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第22幕 笹本太郎

「蛙ではないか」

 そう言った女性は店内中央の掘り炬燵に座っており、右手を大きく振りながらこちらを見ている。

 女性にしてはとても大きな体をしており、それは座った状態でもよく分かる。鼻筋の通った端正な顔立ちをしているが、何よりも印象的なのが目である。刃物の様にすらりと切れた目を携え、中の眼球は鋭く光っている。じっくりと観察していた私に彼女が一瞥くれる。その瞬間体の奥から委縮したのが分かった。私が長年に渡り遊び呆けて様々な種類の人間を知ってきた私の感が、こいつは只者ではないと警戒している。

「おい、こら。蛙よ。どうしたのだ。早く、こっちに来るのだ。金ならあるぞ、今日は金があるのだ」

 彼女はそう言って、玄爺を見据えながらにやりと笑う。今のやりとりは何を意味しているのだろうか。一方の玄爺と言えば、彼女の言葉を知らぬ顔で受け流して、違う席に座ろうとしている。

「おい、玄爺。あっちの席に行かなくて良いのか?」

 そう言った私の言葉を玄爺は厄介者を見るような視線で返し、掴もうとした私の手を払い除けた。そこで初めて分かった事だがどうやら玄爺は焦っているようなのである。髪の毛のない頭皮に薄っすら汗までかいている。しかし、彼女が知人であるのは間違いがない、そして彼女の方はどうやら好意的に玄爺を迎えているように見える。それではあまりに相手に対して失礼だ。

「何だ、その態度は。無礼でないか」

 そう言ったのは私ではなく彼女の方であった。彼女は立ち上がりこちらに向かってくる。立ち上がった彼女は私の想像以上に身長が高かった。彼女は飛びかかるように我々に接近したかと思うと、玄爺の肩を掴み激しく揺らした。玄爺は首がかくんかくんと左右に揺れ、そしてだらんと前に垂れる。

「おいおい、玄爺。もしかして、死んだのではないか」

 そんな事あるはずないと思いながらも、僅かに焦り、叫んでしまう。

「この爺はそんなに簡単に死にはしない」

 彼女はそう言って、再度玄爺の首を振り始める。

「こら、いい加減止めんかい」

 本当に死んだかと私が疑った時に玄爺は怒鳴った。顔を真っ赤にして蛙が茹で蛸になっている。そして、死ぬところやったやないか、とまた怒鳴り散らした。

「お前が無視するから悪いのだ。私が一体何をした」

 今度は襟首をもっと捻じり上げている。そろそろ本当に死んでしまうのではなかろうか。

「止めい、死ぬやないかい。今のはほんまに危なかったで。首がきゅっとなったわい」

「ええい、うるさい。四の五の言わずに私の席に来い」

 そう言って彼女はその腕を玄爺の後ろに回し、彼を軽々と持ち上げて、元の席に戻って行く。私は置いて気ぼりの感じは否めないが後に付いて行く。先ほどまで気がつかなかったが、彼女の席には水煙草と空のグラスが二つある。連れの人がいたのだろうか。

 彼女は玄爺を無理やり座らせ、そこを動くなよ、と言って、自分は向かいに移動する。私はどうしたものかと思ったが、そっと何食わぬ顔で玄爺の横に座り、あたかも自然に振る舞い輪に入ろうとした。実際、まるで何事もなかったかのように会話が始まる。何てことあるはずがない。彼女はやっと私の存在に気がついたようで、きりっと睨む。

「おい、蛙。こいつは誰だ?」

「こいつは、わしの舎弟や」

蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事だ。玄爺は強がっているようだが、声は小さく張りがない、視点も空飛ぶ蠅を追うようにきょろきょろしている。玄爺は彼女にさらに睨まれ、小さな体をさらに小さくする。

「蛙ごときに舎弟もなかろう。さしずめお前の厄介事に巻き込まれたのだな。名前は何と言う?」

 玄爺を平手で軽くぱんと気持ち良い音を立てて叩く。そして私の方を見る。

「笹本太郎だ」

「ささも、なんだって?」

「笹本太郎」

「笹本太郎か、字はこうで合っているか?」

 そう言って彼女は割り箸にグラスの水滴を付け、テーブルの上に漢字を書く。

「そうだ、よく分かるものだな」

 私は基本的に敬語を使わないと言うか、使えない人間なのだが、どこか彼女には普通に話すには恐縮してしまう凄味が存在する。しかしここは意地になりそのままで話す。彼女も嫌そうな顔をしないので問題はないのだろう。

「笹本太郎なんて、この他に書きようがなかろう」

「確かにそれはそうだ」

「笹本太郎、ささもとたろう、ササモトタロウ……」

「どうかしたのか?」

「いや、大した事ではないのだ。しかし……」

「また始まったわい」

「おい玄爺、どう言う意味だ」

「笹本太郎……いや、駄目だな」

「一体何が駄目だと言うのだ。これでも親が付けてくれた立派な名前だぞ」

 たぶん、と心の中で囁く。

「お前の名前は……平凡すぎる……」

 それを聞いた瞬間、頭に電流が流れたように痺れ、ぼんやりする。そうなのだ、私の名前は平凡すぎるのだ。あまりに平凡な為、他人が私の名前を忘れることもしばしある。そして何よりも、親は私の名前をちゃんと考えたのであろうか、そんな疑問を今まで持ち続けてきた。太郎ではなく、漱石、龍之介、乱歩など私にふさわしい名前など沢山あるだろう。笹本鴎外など格好いいではないか。しかしながら、さすがに今会ったばかりの赤の他人に指摘されるのは腹が立つ。私の名前がいくら平凡であろうといい迷惑だ。

「うむうむ、何か良い呼び名がないものだろうか……」

「良い呼び名?」

「そうだ、良い呼び名であって、呼び易い名で、覚え易い名だ。ちなみにこいつに蛙と命名したのは、何を隠そうこの私だ」

 隠すも何も先程から薄々分かっていた。一方蛙はと言うと甚だ不愉快な顔をして、いつの間に注文したのやらビールをぐいっと飲んでいる。

「タツノオトシゴなどどうだ」

「それは呼び難いし、覚え難いだろう」

「では、オトシゴにしよう」

「落とした子供みたいで訳が分からぬ」

「ええい、文句が多い奴だな。もうお前など猿でよい」

「それは、なぜ?」

「お前に生物学的観点から一番近いから。まあそんなところだ」

「どんなところだ。それなら人類全員そうであるはずだ」

「じゃあ、ナマコにするか?」

「……いや、猿でいい」

 こうして私は猿と命名された。一時、猿とナマコの二者択一を迫られたが、哺乳類で人間の祖先である猿を私は迷わずかつ迅速に選択したのだ。

 玄爺は早くも酔いが回ったのか、私を指差し、よう見たら猿に似とるわ、と蛙顔で大笑いしている。

「私はいたちだ」

 彼女、改めいたちはそう言い、右手を差し出す。私をそれを握り返した。


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