第18幕 二階堂玄介
「おい、玄爺、どこへ行くのだ?」
その声を聞いて、二階堂玄介は階段を下りるのを止めて振り返る。
そこには生意気な餓鬼、笹本太郎が不満そうな顔をして立っている。無精髭を生やし、服装もだらしないがよく見るとなかなか整った顔をしている。わしから見れば頼りないが、今風にいえばイケメンと言うやつだろう。長身の上、階段の段差もあってかなり頭を上へと向けないと顔が確認できない。
「ちょっと寄るところがあるんや」
「どこに?」
笹本は同じ段まで降りて来て尋ねる。それでも身長差はかなりある。
「ちょっと古本屋に行こうと思ってんねん」
「古本屋? 古本などいつでもいいだろう。それよりもさっきコインロッカーに金を入れると増えると言っていたがいつ開けるのだ?」
「あほ、何言っとんねん。古本ちゅうのはな一期一会なんやで、今あったもんが明日もある保証はないねん。ほんで、コインロッカーの事はちょっと待っとれ、開ける時になったら教えたるさかい」
「古本も例の天使の知らせなのか」
笹本は人差し指をくるくる回し、天使の輪を空中に描く。
「古本は勘や、多分ある」
そう言うと、笹本は、また勘だよ、と不満の様子を呈したが、その後何も追随してこない様子を窺うとどうやら素直に従うようだ。パチンコ店で大勝ちした事で、わしの勘もそれなりの信用を得たようである。しかしながら、今回は勘などではないが、それは口が裂けても言えない。
梅田駅は先ほどよりも人が増え混雑している。紀伊国屋の横の大画面では、多くの人が待ち合わせの為だろうか溜まっており、携帯やテレビ画面を見ながら立っている。
高架下の細い道を人とぶつからぬ様に歩いて行く。笹本もどうやら後ろからおとなしく着いて来ているようだ。
五分程歩いて、かっぱ横丁の古本通りに到着する。そこで一番初めに目に入った古本屋の扉を開け入る。扉を開けるのと同時にカビの臭いが鼻につく。すぐに笹本も入り、カビ臭いな、と声を出して文句を言う。店主は我々に気づいていないようで、新聞を読むのを止めない。
「何て言う本を探しているのだ? 一緒に探してやる」
笹本がそう言ったところで、初めて店主が新聞から目を離し一瞥する。そしてすぐに新聞に目を戻した。
「超古代科学研究読本じゃ、探してくれ」
「変な爺は読む本まで変なのだな」
笹本は、変人、変人、と連呼しながら本を探し始める。
笹本が本を探しに奥の方まで行っている。それを確認し、手元にある小さな箱を手に取る。その箱はとても綺麗な装飾がなされていて、実際に値段も高かった。それを確認して、中にコインロッカーの鍵を入れる。
そして、そっと元の場所に戻す。
「おい、玄爺」
そう呼ばれた時は心臓が止まるかと思った。振り向くと笹本が立っている。今の行為を見られたのだろうか。おっかなびっくり顔色を確認する。
「驚いて心臓が止まるところやったわい、なんや?」
「なんやって、こっちこそ何だよ。玄爺が本を探せって言って、見つけたから声をかけてやったのだ。超古代科学研究読本、これだろ」
まさか本が見つかるとは思ってなかった。なんせ本を探していたのは嘘で、本のタイトルも出鱈目に言った。なるほど、手には古く大きな本が一冊持たれており、タイトルにはしっかりと超古代科学研究読本とある。まさかこんな変てこな本が存在するとは。笹本は、一期一会だな、と笑う。
「あ、本はやっぱり買わん事にしたわ、すまん、すまん」
「はあ? じゃあ、何の為にここまで来たのだ」
「すまん、て言ってるやろ、よう考えたら今そんなに金も持ってないしやな、本がそんなにでかいと持って歩けへんやろ」
「俺がどれだけ探したと」
そう言って、笹本が騒ぐので店主が何事かとこちらを見る。すまん、と平謝りをしてなんとか落ち着かせ店の外に出る。それでも、笹本は、訳が分からない、呆けとは恐ろしい、などとぶつぶつ言っている。
その時突然、携帯電話が鳴った。軽快な着信音が会話を止める。携帯電話の画面で発信者の名前を見て、取るかとどうかを躊躇している間に切れてしまった。
「最近の老人は携帯電話持っているのか」
笹本は何か珍しい動物でも発見したかのように感嘆をあげる。
「近頃の老人をなめるんやないで、情報化社会や」
「なにが情報化社会だ。ところで電話に出なくてよかったのか?」
「いや、今かけ直すわ。誰も電話に出んわやな」
笹本は、ん? と顔をしかめる、どうやら駄洒落が理解できなかったようだ。もう一度、駄洒落を説明する。これほど惨めな物はない。何でもないわ、そう言って誤魔化すしかない。
「ちょっと、かけ直すから、お前はちょっと離れておれ」
手をひらひらさせて向こうに行くように促す。
「なんで、向こうに行かねばならんのだ。ここでかけたらよかろう」
