迫りくるは、滅びの足音(第三者視点)
アーチを潜ってすぐに、歩いていた女が力尽きた様に崩れ落ちた。
一同の先頭を歩いていたジルが、後ろから聞こえた布の不自然な音を拾い上げ振り向けば、そこには、メイコのすぐ後ろを歩いていたクラウディが、持ち前の反射神経を活用して地面に衝突する寸前の彼女の身体を受け止めた所だった。
「メイコ!」
ジルが声を上げ二人の傍に駆け寄る。
クラウディの腕の中で浅く呼吸をする彼女の顔色は白さを通り越して青く、明らかに体調不良を物語っていた。
兄弟の中でも特別優秀だと、自他ともに定評のあるジルはすぐさま一つの予感に行きついた。
クラウディの隣で妹を抱えながら、心配そうに芽衣子を見下ろすエメを問いただす。
「メイコは、今も夜魘されているね」
「「………」」
エメは押し黙ったまま何も言わない。クラウディですら、唇を引き結んだままだ。
それはある意味、ジルの問いを肯定しているのと同じ。同時に、彼の眉間に深い皺が寄る。
「何故、僕に知らせなかった」
「………口止めを、されておりました」
主である少年の、感情を押し殺しながら努めて冷静でいようというのが窺い知れる声音に、エメは観念したように口を開いた。
「君達の主は僕だよね?君達には、報告する義務があると思うのだけれど」
彼ら二人を芽衣子の傍に置いた最もたる理由はもちろん彼女を護るためではあるが、ある種の監視役も含めていたため、ジルはその役目を放棄した二人を言外で責める。
「ジルベルト、その前に、メイをどこかで寝かせた方が………」
厳しい表情で部下を見つめるジルと、責務と私情の間で揺れ動き唇を噛み締めたエメとクラウディの間を小さな囁くような声が通り抜ける。
見ればセリムが倒れて動かないままの芽衣子とジル達を見比べていた。
「そうだ、早くベッドへ」
ジルがようやう思い当たったかのように慌てだし芽衣子に手を差しのばすが、まだまだ成長期前の彼に成人女性を抱き上げることはほぼ不可能。
申し訳なさそうに抱き上げ歩き出すクラウディの後姿を、彼は悔しそうに睨み付けることしかできなかった。
部屋に辿り着き、ベッドに気を失ったままの芽衣子の身体を横たえる。
その身体は思った以上に軽くて華奢で、クラウディは戸惑っていた。
眠り続ける彼女を囲うようにして、ジル達は立っていた。
エメは、ぐすり始めたパトリシアを抱いたまま体を上下に小刻みに揺らす。いくら赤ん坊とはいっても、彼らは何も分からない生き物ではない。いつも自分の傍に居てくれる芽衣子が動かないことに不安がっているのは至極当然のことだった。
クラリスが芽衣子の足元に祈るように肘を付き座り込んでいた。その表情は泣きだす寸前のように歪んでいる。
「なんて可哀想な子。こんな時に、こんな場所に来てしまうなんて」
彼女の言葉は、全員の心を代弁していた。
芽衣子もきっと気が付かないはずがない。
ジルの不在や、騎士達の大量発生。そして、隠しきれない周りの若者達の焦燥的な表情。わかっていて、あえて明るく振る舞ってくれる芽衣子に、ジル達は確かに救われていた。
「メイが、倒れたって?」
突然、なんの前触れもなく、部屋の扉が開いた。
深い罪悪感に囚われていた少年少女は驚きに瞳を見開き、顔は扉を向けながらその身体は扉から遠ざかるように一歩引く。
「兄上………」
そこに立っていたのは、この国の神殿の管理者ヨハン。彼はジルとパトリシアの兄でもあった。後ろには、ハの字型眉が特徴的な側近、テリーも居る。
「どうして」
クラウディのそっと呟いた言葉は、静か過ぎる部屋に響き渡りには十分の大きさだった。
芽衣子の横たわるベッドに歩み寄りながら、ヨハンは笑顔を絶やさない。
「どうして、なんて、愚問でしょ。ここは鳥籠の中なんだよ」
「そんな鳥籠に、なぜ関係のない彼女を引き込んだ!」
ジルが吠えた。
穏やかな彼にしては珍しい行為である。
それでも、兄はその笑顔を絶やすことはない。
芽衣子のすぐ横で足を止め、目を瞑ったままの芽衣子を覗きこみ、そして、芽衣子を見守るように佇む若者達を見回した。彼らはそれぞれに不安を隠しきれない不安定な表情をしていた。
そんな彼らに満足したように頷いて、ヨハンは芽衣子の額に一つ小さな口付けを落とした。
「な!」
ジルが絶句する。
「神の思し召し、ってやつかな」
事の流れに着いていけず、目を白黒させるしかない若者達に背を向けて、言いたい事だけ言ったヨハンは、そうしてこの部屋にやって来た時と同じように、再び前触れもなくふらっと出て行ってしまった。
「ヨハン様は、やはり分からないお方ですわね」
先ほどの泣きそうな気持ちを忘れ、呆気にとられた顔のままクラリスは閉まった扉を見つめる。
「何が神の思し召し、だ。兄上ほど、神を信仰しない奴は知らない」
「ジルベルト様、声が大きいですよ」
苦虫を噛み潰した直後のような表情と声音で、ジルが吐き捨てるように呟けば、すぐさまエメの窘める言葉が飛んできた。
肩を窄めることで、険しい顔をするメイドに返事を返すジルの耳に、芽衣子の小さな唸り声が聞こえた。
彼女が目を覚ますのもそう時間はかからないだろう。
芽衣子の瞼が小さく動く。
息をひそめてその様子を見守るジル達の表情は、安堵とは程遠い。果たして、目を覚ますことが芽衣子にとって良いことなのか皆目見当が付かない。
―――彼らの耳元で聞こえる滅びの足音は、すぐそこまで迫っていたのだから。