第10幕 笹本太郎
電車の扉がプシュッと短い音をたてて閉まる。
あの憎らしき爺のせいで私は彼女の姿を完全に見失ってしまった。駅のホームを吹き抜ける風が寂しさを駆り立てる。なんて運がないのだ。
ここに立っていても仕方がないので改札口に向かう。乗客はすでに改札を通った後の様で人はまばらだ。
「おい、坊主」
突如背後から呼び止められた。しかし、振り返らずとも声の主は分かる。そうとも、忘れるものかこの声を。振り返ったそこには憎き爺がちょこっと立っている。さっきまで一緒にじゃんけんをしていたのだから近くにいて当然なのだが、非常に腹が立ってしまう。
「なんだ、爺。お前のせいで彼女を見失ってしまったではないか」
「お前は、ほんまに年上を敬うっちゅうことのできん奴やな。それにしても彼女ってなんや? お前は電車の中に一人でおったやろ」
爺は髪の毛のない頭をぽりぽり掻きながら言う。
「横の車両に乗っていたのだ。爺がじゃんけんなど始めるから、見失ってしまったではないか、どうしてくれる」
「横の車両? なんや、お前はその娘の後をつけっておったんかいな。今風に言うとスチョーカーやな」
「それを言うならストーカーだ、ストーカー。そもそも、俺はストーカーなどではない」
「じゃあ、なんでつけておったんや?」
そう言われて、少し口ごもる。
「それはだな、まだ公式には知り合いではないという事で……しかしながら、彼女が私に恋い焦がれている事は、明白な事実であって……つまり私は……」
口に出していると、頭の中が混乱し、バラバラになったパズルの様に当てはまる場所が分からなくなってしまった。
「なに訳分からんこと言ってんねん。知り合いでない子をつけるなんて、要はスチョーカーやないかい」
爺は骨だけの様な指で私を指した。その行為がはたしてどういう意味をもつかは分からぬが、ドキリとしてしまったのは、私の心の奥底に罪の意識があるからなのか。いや、そんなはずはない、なぜなら私に何一つとしてやましい事はないのだから。心を落ち着かせるために気づかれぬようそっと深呼吸をする。
「とにかく、爺のせいで見失ったのだ、責任を取ってもらおうか」
「何言ってるんや。お前もじゃんけんに同意したやろうが、負け続けたお前が悪いわい」
「そんなことはない。それにしても爺、じゃんけんに強過ぎではないか。一体どんなインチキを使ったのだ?」
そうなのである、この爺のじゃんけんの強さは異常だ。確率の勝負であるじゃんけんで、こうも連勝できるはずがないのだ。
「インチキなんて使ってへんわ。この餓鬼が」
「何をぬかすか、この骸骨爺。インチキでもしないとあんなに勝てるはずなかろう」
「インチキなんてせえへん。そもそも、じゃんけんでどうやってインチキするんや?」
「む……それは……」
「ほら、無理やろうが」
「さては爺、恐ろしくほどの動体視力の持ち主だな。それで、俺の出す手を見て、勝つ手を出したのだ。これは後出しだ。よって、俺の勝利だ」
「お前はあほか、そんな事できるはずないやろ。そもそも、今ここでわしに勝利して何の意味もないやろ」
確かに、爺の言う通りだ。この骸骨のお化けの様な爺に、そんな動体視力が備わっている訳がない。仮に、そうであったとしても、彼女が過ぎ去った今、勝利しても意味がないのだ。
「では、どうやって勝ち続けたのだ?」
いささか狼狽して尋ねる。
「女神が見えるんや」
「は?」
「女神が見えるんや」
でたらめな爺であるから、完全に納得が出来る答えを期待していたわけではないが、ここまでおかしな答えだとは思いもしなかった。この世のどこにじゃんけんに勝つ方法が、女神が見えるからだと言う人間がいるだろうか? いいや目の前にいるのである。この様な変な事を言う人に出会った場合どう対処すればよいのだろうか。
「まぁ、わしの生まれ持った才能やな。女神が見えるうちは、負けんのや」
絶句している私を見て爺は説明した。いくら説明しても理解できるものか。そもそも理解する気などないが。
「おい、爺。訳の分からないことを言うな。この世のどこに女神がいるって言うのだ」
「じゃあ、天使かもしれんな」
「俺が言いたいのはそんなことではない。目に見えないものは存在しないのだ。よって女神だろうが天使だろうがこの世に存在せんのだ」
あまりにも大きな声を出したので、通りすがりの女性が心配そうに見る。
「だからの、わしには見えるんや。だから、存在するんや。そうでもせな、わしがじゃんけんに勝ち続ける理由が説明できんやろ」
「確かにそうだが……」
なんだか分からないが、爺の説明に反論できない。女神? 天使? なんじゃそりゃ?
「しゃあないな、ワシがエンジェルを坊主に見せてやろう」
天使がいつの間にか、エンジェルになっている。どうやら爺の天使とやらは、西洋からの使者の様だ。もしくは痴呆の世界からの使者だろうか。
しかし、見せるとは一体どうやるのだ。
さっきのじゃんけんでは見えてなかったではないか。心がきれいな人しか見えないとか、そんなメルヘンチックでご都合主義な理由があったりして。そんなわけない。目の前に存在する動く骸骨の心はどう見ても煤汚れている。
「はよ、ついてこんかい」
気がつくと、爺は改札の方へ進んでいた。
私はここにいても何もする事がないので、爺について行く。しかしながら、私の天使、つまり私の一目惚れの相手、愛しのエンジェルへの思いに爺のエンジェルが優った訳ではない。そんなことは当然だ。
ただ私は、この場を離れなければ、彼女と出会う確率が上がらないと思ったからこその行動である。
しかし、爺のエンジェルとやらに全く興味がないと言えば嘘になるだろう。