第13幕 いわし
目の前のレモンサワーを眺めながら、私はなぜこんな所にいるのかと考える。目の前にはもちろんいたちがいて、彼女は今まさにビールを飲み干そうとしている。
コインロッカーから、十二万円もの大金とねこばばした私たちは梅田駅を出た。
そして、人通りの少ない場所で立ち止まり、興奮と後ろめたい気持ちが入り混じった私は、先ほどの金が入っているであろう、いたちのポケットを一瞥し、そしていたちの顔を見て、ため息をついた。
「マスクのライヴの会場はどこか知っているのですか?」
私はいたちに尋ねる。
「もちろんじゃないか。会場はここから十分ほどのディスティネというライヴハウスだ」
「そのライヴハウスなら何度か言った事があります。あとはチケットですね」
ライヴの話をすると、私の中の罪悪感は霧が晴れるようにすっと体のどこかに消えてしまっていた。
「こちらには十二万もの大金がある。ライヴにそんなにファンでない奴もいるだろうから、そいつから一万も出せば買い取れるだろうよ」
「確かに、一万円も出せば売ってくれる人はいるでしょうね。ライヴの開始時刻は?」
「たぶん、午後の八時だ」
「八時か……まだ時間がありますね」
八時までは、まだ三時間ほど時間がある。
「そうだな、ライヴには体力がいる。腹ごしらえでもしようじゃないか」
いたちはそう言って、私の腕を引っ張った。
こうした経緯で私は、いたち御用達らしい呑み屋に連れてこられ、レモンサワーを眺めている。
いたち御用達の呑み屋、「神戸」は大阪にあるのに神戸という珍妙な名前もさておきながら、店のたたずまいも非常におかしなものである。
まず店への入口が異常なほど小さい。高さが百二十センチほどで、毒キノコ様な赤い色をしている。そして中に入ると、店がとても縦長である。正確な長さは分からないが、学校の廊下ぐらいはあるのではなかろうか。店の構造は右に一直線の長い通路があり、その左側にこちらも一直線に掘り炬燵が並んでいる。
今まで見たことのないような作りであるが、不思議と心を落ち着かせる空間である。
店はなかなか繁盛しているようで、席の半分は埋まっており、細い通路を着物の従業員が酒や食べ物を運んでいる。
この店に入って最初に気づくのが、店の中に満たされているフルーツの香りである。それも一種類の香りではなく様々なフルーツが混ざった匂いだ。
「いたちさん、この香りはどこからするのですか?」
「この香りかい。これは水煙草の香りさ」
「水煙草ですか?」
「いわしは水煙草を知らないのか、水煙草ってのはあれだ」
そう言って、いたちは手前の掘り炬燵の上に乗っかっている。八十センチ程の筒のようなものを指した。それは筒の下に水が溜まっており、細長いチューブの様な物を吸う度に水からぶくぶくと泡が出てくる。そして口の中から煙を吐いているところを見ると、やはり煙草なのであろう。
「あれはどの様な仕組みなのです?」
「あれはだな、まず筒の上に木炭を置くのだ。そして、その下に果物の香料を置く。そうするとあのチューブを吸った時、木炭の煙が香料と一緒に下まで降りて来て、一度水中を通り口の中に入るのだ」
「そうなんですか、水煙草なんて初めて見ましたよ。水の中を通すと理由はあるのですか?」
私がそう尋ねると、それはね。と後ろから声がした。私は驚いて振り返ったが誰もいない。
確かに声が聞こえたのに、と私が訝っていると、いたちが私の下を指差した。
すると、そこには百三十センチ程の男性が立っている。その男性は背が低いと言うよりも、頭、手、足など全てが小さい。だから体がそっくりそのまま縮小された感じと表すのが適当であるように思える不思議な体をしていた。
「やあ、いたちさんお久しぶり」
小さな体から発せられる声は意外に大きくはっきりしていて聞き取りやすい。
「ご無沙汰だなマスター。今日は友人を連れてきた。いわしだ」
「どうもこんにちは、いわしです。とても落ち着くお店ですね」
「いやはや、そう言っていただけるとありがたいです。なんせこの掘り炬燵は私が作った自信作です。入ってしまえばそこは極楽です」
ほほほ、と笑いながらマスターは話す。掘り炬燵を作るとはマスター兼炬燵職人なのだろうか。それも変な話だ。
「そして」
マスターはもちろん忘れてはいないと言わんがばかりに続ける。
「そして、もう一つの自慢が水煙草です。これは中東のものでして、器具はトルコから輸入したものです。さすがにこれは作れませんので、ははは。先ほどいわしさんが何故、水を使うのかとおしゃってましたが、これには理由があるのです。煙草のニコチンとタールは水に溶ける性質を持っています。ですので、一度水に通すことによってニコチンとタールをろ過することができるのです。まぁ完全にろ過はできませんがね。ははは」
「なるほど」
「ささ、どうぞお座りください」
私たちはマスターに誘導され、ちょうど真ん中の掘り炬燵に座る。足を入れた瞬間にマスターが極楽だと言った意味が分かった。これはどうにも、気持ちが良すぎる。出来る事なら一生この中に足を入れて暮らしていきたいとさえ思える。
いたちがマスターに生中二つと叫んだので、即座に私の分をレモンサワーに変更する。いたちは少しむっとした顔をしたが何も言わなかった。
私は横の席に置かれている、水煙草の水から出る泡を注意深く観察する。
そうしていると、着物を着た女性がビールとレモンサワーを持って立っていた。私たちはそれを受け取り。
そして、いたちは一気に飲み干し。私は一体何をやっているのだろうと思いにふける。