人は成長するのです
十年という歳月は、人一人成長させるには、十分すぎる時間だ。
「お母さん、じゃあちょっと八百屋さんのお手伝いに行ってくるわね」
「え、今日休みじゃないの?」
翌朝、日の出の少し前に起きて朝食の準備をしていた私の隣を通り過ぎようとするモモに驚いて声をかけた。
「そう、だから給料はいつもの二倍にしてもらったから!」
「え」
いや、心配してるのはそこじゃない。
思わず突っ込みかけたけれど、その前にモモが笑顔で家を出てしまったものだから、大人しく胸の中にしまい込む。
この十年という歳月は、パトリシアを超現実主義者に育て上げてしまったらしい。
時々、自分の稼いできたお金を満面の笑みで数えているところにも遭遇したりしたし。その笑顔は、怖くて、正面から確認したことはない。
ちょっと思ってたのと違うけど、ま、いっか。
「パトリシア、授業の時間よ」
「はい!アリシア様!」
二時間ほどで戻ってきたモモと、朝の散歩に出かけていたクルト様、そして寝坊助のアリシア様達が集合ところで、みんな揃って朝食を頂く。
その後、モモは最低限のマナーを学ぶためにアリシアと共に二階の部屋へ上がって行ってしまった。
クルト様は村の往診ですでに居ない。
モモことパトリシアが、やんごとなき身分の令嬢であることは、出会った時からわかっていた。いつ何が起きても大丈夫なように、私はアリシア様に家庭教師をお願いした。
聞けば、アリシア様も元は貴族令嬢。先生には持って来いの人材だったのだ。
私が会った時、一歳未満だろうと予想していたモモは、実は二歳であったことがすでに分かっている。元々小柄であった事に加え、私と出会う前の育児放棄紛いの行為が災いして、成長が遅れていたらしい。
十二歳になった彼女は、すくすく成長し、同い年の娘達とほぼ変わらない体系になっていた。
そんな私も、この世界に来た時と同じ歳になってしまった。つまり、アラサーである。
しかも、何が恐ろしいって、このせかいに来た時確かに見た目が十歳ほど若返っていたので、見た目年齢はアラサーで合っている。
でも中身は?
………いや、そこは考えちゃだめ。私だけの秘密。
誰にも言われなければばれない。それでいいのだ。
まぁ正直、日本に居た時よりも余程充実した生活を送れているためか、日本に居た頃の二十八歳より、かなり若々しい見た目をしていると思っている。
村の穏やかな気質と、モモを育てるという使命感が、私を大きく成長させてくれた。
それに、日本での会計士だった経験を生かしたくて、この村の学校と交渉した結果、子供達に数学の授業も行っていたりする。
ある意味、算数の教師なのである。
言葉も今ではなに不自由なく使えるようになったしね。
この村での生活は、かねがね平和で満ち足りていた。
ただ一つ気がかりなのは、ジル達の事。
拾ってくれたアリシア様達は、何も知らないらしく、国の最果ての位置するこの村には、何の情報も入ってはこない。
だから、こうして言葉が通じることになった今でさえ、彼らの正体はおろか、自分が居た屋敷さえ分からずにいる。
今はまだ誰にも言ってはいなけれど、モモが成人したあかつきには、彼らを探す旅に出ようと思っている。
恋愛だなんて、もう二度と出来るはずもするはずもない私は、元々から結婚だなんて視野に入れてすらいなかった。
一生独り身であるだろうから、将来の目標を決めるのはかなり簡単だった。
もしもモモが付いてきたいと言えば、それも良いだろう。
十年経っても追ってすらやってこない、彼女を狙っていた人々も、きっともう彼女の事を諦めているだろうし。
アリシア様との授業で頭を使い、お腹を空かしているであろうモモの姿を思い出しながら料理を続ける。
それからしばらくして、モモとアリシア様が二階から降りてきた。
「疲れたー」
そう言いながらも、自然とキチンの中に入ってきて私の手伝いをしてくれるのだから、本当によい娘に育ったものだ。
モモが、私が食事をよそった器達をダイニングテーブルの方に持っていく。
アリシア様は手慣れた様子で人数分のスプーンとフォークをテーブルの上に並べてくれる。
すべての食器が並べられた頃、クルト様も帰ってきた。
今日の献立は、野菜を煮込んだクリームスープに、昨日村長のお家から分けてもらった山羊のお肉を焼いたもの。内容は質素ではあるが、その分、素材のおいしさを最大限にした味付けを心掛けているつもり。
そうして始まる、楽しい食事の時間。十年変わらないこの時間が、何よりも安心できる時間だった。
長い間変わらない。それが、劇的な変化を繰り返して生きてきた私にとって、何にも代えられない幸せだった。
「モモは筋がいいわね。飲み込みも早い。教えていて楽しいわ」
「うっ。それって、私への皮肉も入ってます………?」
年齢的な事もあって、私の言語習得には結構な時間と人材を費やしたことを気に病んでいる私にとって、その言葉は突き刺さるものがある。
「ははは、そんなこともあったわね」
「ふふふ。お母さんが泣きながらクルト様に教わっていたのが懐かしいです。子供心にとても心配したのを覚えてます」
アリシア様の思い出し笑いを皮切りに、モモが身を乗り出すようにして当時の思い出を語りだしたではないか。
「いーやー!もう忘れてぇぇ」
「………手のかかる生徒ほど、可愛い」
「クルト様のその優しさが痛いっ」
耳を塞いで身を捩りながらすべての記憶を密封しようと足掻いてみるも、周りの人間がそれを許さない。
アリシア様のにまーとした笑みと、モモのニコニコした笑顔が視界に入ってくる。
なんという公開処刑!
