第6幕 いわし
腕を掴まれた私は、俯いたまま体を硬直させ、ただただ次に起こりうるであろう惨劇に備えて体を硬直させていた。腕は強く掴まれており、振りほどくのは不可能なようだ、それにそんな勇気は今の私にない。
しかし、少しばかり身構えた状態で私は下を向いて相手の反応を待っていたが、叱咤されることも、殴打されるも様子はない。そして恐る恐る体の警戒を解く。
怯えながら顔を上げ、相手を確認しようとしたその時である。私の腕は、物凄い力で引っ張られ、私は相手に牽引される形で、あっという間に店の外にまで相手と一緒に出ていた。あまりに強く引っ張られたので、腕が抜けるかと思ったが、人体は強靭に作られているようで、どうやら腕はそのままだ。
店から出た後も相手は未だ私の腕を引っ張るのを止めず、私は引っ張られたまま、相手の後ろを走ってついて行く形になってしまった。
この状態はいくらなんでも私の予想の範疇を超えている。誰が万引き犯を見つけて相手の手を取り、引っ張っていくだろうか。いや、そんな人は私の知る限りいない。それとも何かほかに目的があるのだろうか。
それでもなお、私は引っ張られ続け、人の混雑した昼間の大阪の街を抜けていく。道行く人は、私たちのことをカップルとでも思っているのだろうか。誰も気にしてはいないようだ。今の位置からは相手の後姿しか見えないが、かなりの長身のようだ。それにこの力、間違いなく男だろう。
私はそのまま五分ほど、右に曲がったり左に曲がったり、引っ張られつづけ、ようやく茶屋町の路地裏で掴まれていた腕が解放された。手を放された瞬間、犯罪者が手錠を外された時の開放感を少し理解できたような気がしたのは錯覚ではないだろう。強く握られ手首は血が止まっていたようで、少し青白く変色しているが特に問題はなさそうだ。
しかし、一瞬安心した私に、次なる恐怖が襲う。私をここまで引っ張ってきた異常者は、何が目的でこのような行為をしたのだろうか。きっと卑猥なことに決まっている。なぜなら、私は美人なのだから。兎に角、相手は異常だ。
先ほど失敗した相手の顔の確認を再度、恐る恐るする。相手が長身の為、見上げる形になる。いったい何者なのか。
やっと、相手の顔を確認した私は驚愕する。
私をここまで引っ張ってきた相手は、なんと、女性であった。今までてっきり、男性だと思い込んでいた私は呆然とする。そして、少し安心した。これで卑猥なことをされる可能性はなくなった訳だ。
しかし、相手が女性だからと言って変態でないという確証があるわけではない。彼女が真正のレズビアンで、私の体を狙っている可能性が全く無いわけでは無いのだから。
彼女を少し観察したところ、彼女は百八十センチメートルあろうではないか、という程の長身で、顔はすっと鼻筋が通っており、一重で鋭い目は知的な様でかつ獲物を狙う猛禽類の様な鋭利さも持ち合わせている。
その特徴が、彼女に独特の妖しさを備えさせ、非常に魅力的で、なかなかの美人としているのである。
当初は男性だと思い、実は女性であり。変人女性なのだから恐ろしい容貌を思い描いていたが、意外にも美人であった。この驚きの連続に私の思考は停止状態に陥り、私は何も考えられなくなってしまった。
「名前は?」
しばしの沈黙を破り、彼女が突然尋ねてきたが、あまりにも突然であったし、わたしの思考回路が停止状態なのもあったので即座に答えられなかった。
「ははは、そんなにびくびくするな。お前の名前は何だ? 名無しの権兵衛って訳ではあるまい。おい、私の声が聞こえているかい?」
謎の彼女性は微笑みながら、低くハスキーで美しい声で尋ねてきた。しばし、その綺麗な声が私の頭の中で反響し、甘美な気分に浸っていた。それ程美しい声なのだ。
「……めぐみ……です」
やっと、思考が正常に戻った私は、喉の奥から搾り出すように答えた。あまりの美声に警戒を緩め答えたが、聞かれたままに答えてしまう私もどうかしている。
「ほうほう、めぐみか。めぐみの上の名前は何なのだ? それでもって、漢字はどう書くのだ?」
彼女は鋭い眼を光らせて、私の眼の奥を覗いている。
「あ、はい。にしくるめだ めぐみです。漢字はこの様に書いて、西久留米田恵です」
私は問われるままに答え、掌に漢字を一字ずつ人差し指で書いた。
「――西久留米田恵、ニシクルメダメグミ、にしくるめだめぐみ」
彼女は眼尻にしわを寄せ、そのしわを右手人差し指で抑え、ぶつぶつと私の名前を連呼する。
「あ、あの。何か問題でもありますか?」
「ん、いや。そんなことはないのだが……いや、しかしながら、面倒だな」
「な、なんでしょうか?」
堪らず私は、尋ねる。
「君の名前は……長いな」
「そうですか……」
名前が長い。そう私は名前が長いのだ。この名前が小学生低学年の時にコンプレックスであった時もあったが、まさかこんな所で変態女に指摘されるとは! それに今改めて考えると、よい名前だ。指摘するこの女が変なのだ。そもそも、こいつは誰だ。そして、なぜ私が親から授かった名前にケチを付けるのだ。そう心の中で激しく思ったが、声に出すことはできず、そんなこと、それは、え、あ、など小さく呟くことしかできない。
「なにか、覚えやすいあだ名を付けたほうがいいな」
「いえ! けっこ……」
「マラゾンミーゴかクリップ・エリプトンのどちらがいい?」
私の断りを無視して、彼女はとんでもないあだ名を付けようとしている。そんな、八十年代のブルースギタリストみたいな名前を付けられてたまるか。どっちも嫌だ。何か良い名はないだろうか? そうだいい名前が一つだけある。
「あだ名は、『いわし』でお願いします」
私は即座に答えた。それにしてもお願いします、とは私は何を言っているのだろうか。