第21幕 笹本太郎
十二万円もの大金を失ったと言うのに、私は時間が経つにつれて、自分でも驚くほど平静さを取り戻していた。
それはあの金がギャンブルで儲けた金であるのと、玄爺との出会いやパチンコで大勝ちしたくだりなどが自分の頭で何度反芻しても理解不能の事態である為に、金がなくなることの驚きが半減されたとしたとしても不思議ではないことである。
そして今、私は玄爺の後に続き東通りを歩いている。コインロッカーの一件後、玄爺は私に対して気を使ったのか、はたまた、気紛れか、私を酒に誘ったのだった。私は確かに酒を大いに飲みたい気分でもあったのでその誘いを了承した。
どうやら玄爺には、行きつけの飲み屋があるようで、迷わず右へ左へ進み、細い裏路地に入って行く。脇に置かれたポリバケツやところどころにある水溜まりを我々は避けて進み、私は来た方角が分からなくなった時に、ようやく玄爺は止まった。
「ここや」
どうやら飲み屋についたようだ。私は弾んだ息を整えながら周囲を確認する。私が立ち止まっている裏路地は薄暗く、壁から突如出た管からは水滴が垂れ下に小さな水溜りを作っている。その横の排気口からは煙が空へ立ち昇りその煙はどこか果物の様な香りがするように感じられる。
なるほど、どうやら店の裏の様だ。しかし私の目のつくところに裏口らしきものはなく、ただ木目の壁があるだけだ。
「おい、玄爺。ここが飲み屋なのか?」
「おお、そうや」
「しかし、裏に来ても仕様がないだろう。裏口もないようだし、さっさと表に回って飲もうではないか」
「まあまあ、待て。せっかちはこれやから困るんや」
やれやれ、と言った風な表情を浮かべる玄爺に私は少なからず怒りを覚えたが、ここは怒りを抑え彼の行動を見守る。
玄爺は木目の壁に近づき、それをじっと見つめる。そして、壁に両手を当て擦り始めた。少し周囲を誘った後、ここやな、と呟き、細い骨だけの様な腕で壁をぐいと押す。すると壁だと思っていた場所がまるで忍者の回転扉の様に中心を軸に回転し、店内へ通ずる裏口へと変わる。
「驚きやろ」
玄爺はまるで自分が凄い事をしたかのように私に向って問いかける。私が、まぁ大したことないな、このような仕掛けだと初めから思っていた、などと言うと明らかに不愉快な顔をして、何言ってんねん、と怒りだした。
玄爺と私はほんの少しの間、口喧嘩をしていたが、お互いに無意味なことを自覚していた為すぐに切り上げ、玄爺の案内で店内に入って行く。
その回転扉を入るとそこは厨房であった。白い割烹着を着た料理人が忙しそうに動き回り、パスタやらチャーハンやら寿司やら万国料理博覧会の様な各国の料理をすごいスピードで調理している。そして何よりも気になるのが、料理人すべてが二メートルあろう程の長身で、しかも外国人なのである。人種も様々で黒人の男性が寿司を握り、アジア系の女性がパスタを茹でている。そんな大きな人間が持つ調理器具は異様に小さく見え、盛りつけられた量も少量に見えてしまう。
豪快に振るまう鍋から飛び上がる野菜や米に見とれていると突如、横で誰かに呼ばれた様な気がした。その声がしたと思われた方向へ視線を動かすが、そこには誰もいない。
「お、マスター久しぶりやな」
気のせいかと思ったその時、横の玄爺が目線を下げて言葉を発した。私もその目線につられて首を下へと傾けると、そこには小さな男性がいる。小さいと言っても、彼の場合小さすぎる。身長と言ったら私のへそよりも少し大きいぐらいなのである。そして、一般男性をそのまま縮小した様な体格はとても違和感がある。
「蛙さんじゃありませんか。お久しぶりです」
彼の声は何故か甲高いものであると勝手に想像していたのだが、その予想は外れ、しっかりとして大きな声だ。
「蛙?」
私が思わずそう発したのを聞いて、マスターと呼ばれる男性は私の方をしっかりと見据え、この方は? と愛嬌のある笑顔を浮かべ玄爺に尋ねる。
「こいつはわしの連れや、ちゅうても今日会ったばっかりなんやけどな。舎弟みたいなもんや」
「誰が、お前の舎弟だ。この骸骨爺。ところで蛙と言うのは?」
「その事はどうでもええねん」
玄爺は不快そうに手をぶらぶらと振って、顔をしかめる。
「蛙と言うのはですね。玄介さんのあだ名なんですよ」
マスターは玄爺の代わりに答える。なんだか、そう言われると玄爺の顔はすこぶる蛙に似ているように見える。いや、似ているなのではない。そっくりである。もはや、彼は蛙だ。蛙にしか見えない。突如可笑しくなって笑いが溢れてくる。何とか呼吸を落ち着けて、顔を上げるが、そこには玄爺の顔があり、また笑いが止まらなくなる。
「玄爺、その顔をなんとかしてくれ」
笑い過ぎて、あまりに苦しく、はあはあ言いながら言葉を絞り出す。しまいには涙も溢れてくる。
「このド阿呆、人の顔を見てげらげら笑う奴がおるか」
「しかしだな、玄爺。お前の顔は毛のない蛙だ」
「お前もあいつと同じようなこと言いよる。そもそも蛙には毛などないんや」
玄爺は顔を真っ赤にして怒っている。なかなか的を得ているあだ名なのだが、当の本人はお気に召してはいないようだ。マスターの視線を移すと、呆れた顔をしながらも、まあいいじゃないですか、と小さな手で肩を叩きながら宥めている。
「ところで、この匂いはリューヤかい?」
玄爺がさっきの怒りはどこに行ったのやら、一変してにこやかに尋ねる。
「はい、上物を今朝入荷したのです」
「上物とな、それは試さなあかんな」
「玄爺、リューヤとは?」
どんどん進んで行く会話に思わず割り込む。
「この店はな水煙草を吸う事が出来るねん。ほんで、水煙草に使う香料、つまりは味付けみたいなもんやな、その一つがリューヤやねん。ほら、そこにある容器が水煙草のもんや」
そう言って奥の棚を指差す。なるほど前から水煙草の存在は耳にしていたが実物を見るのは初めてだ。長い筒の下に水が溜まり、そこから吸引用の管がある。はたしてどのような味なのだろうか。
「どれどれ、興味津々って顔やな」
玄爺は私の顔を覗いて言う。そして、行くで、と言って、厨房から店内に入って行く。
店内は異様に細長く、そして、なぜか並んで設置されている掘り炬燵がその異様さを増長させている。細い店内の細い廊下には、着物を着た店員がそそくさと往来している。異様と先ほどから述べているが、どこか懐かしいようで温かい感じもする。そうまるで実家に帰ってほっとする、そんな感じに似ている。
その時である。おい、と向こうから女性の声が聞こえた。とてもハスキーな声で、聞き惚れてしまいそうな声である。実際、店内の客、店員も少しの間彼女の声に捕らわれ、会話や作業を止めていたかのようにも思えた。
「蛙ではないか」