普段は口数の少ないクルト様までもそんな事をいうものだから、やるせなさ倍増だ。
そんな私を見つめていたクルト様が眉を下げた。
「………褒めた、だけだ」
なんて可愛い森の熊さんっ!
アリシア様とクルト様は、基本長くても一週間ほどしか村には滞在しない。
医者として、沢山の場所を見て回りたいからだと常日頃から言っている彼らを、引き止めることなどしない。
けれど、今回だけは違った。
「もう、行ってしまうんですか?」
その日もいつものように、アリシア様とモモは二階にて貴族としてのマナーの授業を行っている。
一階には、私とクルト様が残された。
ソファーに座って、旅支度を始めた熊さんな彼を見つめていると、何故か自然とそんな質問が口をついて出ていた。
今まで一度も聞いたことがない類の質問に、言った自分が驚いてしまった。
それはクルト様も同じだろう。作業していた手を止めて、私を振り返った。その荒々しい風貌に不釣り合いな円らな瞳が丸くなっている。
「あ、いや、あの………」
「どうした」
まるで子供のような言葉に居た堪れなくなって俯けば、クルト様が心配そうに隣に腰を下ろして、私を覗きこむように見てくる。
十年前に見ていた銀河を秘めた色ではない、日本の思い出を彷彿とさせる抹茶の色。十年間、私を支えてくれていた色だ。
少しだけ、胸の騒めきが小さくなる。
無言で私の言葉を待つクルト様と目を合わせた。
「なんだか、嫌な予感がするんです………。もう、クルト様やアリシア様に会えなくなるような、嫌な予感が」
「………大丈夫。俺達は、強い」
安心させるために紡がれた言葉に、無言で首を振った。
「違うんです。そうじゃなくて、その、説明できないけど、何かが、変わりそうで」
私はもう、変わることを、望んでなんかいない。
ぐずる子供のような私に、クルト様も困ってしまったようだ。頭にその大きな手を乗せてくる。ここで撫でることも、あやす様に叩く事もしないのが、彼の不器用な所。
ただ、安心させるために口下手な彼には珍しい位に話しをしてくれた。
数日間の滞在の後、アリシア様とクルト様は再び旅に出て行ってしまった。
遠くなる二人の背中を、見えなくなるまで見送った。彼らと一緒に、この妙な胸騒ぎも去って行ったらいいのに。
「お母さん?」
「え?」
「え?じゃないよ、どうしたの?」
どうやら、気が付かない内にその場に立ち尽くしていたようだ。
ふと我に返って声の方向に顔を向ければ、モモが不安そうに私を見上げている。アリシア様達が去って行ったときには水平よりもやや高めにあった太陽ですら、すでにその姿を半分以上隠してしまっているではないか。
かなり長い間、外に居たらしい。
「ううん。なんでもない。心配しないで」
「本当に?」
「うん。………『ねぇ、モモ』」
「ん?」
家の中に入るために、モモが先に扉を開けて私を待ってくれている。
そんな彼女を見つめて尋ねてみた。
『あなたは、今、幸せ?』
元の世界を忘れないようにと、日本語の復習をしていた私を見つけて、同じように日本語を喋りたいと言ってくれた彼女に、日本語を教えた。
モモは、笑った。
『うん。とっても、幸せだよ!』
そうやって自分達の幸せを確認し合ったあくる日の朝、モモ―――いや、パトリシアの迎えが、城からやってきた。