第8幕 いわし
私といたちは、駅近辺にある小さな喫茶店に腰をおろしていた。もちろん箱と鍵は忘れずに持っている。
「この鍵は一体何だろうか?」
いたちは鍵を眺めながら言う。いたちに無理やり連れてこられた私は机の木目を見て、この木は樹齢何年ぐらいなのだろうか、そんな事を考えながら聞く。
「おい、ちゃんと話を聞いているのか?」
怒気を帯びた声で顔を近づけてくる。
「はいはい、聞いていますよ。鍵に番号が付いているので、おそらくはコインロッカーのカギでしょう」
「コインロッカーか……1211って書いているな。きっとこの鍵の持ち主は、胃が悪いのだろうな。だから、イニイイって意味で、1211にしたのだろう」
いたちは、今世紀最大の発見をしたかのように意気揚揚と言う。私はそんないたちを冷ややかな視線で見つめ、無視することにした。
「イニイイ。そう思うだろう?」
あぁうるさい。私は頑として無視する。
「イニイイ。落とし主は胃が悪いのだな。いわしはどう思う?」
あまりにもしつこ過ぎる。そして私が折れた。
「……そんな馬鹿な、駄洒落で番号を決める馬鹿なんていませんよ。誕生日か何かでしょう」
「何を言うか! 駄洒落で決めて何が悪い! そしてこれは駄洒落ではなく語呂合わせだ!」
いたちはテーブルをドンと叩き、立ち上る。あまりにも大きな声だったため、鼓膜に痛みが走り、コーヒーを持って来ようとしていた立派な口髭の店員はトレイを持ったまま立ち止まり、私たち以外の唯一の客である老婆は驚きのあまり服にコーヒーをこぼした。
「いえいえ、いたちさんの言う通りです。その通りでございます。私は何も考えず、馬鹿な発言をしてしまいました。そう言えば先日、私も語呂合わせで、番号を決めました」
いたちの突然の怒りに私は驚き、両手を合わせて即座に謝罪してしまった。
「分かればよろしい」
何が分かればよろしいのだ、この変態女。と罵ってやりたかったが、私も成人した大人の分別ができる女。多少の万引き癖はあるが、常識ある振る舞いぐらいできる。
「申し訳ない」
そう言った直後に、横でコーヒーを渡すタイミングをつかめずにいた店員は、ここぞとばかりにそそくさとコーヒーを置いて退散し、急いで奥の老婆のところへおしぼりを持って行く。
コーヒーから出る芳醇な香りが私の心を少し和ませた。
「いたちさんは、その鍵をどうするつもりですか?」
「もちろん、コインロッカーを開けるさ。鍵は錠を開けるために存在する。世の中のルールを歪めるわけにはいかないのだ」
また、訳の分からないことを言い出した、そんなルール聞いたことなどないが、どんどん気にならなくなってきている自分がいる。これは順応というやつだろうか。
「でも、他人の鍵ですよ」
「これは私の鍵だ」
「そうですね」
面倒なのですぐに肯定し直す、この人とまともに会話するのは無理だ。
コーヒーを飲み、落ち着いた私の頭にある疑問が浮上してきた。その疑問とは、私は会話をしている。いったい誰と? もちろん、いたちである。何故、いたちと? そうこの部分が疑問なのである。
「……いたちさん」
「ん? なんだい?」
「私はなぜ、いたちさんと喫茶店にいるのですか?」
そう、これが謎なのだ。
「それには理由が必要なのか?」
「必要です」
「いわしがいて、私がいる。ただそれだけだ」
「それは理由ではありません」
「そうだな……君はロッカーの中身が気になって仕方がない。そうだろう?」
「残念ながら、差ほど気になっていません」
私ははっきりと言った。ロッカーの中身より、地球温暖化問題の方がまだ興味をひかれる。そして実際にそう言ってやった。
「万引き犯なのに?」
いたちは笑いながら言った。私は誰かに聞かれていないか心配で辺りを見回すが、誰もいないので安心する。
「あんまり声に出してそれを言わないでくださいよ。それに万引きは全く関係ありません。そして、私は店の損失には興味がありませんが、地球温暖化問題に興味があってもいいでしょう。それよりもなぜ私たちは一緒にいるのですか?」
彼女と会話をする時は、一回一回訂正しないと話が脱線し、それこそ地球温暖化問題について討論することになりそうである。
「いわしはそう言うが、君はなぜ私といるのだ?」
「私は今すぐ家に帰りたいですよ」
「それは駄目だ」
いたちはピシリと言う。
「なぜですか?」
私は少しむっとして、言い返す。
