第2幕 笹本太郎
私、笹本太郎は大学受験に二回も失敗し、さらには第一志望の大学に落ち、第二志望の大学にも落ち、第三志望の大学にさえ不合格を宣告され、やっとの思いで第四希望の三流大学に入学した。
大学名を聞くと、親族一同は苦い顔をするような大学だったが、私は二年間のニートと言っても、大して違わない生活と別れを告げる事ができる喜びで、入学当初は勉学の意欲で溢れていた。
しかし、結局私は二年間も大学に落ち続け、県外の人は名前すら知らないような大学に入学した男。そうそうこの負け犬根性は直らないもので、前期を終えた時点で私は大学に学費という名の募金を献上し続ける、ダメ学生になっていた。
私が大学に入って学んだ事と言えば、体に悪いアルコールの摂取方法と麻雀と単位の落とし方である。
そんな私が、昨夜は飲み会であったのにもかかわらず、本日は珍しく朝から大学の講義を受けている。
その理由は実に明快。私が只今、受講している講義に、私が恋い焦がれている女性がいる為だ。
その私の心を捕えて離さない彼女は、斜め前の席で教授をぱっちりとした黒く美しい瞳で見つめている。このくだらない講義で教授から目を全く逸らさない彼女は、真面目で美しい心の持ち主である現れである。
彼女と出会ったのは、ちょうど一週間前。大学前に住んでいる友人の家で、昨夜許容量以上の酒を飲み続け、酷い二日酔いになっていた。
朝起きると、家主は便器を抱えて眠っていた。喉が大変乾いていたので、机の上のグラスを飲み干し、むせながらその場に倒れこんだ。グラスの中身は昨晩飲んでいた焼酎であったのだ。今度はちゃんと水道から汲んだ水を飲み、空腹を満たすために食料を物色する。しかし、この友人の家には酒とそのつまみしか存在しない、それにつまみの床に散らばっており、食べれる様子ではないが、そのうちの数個を拾い上げ食べる。だが、この様な物では今の胃袋を満たすのは到底無理だ。
そこで、私は思い頭を持ち上げ、ひたひたとまるでB級映画のゾンビの様に、隣にあるコンビニまで歩いて行った。
通常よりも三倍程の時間を掛けてコンビニに辿り着き、中に入る。店員の、いらっしゃいませ、との挨拶が頭に響く。重くなった頭を抱えながら、店の奥へ進む。適当に二人分の食料を目につく順番に掴み、ふらふらとレジに向かった。
私は下を向いてレジへの細い通路を進む、レジまでの道のりがあまりにも遠く感じる。
ふっと顔を上げると前方に女性がいると分かった。このままでは衝突する。避けよう避けようと頭で思っているが、思考の速さに体が追い付いてこない。そして、女性が前にいることが分かっていながらも衝突してしまった。
私は後ろによろめき、彼女は小さな悲鳴を上げ横に倒れ伏し、買おうとしていた文房具や化粧品がばらばらと地面に散らばった。
「も、申し訳ない」
私は即座に謝罪し、彼女を見た。
この瞬間、私の脳裏に雷のような電撃が走った。彼女の吸い込まれるような黒い眼、黒い髪、すらっとした長い脚、小さな顔に柔らかそうな唇、口元のホクロ、その全てに恋をした。この女性は世界で一番美しく、運命の人であると直感した。
ところが、彼女は顔を真っ赤にして私の顔を見つめ、何も言わず、走ってコンビニの外に行ってしまった。残された私は、彼女の事を思いながらその場に立ち尽くすしかなかった。
もうこの時には完全に酔いは醒めていた。
この様にして恋に落ちた私は、可能な限りの情報網を駆使し、彼女の出席している講義を突き止め、彼女から斜め後ろ席を確保する事に成功したのである。
今、彼女との距離は、わずか五十センチ程。見れば見るほど美しい女性である。私はこの奇跡の様な美しい女性を産んだ両親に感謝し、その両親を産んだ両親にさらに感謝したい。あぁ、ありがとう。
彼女の周りの空間が暖かさに包まれているように感じるのは、彼女の無垢な心、純白の精神がもたらす恩恵であろう。彼女の行動すべてが神々しく見える。
彼女は自分の横に置いてある可愛らしい赤いバックの中に手をやる。何かを探しているようだ。
その時、彼女の視界が私を捉え、そして私たちは見つめ合った。心臓が跳ね上がり、呼吸は浅く、脈が速くなるのが分かる。
私の顔を見た彼女は顔を真っ赤にし、即座に前を向いた。
私はもう有頂天だ。彼女が私を見て赤面して前を向く。つまり彼女は私の事を記憶していたことではないか! やはりこの世に神はいた! 私にも春が来た! 飛び上がって叫びそうになるのを、我慢して机の下でガッツポーズをする。
こうして私は講義終了後、彼女に声をかける事を心に決めた。