第14幕 いわし
「水煙草はいかがですか?」
横を見るとマスターが立っている。掘り炬燵に座っていても私と目線はそれ程変わらない。
「おい、マスター。例のものはあるか?」
いたちはビールジョッキをどんと机に置き、ぶっきらぼうに尋ねる。
「いたちさんは本当に運のいいお方だ。今日の朝に入荷したばかりなのですよ」
「ほほう、それは運がいい。この前は品切れだったからな」
「申し訳ないです。しかし、その苛立ちを物にぶつけるのはやめていただきたいですよ」
そう言って壁を触り、ここに穴が空いたのですよ。と苦笑いした。今の話の流れだと十中八九いたちが壁に穴を開けたのであろう。
「脆い壁がいけないのだ。少し小突いただけで穴が開くのだから困ったものだ。それにきっちり弁償しただろう」
「そうです。お金はちゃんと頂きましたし、何も文句はありませんよ」
マスターはそう言い、両手を上げて降参のポーズをしながら下がっていった。その背中に向かっていたちはもう一杯と大声で叫んだ。
「例のものとは一体何なのですか?」
先ほど、いたちが注文した例のものの正体が気になって尋ねる。
「水煙草だ。でも少し特別なのだ」
「特別?」
「そう。水煙草には果物の香料を使用するのは説明しただろう。その香料が特別なのだ」
「そう言いますと?」
「詳しくは知らぬが、どうやらいろいろな果物がブレンドされているらしい。とても美味いぞ」
煙草を吸う真似をしながら言う。そして、水煙草よりも一足早く運ばれてきたビールに手を伸ばし口に運んでいる。
水煙草は私が思っていたよりもすぐに運ばれて来た。大きな形をしているから、きっと準備も大変であろうと思っていたがそうではないようだ。マスターはその小さな体からは想像もできない程の力の持ち主の様で、大きな水煙草を片手で支え、反対の手でチューブを持ちながらやって来た。
「お待たせしました。いたちさん、これはなかなか上物ですよ」
いたちは満足そうに笑い。御苦労とマスターに言った。
「いわしさんも楽しんでください。この水煙草は特別なので吸い過ぎにはご注意を」
「吸い過ぎると危険なのですか?」
私は驚いて尋ねる。
「普通の水煙草は、煙草と大差ないです。むしろ、ニコチンやタールの量が少ない為、健康には煙草よりもいいです。しかし、この香料は特別です。体に害はありませんが、酔いに近い状態になります。まあ酔いとは違うのですけど、それは吸ってからのお楽しみと言う事で」
「それはもしかして、ドラッグってことですか?」
「いいえ、いいえ、いいえ、断じて違います。ドラッグなどでは断じて違います」
マスターは短い手足をばたばたとさせて、否定する。まあこんな所で堂々とドラッグを販売している訳もないだろう。ひとまず違法ではないと言う事か……
私とマスターが話している間にすでにいたちは吸い始めている。彼女はぼこぼこと大きな水疱の音を立てながら吸い込み、ゆっくりと煙を吐いていく。
「ほほう、マスター。これはなかなかではないか。以前より段違いで良い」
「そうでしょう。ここまでいいのは年に一度あるかないかですよ。いたちさんの様な常連さんにしかお出ししていないのですよ。では、楽しんでください」
そう言ってマスターは戻って行く。その背中に向かって、生一丁と叫んだのは言うまでもなくいたちである。
「どうなのですか? 一体どんな味なのですか?」
私はたまらず尋ねる。
「百聞は一見にしかず。まあ、吸ってみたまえ」
そう言って、いたちは私にチューブをよこす。私はおっかなびっくりそのチューブを持ち、そっと口に運ぶ。少し吸い込もうと試みたが何も口に入ってこない。それを見ていたいたちがもっと思いっきり吸え、と言う。今度は思いっきり吸いこんでみる。するとごぼごぼと音をたてて煙が水を通り、そして私の肺にまで入って来た。煙は喉を焼くような感じもなく、とてもクリアだ。一言で言ってしまえばとても吸いやすい。
煙が肺を満たし、しばらくするとポッと体が温かくなってきた。そしてはき出す煙はとても芳醇な香りがする。その香りは様々な果物の香りがするのだが、自然と統一されていて、まるでそのような果物があるかのようにさえ感じられる。少ししてから、口の中に暖かく甘みのある味が広がってきた。私が今まで食べたどんな果物よりも甘い。
「いたちさん、すごく美味しいです」
「だから言っただろう。これは特別なのだ」
「でも、マスターが言っていたような効果はないですよ」
「そんなにすぐに効くものではないさ、人それぞれだし、何も起こらない人もいるらしいぞ」
「そうなんですか、それにしても美味しいです」
「マスターも言っていたが、こんな上質な物はなかなかない」
そう言って、もう一度吸い込む。あまりの美味しさに体中の力が抜けるようだ。先ほどと同じように吐き出した煙を消えて行くの目で追う。
「いつまで吸っているのだ、早く渡したまえ」
いたちは待ち切れないとばかりに私に言う。わたしはそれに従いチューブを渡した。
その瞬間、私は違う場所にいた。