「それは、言わずとも分かるだろう。だが、あえて言おう。君がコインロッカーを開けると面白いことが起こる。そんな気がする」
そんな気がするとは何ということだ。そんな理屈がまかり通るなら、国家間の紛争も即座に終決してしまうだろう。うん、君の国とは今から仲良くなれそうな気がする。そんな感じだ。
「いわしは本当に、ロッカーの中身に興味がないのか?」
「ありません」
「もしかしたら、宝くじが入っているかも」
「宝くじがあっても、多分当たってないですよ」
「きっと当たっている」
「当たってないし、興味ありません」
「じゃあ、血のついたナイフが入っているかも」
こいつは小学生なのか。とんでもない事を目を輝かせ言っている。コーヒーの湯気が彼女の顔の前で怪しく曲がる。
「それなら益々、見たくないですね」
「そうなのか?」
「だって、そんなのを見つけてどうするのですか? 余計に困るだけですよ」
「確かにその通りだ」
いたちは以外に、すんなり引き下がった。でも血が付いてないナイフは魅力ないよな、そうぶつぶつ言う。
「じゃあ、百万円かも」
「……それは、欲しいですね」
お金は単純に欲しい。それは当り前だ。
「ほら見ろ。ではロッカーを開けて百万円を手に入れようではないか」
「でも、それはかなり確率が少ない希望でしょう。絶対に入ってませんよ」
「しかし……」
「絶対に入っていません」
「この世に絶対などないぞ、可能性は常に存在するのだ」
「あっそうですか……」
いい加減、この人の会話は疲れてくる。
「興味なさそうだな。では、マスクのライヴチケットかもしれない」
私は驚いてコーヒーをこぼすところだった。なぜならば、マスクと言うのはインディーズのロックバンドの名前ある。このロックバンドは名前の通り、メンバーはマスクをかぶっている。ボーカル、ギター、ベース、ドラムの四人で編成されており、このバンドが作り出す世界観には圧倒的なのだ。特にボーカルの女性のハスキーな声は、聞き手をどこか違う世界に引きずり込む様な魅力を備え持っている。
なぜ私がこの様に、マスクというバンドに詳しいのかと言うと、私のこのバンドの熱狂的とも言えるファンであるのは既にご察しであると思うが、このバンドは以前、私の地元の和歌山で活動しており、その後大阪を中心に活動を移動した。実は私が大阪の大学に入学したのも、少なからず影響している。
しかし、私が驚いたのは、熱狂的なファンであったのだけが理由ではない。このバンドは他のバンドと比べってライヴ活動が極めて少なく、そしてCDも出さず、ホームページもない為、圧倒的な実力を持ちながらも知名度はとても低いのだ。だから一層に彼女の口からその名前が出たことに驚愕した。
「いたちさんは、マスクを知っているのですか?」
もしかしたら、声が裏返っていたかもしれない。
「まぁな、だからチケットが入っていたら素敵だろ?」
「それは素敵です! でも、私の知る限りマスクのライヴは近いうちにはないですよ」
そうなのだ、私は必死にマスクの活動を調べたが、まったくもってライヴの予定がないようなのだ。
「ところがどっこい。なんと、今夜マスクのシークレットライヴがあるのだよ」
今度は私がテーブルを叩いて、立ち上る。
「そ、そ、それは本当ですか! で、でも、なぜ、いたちさんがその事を知っているの
ですか?」
私はよっぽど大声を出したようだ、店員がこっちを睨み、老婆はまたコーヒーをこぼした。
「まぁまぁ、座りたまえ」
いたちが手を上下させ、座るように促す。
「これは確かな筋からの情報なのだ。まず間違えない」
これが本当なら、こんな所で呑気にコーヒーを飲んでいる場合ではないではないか。
「そのチケットはなんとか手に入らないですか?」
「君はファンの様だから分かるだろう。知名度は低いが、熱狂的なファンが多いのだ。だからチケットは即完売する」
まさにその通りである。しかし諦め切れない。
「しかし、ロッカーの中に入っているとしたなら、いわしはチケットを手に入れることができるな」
いたちはニヤリと笑い、私をじっと見つめた。
「ロッカーを開けに行きましょう」
馬鹿げていると分かっていながらも、私はそう言ってしまった。ないと分かっていながらも行動せずにはいられない。
この世に絶対などなく、可能性は常に存在する。どこかで聞いたようなセリフを反芻する。
そして、いたちは大声で笑った。