第9幕 笹本太郎
彼女が教室を飛び出して行ったのを見た私は、すぐに彼女の後を追いかけて行る。教授、生徒一同の訝しい視線を感じたが、それどころではない。
私が教室の外に飛び出し、彼女を探す。そして、走っている彼女を発見する。かなりの距離があるが、私が全力で走れは所詮は女性、すぐ追いつくだろう。私は全力で走りだす。
しかし、彼女の足は思ったよりも早く、そして私の足が思っていたよりも遅かった。進むにつれて距離が開き、風を切る音ではなく、かすれた息と和太鼓が鳴るような心臓音が聞こえる。
そして、彼女との距離は見る見るうちに開き、駅に入って行くところまでは確認したが、その後完全に見失ってしまった。
私はとりあえず、終点の梅田の駅までの切符を購入し、駅のホーム出る。ホームには電車が停止いており、今まさに出発しようとしているところだ。
私は急いで乗り込もうとする。その時、目の前で扉が閉まりかける。
無理やり体を入れようとした時、再び扉が開いた。どうやら車掌が私の姿を見て再び開けて様だ。阪急電鉄も捨てたものではない。
電車に文字通り飛び乗った私は、車両をくまなく探索するが、愛しの彼女を見つけることが出来ない。走り出した電車の定期的な振動音が響く。
「俺の事を見て、恥ずかしがって逃げてしまうなんて、なんて可愛い女性だろうか」
そう小声で呟き、むふふ、と微笑むと向かいに立っていた老婆があからさまに不快な顔をして私を見る。私は咳払いをし、早々にその場を立ち去り、隣の車両に移って彼女を再び探す。
この車両にも彼女の姿を見つけることができず、もしかしたらすでに下車したのかもしれないと不安がよぎった。
しかし、その時である。隣の車両に頭を少し横に倒しながら寝ている彼女の姿を確認する。
早く移動せねば、そして彼女と対面し、我々は結ばれるのだ。
しかし、彼女と対面してまず何を話せばいいのだ? 紳士のように、あら今日はお日柄もよく……などと言えばいいのだろうか? ええい、そんなのどうでもよい、彼女は俺に惚れている。だったら、よっぽどの失態をせぬ限りは何を話しても良い筈だ。そう思い至って扉に向かう。
車両の連結部分の扉を開けようとしたとき、私は扉の前に一人の老人が立っている事に気がついた。
「おい、爺。邪魔だ。そこをどけ」
私は出来る限り、慎重に言葉を選んだのだが、老人はくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして睨んできた。
「坊主、その口のきき方はなんや。お前は人様への頼み方も知らんのか」
そう言って、老人は激昂したのである。
私は丁寧に頼んだのにも関わらず、これに文句を付けてくる。これは所謂、逆ギレってやつである。
「なに怒っているのだ。俺は隣の車両へ移動しなくてはならんのだ。爺よ、逆ギレなんて、大人のすることではないぞ。ましてや、しわくちゃの老人がする事ではない。さっさとそこをどけ」
私は丁寧な頼みも虚しく、老人は怒り心頭の様子である。この様に物分かりの悪い連中がいるから、この世の中は上手く回らないのだ。
「なんちゅう餓鬼や。親の顔が見てみたいわ」
老人はしゃがれているが、しっかりした声で言った。
「親の顔だって……俺の親の顔は……」
「なんや、聞いちゃあかんかったか。親はおらんのかすまんな」
「違う。喉が詰まったのだ。俺の親はちゃんといる。俺の親の顔は見れたものじゃない。それは酷い顔だ」
数回咳払いする。
「なんや生きてるんかいな。せやけど、ちょっと今のおもろいやないかい」
何が面白かったのかは、私には全く分からなかったが、ボケてる老人とはこんなものなのだろう。しかし、老人は先ほどの様に怒っている様子は消えていた。
「では、そこを通してくれ」
「嫌や」
老人は両手を広げる、ここを通さまいとの心の現れだろうか。何とも鬱陶しい爺である。
「何故だ、お互い理解し合えたのだから通してくれてもよいだろう」
「理解とはなんや、何にも理解しあえておらんぞ。お前がちょこっと、おもろい事を言っただけやないかい」
「じゃあ、どうしたら通れるのだ?」
「それは、勝負して勝ったら通してやろうやるわい」
「勝負?」
「そう、勝負や」
そう言って、老人は骨の上に皮が張り付いただけの様な胸を張る。しかし何故この様な場所で爺と勝負をしなくてはいけないのだろうか。だが、爺は普通に通路を譲る様子もない。
「勝負とは何を?」
「それは、この場で出来る勝負と言ったら、じゃんけんしかなかろう」
「じゃんけん?」
私は少し声を裏返す。
「じゃんけんっていうのは、グー、チョキ……」
そう言って、老人は手を握ったり開いたりして、じゃんけんの説明を始める。
「じゃんけんは知っている。なんでじゃんけんなのだ?」
「そりゃ、この状態だと、じゃんけんぐらいしか出来へんやろう」
そもそも、勝負する理由が全くもって分らないが、確かに、こんな電車の中でトランプをやる訳にはいかず、むしろトランプなんぞ持っていない。要はじゃんけんで勝利し、さっさと彼女の元へ行けばいいのである。
彼女の方にちらりと目をやると、まだ彼女はすやすやと眠っている、と言う事は何も今すぐ彼女の元に行くことはないのである。
彼女が目を覚した時に、偶然にも私が目の前に立っていたという方が自然かつ素敵であろう。
そうして、今度は老人の方に視線を移した。それを待っていたかのように老人は右手を大きく上げ、じゃんけんほい、と大きな声をあげた。急いでこちらも手を出す。
一度目の勝負は老人の勝利だった。なに、じゃんけんなど運の勝負、あと数回すれば確実に私は勝利するであろう。
そのはずであった。
どういう訳か、勝負は十二回目なのに、私は一度も勝利できずにいる。これはどういう事なのだろうか。幸いなことに彼女はまだ眠っている。
そして、十三回目の勝負も私は負けた。こんな事が起こりうるのだろうか? 周りの乗客も最初は車内でじゃんけんをする我々を怪訝な目で見ていたが、一向に負けない老人を見て、好奇の目を向けているのが感じられる。
真横の女学生などは、目的の駅に到着し下車しようとしたのだが、再び戻ってきた。そして我々の勝負が終わっていないのを確認し安堵していたのだった。
しかしながら、じゃんけんは一向に終わらないのである。つまり、私は一向に勝てないのだ。
もう、何回目の勝負になるだろうか、次ぎはパーを出すべく、私は腕を上げたその時にある事に気がついた。
さっきから、電車が動いていないのだ。はて、どうしたことだ。と駅を見て、私は驚愕のあまり腰を抜かしそうになった。
私が見た駅名は、終点の梅田駅だったのである。
隣の車両を見ると、乗り込む客が我先に席を確保しようとしているところで、そこにはもはや彼女の姿はなかった。
私が、終点に気付かなかったのは、じゃんけんのせいだけではない。我々の周りの乗客は降りようとせずに、我々を取り囲むように私と老人の手に熱い視線を送っていたからである。これでは終点にいるのに、気づかない訳だ。
老人も終電に着いたことに気付いたようで、私の顔を見て顔をくしゃくしゃにして笑った。
「お前の運なんてこんなもんや」
そう言ってのけた。私はあまりの悔しさと彼女に会う機会を失った失望のため頭の中で、爺を殴り倒した。現実の爺はまだ笑っている。
私は、ああ、と声をあげ頭を抱える。まさに絶望的である。
かくして、私は彼女を完全に見失ってしまった。