第23幕 笹本太郎
猿と命名された私は、多大な不快感と腑に落ちない気持ちが心の中で渦巻くのを感じながらも口には出さず、代わりに、焼酎お湯割り、と注文する。
玄爺のジョッキはすでに三杯目に入っており、それに負けじといたちも一息にビールを飲み干す。ところで、といたちがげっぷをしながら声を出す。
「ところで、猿。お前はなぜこの蛙と一緒におるのだ。この蛙といても問題が起こるだけであろう」
そう言って、こちらを笑いながら見据える。玄爺は、うるさいわい、と怒鳴ったが、いたちに睨まれると黙ってしまった。玄爺がここまでいたちに弱いのは何か訳があるのだろうか。しかし、いたちが言う事は当たっている。現に私は玄爺に会ってからと言うもの悪いこと続きである。
私はたった今、運ばれてきた焼酎を一口飲み、玄爺とここまで経緯を説明した。
私が女性を追って電車に乗り込んだ理由は伏せ、大学のお世話になっている教授を隣の車両で発見し、車両を移動しようとしたが、突如玄爺が現れ、じゃんけんをしろと訳が分からない事を言っている玄爺を可愛そうな老人だと慈悲の心で相手をしていたところ、なかなか勝つことができず。教授を見失ってしまった。そして、なぜか逆上した玄爺は私を引き摺り回し、隣町まで私を連れて徘徊し、途中、犬と会話などをしだしたりして、なんだか分からないうちにここに来てしまった。
とりあえず、でたらめだが全面的に玄爺が悪いと言う説明をする。この様な説明が出来るのも、玄爺はトイレに行ってなかなか帰って来ないためで、この際、自分に都合の良い説明だけしてやれと考えていたら、ほとんどが嘘の説明になってしまった。
いたちはその話を聞くと豪快に笑い、またビールを飲み干す。彼女の笑う声もやはり魅力的な力を持っていた。
そうしていると、玄爺がふらふらと席に戻って来た。彼はすでに顔を真っ赤にして完全に酔っているのが見て取れる。席に着くと同時にもう一杯注文を追加し、当然のようにいたちもそれに続く。
「玄爺よ、飲み過ぎだぞ。顔が茹で蛸の様だ」
「蛸ではない、茹で蛙だ」
いたちが横から入ってくる。
「蛸でも、蛙でもないわぁい、わしゃもっと飲むぞぉ。酒に飲まぇてやるわぃ」
「酒に飲まれては駄目であろう。それにさっきからかなり飲んでいるが、金は持っているのか」
「うるしゃい」
玄爺は呂律の回らないままその場でジタバタする。
「まあ、金なら私が払ってやらないでもないがな。なんせ今日は金があるのだからな」
「本当か? それならありがたい。今日は不運が続いて金がほとんどないのだ」
「礼なら玄爺に言うが良い。元は私の金だから、玄爺に礼とは変なのだが、まあ良い」
私はいたちが言う事が理解できずにいた。なぜ、いたちが私たちに酒を奢ると言う行為が、玄爺と関係するのであろうか。
「ちょっと待ってくれ。なぜ、そこで玄爺が出てくるのだ?」
「まあ、細かい事はええやないか」
玄爺が間髪入れずに話を止めようとする。顔を見ると先ほどの赤い顔も若干血の気が引いたようになっており、明らかに焦っている。それにしてもやはり蛙顔だ。
「猿、今日は一日蛙とおったのだろう?」
「そうだ、昼前からずっと一緒だ」
「なら分かるだろう。この金の事が」
そう言っていたちは無造作に封筒を掘り炬燵の上に放り投げる。
そうは言れても、封筒を見ていても何も理解できない。封筒を手に取り中身を見てみる。中には一万円札が数枚入っている。おそらくいたちはこの中の金で奢ると言っているのであろう。
しかしこの封筒……どこか頭に引っかかるところがある。私は以前どこかでこれを見た事がある気がする。封筒、一万円札、玄爺、一万円札、封筒、封筒、一万円札、一万円札、封筒、蛙、玄爺、封筒……コインロッカー……
なんと、今手にしている封筒とその中の金は我々がコインロッカーに入れたものではないか! 次の瞬間には玄爺の襟首を持ち、強引に左右に振り回していたのはもちろん私であった。
「玄爺。これがどういう事か説明してもらおうか。答えによったらただじゃおかないからな」
そう言って、さらに強く振る。
「おいおい、猿。そんなに振ったら、死んじまうぞ」
「この爺はこれ程の事では死なん」
