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第5幕 私

 走り出した私の足は、自然と駅の方向へ向かっていた。おそらく無意識内に、彼からもっとも早く、そしてより遠くへ離れる手段として、電車を選んだのだろう。

 ここでタクシーを選択しなかったのは、私が裕福な学生でない証拠の表れだろう。

 息を切らしながら駅に到着した私は、終点の梅田までの切符を迷わず購入する。改札を抜けホームに出ると、ちょうど電車は出発直前の合図を出しながら停車しているところだった。

 すぐに電車に飛び乗る。ドアがぷしゅ、と音を立て閉まる。

 車内はとても空いていて、私は一番近くの席に腰を下した。

 電車に揺られ、外の移りゆく景色を見ながら考える。この悪夢は何なのだろう? あの男は何者で、何が目的なのだろうか? いや、目的は卑猥な行為に決まっている。何故なら、私は美人なのだから。そう思えば、彼の顔もその様な変質的な様相であったような気もしてくる。そう思うと鳥肌が立ち、身震いをする。

 突如、一つの不安が浮かんできた。私は彼からの追跡を、逃れる事が出来ているのだろうか? その考えが頭によぎった瞬間、背筋がひやりとする。

 恐る恐る、車内を見回す。窓の外を眺めながら座っている小学生、吊皮を持って立っているスーツを着た男性、だらしなく床に座り込んでいる同じ大学だと思われる男女、隣の車両へ移動しようとする頭皮が寂しい老人。私は一人ずつ確認したが、彼は車内にはいなかった。

 ふぅ、と長い息を吐き、胸を撫で下ろす。これで一安心だ。完全に逃げる事が出来たようだ。

 安堵した私は、やっとくつろいで座席に座る事ができた。とりあえず今日は、彼からの恐怖に晒されることはないだろう。そう考えると、急に眠気がやってきた、電車の心地よい振動も加わり、瞼が次第に重くなってきた。私はその誘惑に身を任せ、眠りにつく。

 私が目を覚ますと、電車はまさに、終点の梅田駅に到着するところだった。ガラガラだった車内の席もすべて埋まっている。

 時計を見ると十二時を少し回ったところ。駅のホームに降り立った私は、少し戸惑う。それは当然である。特に予定もないのに、男から離れたい一心で、梅田まで来てしまったからだ。だからと言って、このままホームに立ちつくす訳にもいかず、私は人の流れに身を任せ、そのまま改札を出る。まるで海中を漂う海藻の様に。

 所在ない私は、とりあえず駅から出ることにし、駅前のショッピングモールで、ウィンドウショッピングする事にする。各店には一足早く次の季節の洋服が並べられ、店員は一様に薄着で接客している。

 しかしながら、どうも私は目的もなく時間を浪費するという事が苦手で、一時間もしたら飽きてしまった。私にしては一時間とは大健闘なのだが。こうして再び私は暇を持て余してしまう。

 ある本に、暇な時間を潰すことができる人は、教養を持ち合わせている人である。との記述を目にしたことがあるのだけれど、私にはその教養とやらがないのかもしれない。

 飽きてしまったなら、帰るという手もある。しかし、わざわざ電車に乗ってここまで来たのに、一時間程度で切り上げて帰るのも口惜しい。それに、私の家は大学の付近。つまり、あの男に会う確率は多分にあるのである。これなら、生徒が下校し終わった夜に帰る方が、絶対安全とまでも言わなくても、出くわす確率は、かなり低くなるはずだ。

 この様にして、私はこの場所に留まる決意をした。

 ふらふら歩いていると、私はかっぱ横丁と呼ばれている、古本屋が軒並ぶ場所まで歩いていた。

 そして、そのふらふらに身を任せ、ふらりと目の前の店に入ってみる。

 その本屋は、これぞ古本屋。という様子で、狭い店内には、埃をかぶり黄ばんだ本が山積みにされている。

 そこに積まれている本は、私には一生縁のないような小難しそうなタイトルで、値段もぼろぼろなくせに高い。一体誰がこんな、重い本を買うのだろう。漬物石にしか使えないわよ。それにしても、漬物石なんて考える私はおばさんみたいだ。

 そんな事を考えて一人で笑っていると、今まで置物のように動かなかった店主が、訝しげな視線を投げかけてきた、それに私は不快感を覚える。

 店主は私の顔を一瞥した後、太腿の方に視線を移動させ、その次は腰、そして胸で視線を止め、卑猥な笑いを浮かべる。

 なんて気持ち悪い糞爺なのだ。いっそこの世から消えてしまえ。神様どうかお願いします。と、私は無信仰者にも関わらず一心に願ったが、店主はこの世から消滅することなどなく、まだ私の胸を凝視している。

 そして、この怒りが次第にどんどん黒い塊となっていく。

「店主を困らせなさいよ」

 それがそう囁く。

「店主を困らせるって言っても、一体どうすればいいのよ?」

 私は自分に問いかける。

「あなたの特技を活かしなさいよ。うんと高い本を盗めばいいじゃない」

 私の中の黒い塊は、はっきりと言った様に感じる。もはやこれは私の欲望だ。

 もうその時には、私は本を盗難することを心に決め、それ以外の選択肢はこの世に存在しない。そんな考えさえ浮かんでくる。

 そして、私は辺りを見渡す。すると、なんと言うことだろうか、私のすぐ傍に非常に古く高そうな本があるではないか。おそらく神がこの本を盗むように配慮してくれたのだろう。しかもその本は店主の死角にある。

 もう、今の私には不思議にも失敗という二文字は頭の中から綺麗さっぱり無くなっており、店主のあたふたしている姿が手に取るように想像できる。

 今すぐ実行すれば、必ず成功する。逆に直ちに実行せねば、失敗して私は負け犬の人生を歩むのだ。そんな考えが思考を支配し、私はその本に迷わず手を掛ける。

 その本は見た目通り重かったが、なんとか落とさずしっかり掴む。

 そして、おもむろに鞄に入れようとした瞬間。私は本を持った手頸を、誰か他人の手によってがっしりと掴まれた。

 あぁ、私はなんて馬鹿なのだろう。なぜ周りも確かめずに盗もうとしたのだ。前回と同じ失敗をまた繰り返してしまった。

 思考は混乱し、目の前が真っ白になる。

 私は、俯いたまま身を硬直させて、相手が何か行動を起こすのをぶるぶると震えながら待つ。その時間は、何十分にも感じるほど長いものだった。


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