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第26幕 笹本太郎

 学校に行くことを陰鬱とさせる理由があった。それは、私の担任である石野三郎の存在である。今年で三十五歳となる石野は中々の長身の持ち主で、その体をさらに大きく見せるかのように全身に脂肪を纏っている。簡単にいえば肥満体なのだ。そして未だに独身だ。

 初夏に差し掛かるこの日、珍しく朝から登校していた。前日、部活動の時間に突然、玲子先生が明日は朝に陶芸をして、午後は部活動をなしにしようと提案したのだ。自分としては午前も午後も彼女に会いたかったが、そのように望むなら従う他ない。あなたが望むなら何でもしようではないか。

 こんな事を考えながら窓の外を見ていると、教室の扉が鈍い音を立てて開く。そこから、石野は巨体を揺らしながら中へ入って来る。黒板の前にある机の前まで大層ゆっくりと歩いて、教師用の椅子に腰を下ろす。椅子が限界まで下に沈み、サスペンションが悲鳴を上げる。まだそれほど熱くないのに、彼は全身が汗ばんでいて、眼鏡が蒸気で曇っている。右手に持っている使い古されて脂まみれになったサイドバックから、ハンカチを取り出し眼鏡を掛けたまま顔を拭き、そして薄くなっている頭皮の汗も拭おうとするが、ハンカチはすでにぐっしょりと湿っている。

 彼は目の前にいる女子のスカートから捲れ出た太腿を見ていやらしい笑みをふっと浮かべ、教室を見回す。石野はほとんどの生徒から嫌われていた。彼からはセクハラの噂が絶えず、女性を見る目は一様にいやらしさを持っている。それでも彼が教師を続けられるのは、彼のセクハラが実に巧妙で、常に微妙な線でセクハラを行っているからである。

 窓際の女子生徒がそっと窓を開ける。彼女はその窓から入り込んでくる新鮮な空気を必死で吸い込む。その姿を窓から離れた生徒は羨ましそうに見つめ、鼻にハンカチを当てる。

 彼が生徒に嫌われているもう一つの理由で最大の理由、それは体臭と口臭であった。

 彼の体臭は蠅でさえ恐れをなし、口臭は像をも殺すと生徒の間では噂されていた。それ程までに彼の体臭、口臭は強力なのだ。もはや生徒の中では「臭い」と「石野」は同類項である。そして何よりも問題なのが、体臭、口臭が強いという事を、石野本人が自覚してないことで、だからこの状態は一向に改善されず、一同はこのクラスになった事を毎朝後悔した。

 私も、同様にこの吐き気のする様な匂いに耐え切れず、窓を開けて外の新鮮な空気を吸引する。

「なんだ笹本。いたのか」

 突然名前が呼ばれたので、窓の方へと伸ばしていた顔を声の方へ向ける。

「お前など、もう学校など辞めていると思っていたぞ。もう会わなくてすむと思っていいたのにな」

 石野は汚いものでも見るようにこちらを見る。その言葉を無視し窓の方へ向き直る。

 この男は何故だか、私にやたらと突っかかってくる。そしてその理由が全くもって不明なのである。何かこの男に害を及ぼしたりした事があるのなら分からぬでもないが、心当たりがない。確かに私の学校への出席率は悪いが、何か悪さをする訳でもなく、ただぼうっと座っているだけである。これほど人畜無害な生徒がいるだろうか? 否、いないだろう。質問すらしないのだから。そもそもこの様な態度は、生徒を指導する立場として如何なものだろうか。

 気がつくとむかむかする様な臭いが強くなっている。石野がすぐ横に立っているのだ。彼の前腹は私の机の上に乗っている。なんて醜いのだ。

「昨日の夜に、誰かが学校に侵入して硝子を割って、廊下に納豆をばら撒いたらしいな」

 そう言えば、今日登校する時に割れた硝子を補修する為に張られた段ボールを見た。

「そんな事もあったらしいな。納豆をばら撒くとは中々面白い」

 その様な奴がこの学校にいるなら是非とも会ってみたい。

「お前がやっただろ」

「なんだと?」

「どうせくだらないお前の事だ、くだらない事をしようと思っても不思議ではないからな」

「何を言うか、やったのは俺ではない」

「こんな事をするのはお前ぐらいだと思うがな」

 本当に私がやったとは思ってはいないようだが、何かと私に嫌がらせをしたいようである。悪意がまざまざと感じられる。一々癇に障る男だ。話しているだけでも腹が立つ。

 私が黙っているのを見ると、ふん、と鼻を鳴らして、腹を揺らしながら元の場所へ戻って行く。鼻息すら臭かった。

 石野は数分間の陰鬱なホームルームを終えて教室から出て行く。悪臭のもとがいなくなったことで皆一同、安堵の表情を浮かべている。

「お前も災難だな。どうしてこうも石野に目を付けられるのか」

 笑いながら同じクラスの和泉和也が横の席に座る。

「知るものか」

「まあ、あの臭い豚の事は気にするな。あいつは頭がおかしい」

 和泉は長い髪を掻き上げて言う。端正な顔のこの男は、何故か私に馴れ馴れしい。私も好きでも嫌いでもない為、特に拒絶などはしていない。そもそも、あまり学校に来ていないためよく知らないのだ。

 私が知りうる彼の情報と言うのは、彼はその見た目から大層、女子生徒から人気があるようだ。そして、彼は話によると女癖が悪いようで、常に二股、三股を掛けているらしく。私からすれば羨ましい限りである。しかし、その様な性格でも尚も人気があるのは、彼の立ち回りの巧さゆえであり、学校では交際を表立たせないからだ。

 しかし、この話が出回っているではないかと疑問に思うかもしれないが、この話は本人談であり、何故か私にはこの様などうでもよい秘密を明かすのだった。恐らくあまり学校で見かけない私なら安全だと思い、彼自身も武勇伝として誰かに語りたかったのだろう。

「お前、今日の放課後暇だろう?」

「暇なことあるものか、俺は常に忙しい」

 全く忙しくなどなかった。だが、頭ごなしに暇だと決め付けられて、そうだと答えるのも嫌だ。

「俺は知っているぞ。今日の放課後は陶芸部の活動がないらしいじゃないか」

「何故それをお前が知っている?」

「井上に聞いたのさ」

 井上とは陶芸部の女子生徒だ。恐らく和泉の彼女の一人であろう。それにしてもこの男、どこまで女と遊んでいるのだ。

「そうか」

 なるべく、興味がなさそうに答える。

「ほら、暇じゃねぇかよ。だから学校終わったら俺に付き合えよ」

「何故、俺がお前みたいなむさ苦しい奴と一緒にいなくてはならないのだ。すなわち嫌だ」

「おいおい、俺はこれでも爽やかな好青年で通っているんだぞ」

「それは上面だけであろう」

「まあ、な」

 意外にも簡単に認めるものなのだな、と呆れる。

「笹本。お前、石野が嫌いだろう」

「もちろんだ。しかし、それと何が関係ある?」

 石野を嫌う事と、和泉に放課後同行する。全く関係ないように思われる。

「放課後、石野の後を尾行しようぜ」

 逆光で黒く陰った和泉の顔が、こちらを見て笑っている。


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