「確かにそうだ」
そのまま振り続けていると、玄爺が何かを言ったようなので振るのを止め視点が定まらぬ目を見る。
「なにすんねん。死ぬやないかい」
「なにすんねん、ではない。これはどういう事なのだ、なぜこの金をいたちが持っているのだ。この金は今日パチンコで稼いだ金だろう」
「ほうほう、パチンコで稼いだ金なのか。しかも猿の金を渡すなど、とことんお前は腐れ爺だな。お前など蛙の恥さらしだ。世界中の蛙に謝罪しろ」
「なに訳の分らんことぬかしとんねん。いたちは口をはさむな。ほんで、猿は金の事は気にするな、過ぎた事や」
そう言って、うるさい蠅を追い払うように手をひらひらさせる。
「やれ」
いたちがそう言うと同時に、また襟首を掴み左右に振る。
「ふざけるのも大概にしろ。人の金を勝手に渡すとはなにごとだ。ちゃんと説明しろ」
「やめえと言ってるやろうが。老人を労わることを知らんのか最近の若者は」
「ではちゃんと説明しろ」
「分かったわい」
諦めたようにそう言い。続ける。
「わしはいたちに借金しとってん。ほんで今日が返済の日やったんやけど、金がなくて困っててん。そこでやがな。お前と俺がパチンコで儲けたとあったら、その金で返済する。それが常識ちゅうもんやろ」
「そんな常識あるはずがないだろ、この馬鹿蛙」
そう言って、玄爺の頭を平手で打つ。玄爺は、うわ、めっちゃ痛っ、と大げさに倒れこみ、ひどいわぁ、と嘘泣きをする。
「おい、蛙。それで、この猿にばれない様、この私ところに金を持って来ずにコインロッカーなんて面倒なところまで取りに来させたのだな。おかげでとんだ苦労だったぞ。それでどうせお前の事だ。今日この場で会わなかったのなら、本当の事を言わないでおくつもりであったのだろう。とんだペテン師蛙だな」
いたちは地面に倒れている玄爺をつま先で小突きながら言う。
これで玄爺の奇怪な行動も理解できた。なぜコインロッカーに執着したのか、なぜ金がなくなったのにも関わらずその後は落ち着いていたのか、そしていたちに頭が上がらないのは全てこの金の問題だったのだ。
「おい、玄爺。どう責任取るつもりなのだ」
その声を聞いて、玄爺は突然立ち上がり、低い姿勢で走り出した。その体捌きは華麗で、仰向けになった体を素早く反転させクラウチングスタートの様な体勢を作り、そのまま地面を蹴り飛び出した。あまりの早さに私たちは驚き反応することができない。しかし、玄爺は飛び出す先に柱があることまで把握していなかった。
勢いよく飛び出した玄爺は思いっきり柱に頭をぶつけ、ぎゃはひぃん、と今までに聞いたことのないような悲鳴を上げて倒れる。
「おい玄爺大丈夫か」
急いで駆け寄るが、玄爺の眼は白眼を剥いており、なんとも言えない恐ろしい形相にたじろぐ。
「死んでいる」
横にいるいたちが叫ぶ。その声を聞いた店内の客たちは一斉にこちらに視線を移し、状況を誤解した何人かは悲鳴を上げた。店内の騒然とした様子を察したマスターが小さな体を精一杯動かしこちらへ走ってくる。
「どうかしたのですか?」
「この、えっと、玄爺が、あ、どうしたものだ」
私は現状を説明しようとしたが、頭が混乱して言葉が出てこない。
「蛙は今、天に召されたのだ」
「なんですって!」
「彼の人生は不幸続き、顔も性格も富も名誉も恵まれず、辛い一生であっただろうが、天では幸福な時間が彼を待っているだろう」
マスターは慌てて玄爺の腕をとり、脈を診る。そして、こちらに振り向く。
「生きてますよ」
マスターは、ふぅ、と息を吐いて座り込む。私も全身から力が抜け、座りこんでしまう。
「なんだ、生きていたのか」
いたちは少しばかり残念そうな表情を浮かべ頭をかく。
「いたちさん、いたずらは止めてくださいよ」
そう言って、玄爺を端まで引きずって行き、毛布を掛け、なんでもありませんご迷惑おかけしました、と客の一人一人に謝罪してまわる。
突然、ところで、と話を切り出したのは、いたちだった。
「ところで、先ほど奢ってやる、と言ったが何もタダで奢ってやる訳ではない」
「どういうことだ」
「賭けをしようではないか」
そう言う、いたちの目には怪しい光が宿っている。