第16幕 いわし
「いわし、大丈夫か?」
いたちはそう言って、私の肩を軽く叩く。
「あ、はい。私はどうしてここに?」
「そんなこと、私が知るものかい。いわしが、ふらふらっと出て行って、なかなか帰ってこないものだから、探しても店内にいないし、外かな、と思って出てみるとそこにいたのだ」
私を指さして言う。
「あ、そうなんですか……でも、私はアメリカ村に」
「アメリカ村? おいおい、ここは梅田だぞ」
私を指した指で額を小突かれる。
「私は一体どのくらいここに?」
「うむ、大体一時間と少し経ったぐらいだな」
「一時間も!」
私は驚愕する。おそらく私がアメリカ村にいたのは夢の様なものだろう。それにしてもそんなに長い時間だったとは驚きだ。
「いい夢は見れましたか?」
その声を聞いて初めて、私のすぐ横にマスターがいる事に気がついた。
「あの水煙草の香料は特別でリューヤと言います。意味はトルコ語で夢」
「夢ですか……」
「そうです。リューヤを吸った者は夢を見ます。夢がどのようなものか、毎回違うものですし、深い夢もあれば浅い夢もあります。いわしさんの場合は深い夢だった様ですね」
マスターはふっと笑みを浮かべる。そして、どうでしたか? と加える。
「なんだか、すっきりすると言うか、吹っ切れたと言うか、何と言うか。でも、心の霧が晴れたような気分です」
本当に先日までの心の鬱憤やらが綺麗さっぱりなくなっている。そして右手で握り拳を作る、そこには僅かに和也を殴った感触が残っている気がする。その感触を確認すると、あれは本当に夢の事だったのだろうかと思う。その拳を見ていたちは、おいおい暴力はダメだぞ、と大げさな声を上げる。
「いたちさんはどんな夢を?」
私は尋ねる。
「おいおい、人の夢を詮索するなんて野暮なことは止しとくれよ。夢はその人だけのもの、共有する必要なんてないものだろ。心にとどめているからこそ夢は夢のままで存在できるのだ。それにいわしだって、見ていた夢を私に語りたくはないだろう」
「まあ、そうですけども」
確かに自分の夢は語るものではないな、それにしても、いたちもたまには良いことを言うものだ。
「ところで、いたちさんは私が外にいる間は何をしていたのですか? もしかして一人でずっと飲んでいたとか……」
「ちょっと一勝負があってな」
「一勝負?」
「そう、一勝負」
そう言って、力こぶを作る。あれは、なかなかの勝負でしたね、と言ってマスターは口を手で覆い笑う。
「一体何があったんですか?」
そう尋ねる私を、いたちは、まあまあ大したことではないさ、と軽くかわす。
「それよりも、もうすぐライヴ会場に行かないとチケット手に入らないぞ」
「あ!」
大声を出したので、道行く人達は何事かと私の方を見る。声がでかい、と頭を叩いたのはもちろんいたちだ。
「早く、行きましょう、早く。マスター、会計をお願いします」
そう言って、財布を鞄から出そうとする私の手をいたちは制する。
「私が払うからいいさ」
「でも、私も飲んだし」
「年上に少しでもいい恰好させなさい。それに金ならたんまりある」
いたちは懐から、先ほどの十二万をちらりと私に見せた。
「それは、人の金でしょう」
そう一応忠告したが、会計は当然のようにそこから支払われた。
「では、行こうではないか」
私はマスターにお礼と、また必ず来ますから、と言って、いたちとその場を去った。
それにしてもいまだに残る拳の感触を思い返し、不思議な時間だったなと再び思い返さずにはいられなかった。