これ、無理じゃない?
もう年齢も年齢だ。新しい語学を覚えるのにも限度があるのかもしれないぞ。
落ち込んだ私を見つめていたジル少年がなにやら自分の着ていた洋服の内ポケットのような所を探り始める。
前に中性ヨーロッパのようだと感想を抱いたところでもお分かりいただけるように、この服装はまさにその年代を思い起こさせるものだった。少し簡易な所もあるけれど、見た目的には本でみたものと大差ない。
というわけで、ジル少年も漏れなくヨーロッパの紳士が着るようなスカーフを胸元に納めた服に、長袖の上着を羽織っていた。
夏なのに暑くないのかな。
私はパトリシアちゃんのお世話係に相応しい簡単なドレス。前に腰にまくエプロンもしている。けれど服はそれだけしかない。まだここに来て数日しか経ってないし、外を出歩く事もないので不満はないけど、洗濯も出来ない以上新しい服が必要になってくる。
ヨハンもあれから一度も姿を現さないので、結構詰んだ状態だった。
しばらく自分の洋服を弄っていた少年が、お目当てのもを探し当てたのだろう、一層キラキラした表情になった。
なんて表情豊かな子なんだ。それにとても素直。笑顔が可愛い。
可愛らしい少年にメロメロになっているアラサー女子を目の前に、ジルが取り出したのは薄い冊子だった。こういう反応には慣れているのか、彼は私の態度をスルーしたまま。
手にした冊子を机の上に広げて見せる。
そこには、沢山の絵が並んでいる。絵の下には、全く読めない記号も並んでいる。
これはもしかしなくても、言葉を覚えるための絵本のようなものではないでしょうか。そしてこれを持ってきてくれたということは、私に本格的な語学の訓練が行われるという事なんだろうか。
「みるく」
そう言ってジルが牛乳の瓶を指さす。
「うし」
今度は牛の絵。
彼の言葉に続いて、同じ言葉を繰り返す。
どうやら、私の予感は当たっていたらしい。何度か同じ言葉を交互に発音して、丸暗記を試みる。けれど、やっぱり若さには負けるのか、覚えられない言葉もでてくる。
なので、ジルが持っていた羽ペンのようなペンを借りて、冊子の下に日本語で発音を書いてみた。
少年が興味津々の様子で見守る中、授業は進んだ。今日習ったのは、パトリシアちゃんのお世話と生活する上で大事になるだろう単語。覚えたい単語は私が選んだ。『ミルク』に『パン』、『水』、それから『スープ』。
ジェスチャーを交えて動詞も習った。
『食べる』『ください』『眠い』『元気』などなど。
あれ、なんか私、人間の欲求に塗れた人みたいになってない?
「なに?」
『?』
ある程度落ち着いたところで、私はもう一つの言葉を覚えるために口を開いた。今の私にとって、一番大事になるだろう単語だ。
机を指して首を傾げる。
『机』
ジルが素直に机を指す言葉を発した。私は首を振って壁を指さし、そして首を傾げ、同じ言葉を繰り返した。
そう。『これはなんですか?』をとっても略した単語『なに?』である。
何度か同じ動作を繰り返したところで、ようやく合点がいったようにジルが左手の平に右の拳をくっつけて何度か頷く。
『なに』
「なに」
「なに?」
「なに?」
たどたどしく言葉を紡ぐ。私の様子を見守っていたジルがニッコリと笑ってくれたので、私も笑い返した。
ヨハンと同じように綺麗な顔をしている彼だけど、自分よりも遥かに年下なので、変な緊張感はない。あぁ、綺麗な顔だなぁ、なんて感想を抱くだけだ。
「なに?」
「いす」
「なに?なに?」
ようやく、繋がる言葉を覚えた。不思議な感動が私を襲う。
なんでもないと思っていたけれど、やっぱり寂しかったらしい。
年上のプライドなんてものは綺麗さっぱり頭の片隅のそのまた隅へと追いやった私は、気が付けば、小刻みに身体を揺らしたり上に下にと飛び跳ねながらジルに向かって『なに?』を連発していた。
私のそんな変な行動に引いた様子もなく、彼は笑顔で答えてくれる。
なんて良い子でしょう。
だけど、どうやらその笑顔の裏で思うところがあったらしい、この日を境に、私とパトリシアちゃんだけの小さな世界が大きく変わった。
第一の変化はジルがよく顔を見せるようになったこと。ここ数日は毎日のように遊びに来ては、私の言葉の先生をしてくれる。
第二に、部屋に専属のメイドさんがついたこと。
紫の髪が特徴の彼女は、エメと名乗った。年齢は十代後半ぐらい。私の食事の用意や、お風呂の準備、そして洋服の準備も彼女がしてくれる。まだ出会って間もないので、彼女のことはよくわからないが、ほんわかした笑顔で仕事をこなす中々愛らしい子だ。
第三は護衛がやってきたこと。
赤色の逆立った髪が目立つ彼はエメと同い年くらい。しかしここの護衛になったことが不満なのか、彼はいつも顰め面をしていた。名前は本人からは教えてもらえず、エメが教えてくれた。名前はクラウディ。
そうしてもう一つ、気が付いたことがあった。
「メイ様、鏡ですよ」
ある日、エメが鏡を持ってきてくれた。
実は今まで、部屋に鏡が無かったのだ。赤ちゃんには不要なものだったのと、私が『鏡』という単語を知らなかったため、その存在を無いものとされていた。
仕事できる女子、またの名をエメ、は、初めて部屋に足を踏み入れた瞬間すぐさま私に必要になるであろう道具を一式揃えてくれた。その中にあった、等身大の鏡。
久々に自分の姿を見て、愕然とした。
「え、えぇ?」
鏡にこれでもかというほど顔を近づけながら、その頬や額を手のひらで触りまくった。
顔を洗うたびに、少し抱いていた違和感。
「ちょっと!!私若返ってるぅ!?」
28歳だと記憶してたはずだったのに、今驚きに目を見開いて見返してくるのは、高校卒業直後ほどを彷彿とさせる自分の姿だった。