「お前はな、プレビュートと言うものを知らんのか。電話を聞かれるちゅうことは恥ずいことなんや」
「玄爺よ、それを言うならばプライベートだ。少し惜しいが意味が全然違うぞ」
「まあ、どっちゃでもええねん。兎に角、一人でテレフォンさせてくれ」
「無理に英語にするのでない。まあ、そこまで言うなら仕方がないな。長電話するでないぞ」
笹本はそう言って、ふらふらと離れて行き、近くの小さなベンチに腰を下ろす。それを見計らって、携帯電話と取り出し画面を見る。日ごろあまり活用しないので、操作に戸惑うかと思ったが、以外に以前の使用方法を記憶しているもので、すぐに着信履歴を見つけ、電話をかける事が出来た。まだまで呆けててはいない人生これからだ。
電話のコール音が三、四度なり、ぴっ、と小さい音が鳴る。どうやら相手は電話をとったようだ。
「いたちか?」
「携帯電話はその相手にしかかからぬのだよ。久しぶりだな『蛙』。さっきはどうして電話に出なかったのだ?」
蛙とは電話をかけている相手、いたちが勝手に付けた名前だ。彼女は初対面の相手にあだ名付けたがる癖を持ち、実際に本人の意思は無視してあだ名を付ける。それで、わしは蛙と命名されたと言う訳である。
「さっきはすまん、電話に出れんかったんや。それにしても、蛙は止めい。わしには二階堂玄介って名前があるんやぞ」
「電話に出んわ。全く。蛙は蛙だ。お前の顔はどこから見ても毛の無い蛙ではないか」
「もともと蛙には毛が生えてへんわ」
そう声を張り上げると、もしかしたら笹本に怪しまれるのではないかとそっと見たが、まだベンチに座って前を見ている。何をそんなに熱心に見ているのかと思ったら、道行く女性を見ている。まったく最近の若者ときたら。そんな事を考えていると、ところで、といたちが話を切り替えてきた。
「ところで、そろそろ金を返してもらえるだろうな。約束の期限は昨日までのはずだったぞ」
いたちは声のトーンを一つ下げて言う。彼女の声は毎回思うのが、とても魅力的だ。それは電話越しでも変わらない。しかし今はその様な事を考えている場合ではない。
「今はその事で、電話したんや」
「私が先にかけたのだろう」
「まあ、そうやけど、兎に角、返す金は用意できたわ」
「ほう、十二万きっちりか?」
「そうや、十二万きっちりや」
「では、取りに行こうではないか、蛙よ今どこにいるのだ?」
「今はかっぱ横丁におる。しかし、ちょっと事情があって、手渡しは出来んねん」
「手渡しが出来ぬとはどういう事だ、おい蛙。それでは受け取れないではないか」
いたちの怒気の混じった声が電話から聞こえる。
「まあ、こっちにもいろいろ事情があるんや、ほんでな、いたちにはちょっと手数かけるんやけど、かっぱ横丁に古本屋があるやろ。その古本屋の、えっと、なんちゅう名前やったかいな? ちょっと待ってな。そうや、そうや、本本堂ちゅう本屋があるさかい。そこに入って欲しいねん」
おい、本屋とはどういう事だ、そう言ういたちを制して話を続ける。
「本本堂にな、入ってすぐの所に綺麗でちっちゃい箱があるねん。その箱の中にコインロッカーの鍵を入れたさかい、それでコインロッカー開けてくれ。中に金が入ってるわ」
早口で一気に言う。
「何でそんなに面倒な事をしなくてはならんのだ」
「こっちにも理由はあるんや」
「本当にコインロッカーの中に金は入っているんだろうな」
電話越しにも眉間に皺を寄せ、人差し指で押さえているのが分かる。それは彼女の癖だ。
「間違えなく入っとる。阪急梅田駅の中二階のコインロッカーや。番号は鍵に付いているからそれを見てくれ」
「本当にややこしい老人だな。まず本本堂の箱だな。だが、どんな箱なのだ?」
「装飾が綺麗な箱や、入ってすぐの所にあるわ。箱はその箱しか置いてないから簡単に分かるはずや」
「買われることはないのか?」
「めっちゃ高い値段やったから、大丈夫や」
「なるほど、私が手間をかける理由は分からぬが、まず箱を盗めばいいのだな」
「おい、おい盗むって――」
そう言う前に、電話は切れていた。不通を伝える電子音が空しく響く。確かに盗むと言っていた。いたちならやりかねない。まあ、そこは彼女の問題だからどうでもよいが。
笹本は電話を止めたのに気づいだようで、こちらに近づいてくる。
「どうやら、俺の天使に勝る美女はいないようだな」
手をひらひらさせながら、いない、いない、と続ける。
「なに、訳分からんこと言ってるねん。ほら行くで」
「行くって?」
「兎に角、ここじゃない所に行くんや」
「また、適当な」
そう言いながらも笹本は後から着いてくる。意外に素直な奴なのかもしれない。こうして二人そろってかっぱ横丁を出る。さてどこに行くものか。