第7幕 いわし
「いわし、いい名前だな」
そう言って、長身の変人女は、私の肩をポンポンと叩き、私の即席で発案した。といってもペットの名前なのだが、とにかく私の新しい名前を褒め称える。そして、カルシウムが豊富で素晴らしい、とも付け加える。
「では、私の事は『いたち』と呼んでくれたまえ」
こうして、長身変人女改め、いたちはハハハと両手を腰に当てて大いに笑った。呼んでくれたまえも何も金輪際呼ぶつもりもないし、会いたくもない。しかしながら、この場から私は去ることができない。
「ところで、いわし。お前はなぜ古本屋で、あんなに汚くて、カビ臭くて、変人しか読まないような古本を盗もうと思ったのだ?」
やはり、見つかっていたのか……
それにしても、いたちの話しぶりは古本に失礼だ。古本の神とやらがいたら祟られるであろう。幾分そのことについて抗議したかったが、私は古本を万引きしようとしていたのが、やはり彼女には見つかっていて、何を言っても万引きを肯定してしまう発言になりそうで私は何も言えないでいた。
「なに、私はいわしが本を盗もうとしたことを、咎めるつもりはこれっぽっちもない。ただ、私が言いたいのは盗むならもっとうまくやらなくてはいけない。これだけなのだ。あのままだと、君は間違えなく店主に見つかるだろう。何故なら、彼は常に若い女性を観察し、その女性を自らの妄想の世界にいざなう変態的趣向の持ち主だからな。きっと君のことを監視していただろう。そして、君は彼に捕まり、警察に通報されるかもしれない。いや、まだそれならましだ。彼の欲求を満たすために、常識を逸した要求を君にするかもしれない。きっとそうなる筈だ。なぜなら彼は変態だからな」
いたちは一気に話し、聞き終えた私は、変態なのはあなたも同様だ、そう思ったのは他でもない。
「セクハラ的な要求は、さすがにしないでしょう」
「彼は変態だ」
「そんな事をすると、店主も捕まっちゃいますよ」
「変態に常識は通じない」
いたちはそう断言した。そうか、だから私の目の前にいる女には常識が通じないのか。
「ところで、いたちさんは何か用事で、古本屋にいたのですか?」
私は未だに、まったく正体不明な人物である、いたちの情報を得るために質問をする。それにこの様に会話をするのが一番安全なような気もする。そして何よりも私の万引きの話からは遠ざかりたい。
「それは、これさ」
いたちは、無造作に服を捲りあげた。彼女の露わになったすらっとした腹部と、ジーンズの間には綺麗に装飾された小さな箱が挟まっていた。
「確かそれは、古本屋にあった雑貨ですよね? すごく綺麗だったので覚えています。高くなかったですか?」
「タダだよ」
いたちは満面の笑みで答えた。しかし、店にタダの商品があるはずがない。タダなんてありえないはずだ。もってけ泥棒なんて古本屋で聞いた事がない。
「タダなはずないでしょう。しかもあのケチそうな店主の店ではありえませんよ」
「盗んだものに、金を払う馬鹿な人間がいる訳がないだろう」
「え……」
私は絶句する。おまえもか、この野郎。そう叫びたくなるのを必死で押さえる。
「ははは、いわしも同じ事をしようとしただろ。お前は失敗したけどな」
彼女は、まるで小学生が友達の失敗を茶化す様にけらけらと笑いながら言った。
そもそもお前が邪魔したからだよ。と反論したいところだが、彼女の邪魔が結果的には私を助けたかもしれないので、喉の辺りまでこみ上げてきた怒りを抑え、呑み込む。
「なんで、その箱を盗んだのですか?」
「綺麗だったからさ」
そんなこと言ったら、全てが犯罪の対象になるではないか。あ、あれが綺麗だ、ちょっと盗んでしまおう、なんて商品を盗んでいたらすぐに捕まってしまう。
「それに、あの店主にはちょっとした復讐をしたかったのさ」
「復讐……ですか?」
それから、いたちは如何に店主に恨みがあるのか話を始めた。しかし、これと言って大した内容でもなく、それ程恨みも内容だったので、途中で私は話を聞く行為を無駄と判断し、地面を歩く蟻を見ていた。まあ、結局のところ、店主の体臭が臭いとか、そんな次元の話しだった様な気がする。
「と言う訳だ」
彼女は、幾分すっきりした面持ちで話し終えた。私は、それは酷いですね、と一応話を合わせる。
彼女はやっと腹から箱を取り出し、顔の前に持ってきた。その時、カランと音がしたのを私は聞いた。
「いたちさん、中に何か入っているみたいですよ」
それを聞いたいたちは、どれどれ、などと目を光らせ箱を開く。
その箱の中には、鍵が入っていた。