魚人の村
停滞していた物語がやっと動き出します。日本のインスマス、その存在が明らかになり、主人公たちが調査に向かうのです。
「それで、確かにこの文書、1000年ぐらい前だから琉球王国時代にまとめられた歴史書の写しだね。では、このあたりの地域に人魚が現れるという記述がある。絵もついてるが、こいつは人魚というより、半魚人と呼んだほうがいいだろう。」
作田教授が借りてきた資料の内容を説明してくれる。漢文で書かれた文章の横についている絵は、俺たちが昨日浜辺で見た怪物と瓜二つだった。
「そんな昔からいたなんて」
初穂が絵を見て呟いた。初穂が調べたのは明治維新後の資料だけだったらしいから、半魚人についてさらに古い資料があるというのが驚きだったのだろう。
「君は半魚人の存在を信じてるのかい? 単なる伝承としてじゃなくて。」
作田教授が質問する。まあ、普通そうですよね。
「ええ、昨日見ましたから。写真もあります。」
って、おい、初穂。何度も言うがもっとオブラートに包んだ言い方をしてくれ。それじゃあ頭のねじが数十本緩んだ人間と思われても、文句は言えんぞ。
「写真? 見せてごらん。」
作田教授の大人な対応に感謝する。俺が同じ立場だったら、この瞬間に席を立っていたかもしれない。
「これです。」
初穂が見せたのは当然昨日撮った画像だ。浅瀬に立っている半魚人と、海に戻っていく半魚人が写っている。とはいえ、赤外線カメラの映像なので粒子が荒く、漠然とした輪郭しか映っていない。ちゃんと半魚人に見えるかっていうと、正直微妙だ。
「うーん、これは。確かに資料に載ってる絵に似てるけど。」
作田教授も微妙な表情をしている。もう一度言うが、普通そうですよね。
「まあ、本物である可能性もあるね。君たちが私を担ごうとしてるんじゃなければだけど」
予想外の発言に俺は驚いた。だから失礼かもしれないと思いつつ、こう聞かずにはいられなかった。
「あの、教授は半魚人とかそういうものは信じるんですか?」
普通に考えると、「信じてはいないが、そういう伝承には興味がある」ってとこだと思うけど、教授の言い方は「半魚人は実在するかもしれない」ということを認めてるように聞こえたのだ。
「うーん、どうかな。三か月前の私だったら合成写真だと言って切り捨てただろうけど…」
「最近、何かあったんですか?」
「知ってるかもしれないけど、私は『ネフレン=カの石室』の発見者だ。あのとき私は…」
「石室に何か半魚人に関係するものがあったとか?」
ひょっとして「ネフレン=カの石室」の中に半魚人の骨でもあったのだろうか。無茶な発想と言われればそれまでだが、半魚人の実物を見てしまった俺は、そういうことがあるかもしれないと思っていた。
「半魚人、うん、それに関するものもあった。『あった』というより、『見た』というほうが正しいけどね。」
教授の表情は曇っていて、どこかここでない場所を凝視しているように見えた。石室の中で一体何を見たのだろう? そして『あった』のではなく、『見た』というのは何を現しているのだろう?
「見たって?」
「ああ、いや、この話はおしまいにしよう。」
もっと突っ込んで聞いてみたかったが、とてもそれができる雰囲気ではなかった。「ネフレン=カの石室」の話をしたときの作田教授は、今までの気さくな研究者と同一人物には見えなかったのだ。
例えて言えば、地獄のような戦場から戻ってきた兵士が、その惨状を語っているようだった。
「それで、この資料には面白いことが書いてある。彼らが陸に棲みついていたというんだよ。」
しばらくして元の顔に戻った作田教授が、また資料の内容について解説してくれた。その様子には、さっきの異様な表情はみじんもない。
「陸って、半魚人なのに? 私は半魚人は与那国島の海底遺跡に住んでると思ってたんですけど。」
初穂の言葉だが、俺も同感だった。人魚にせよ半魚人にせよ、伝説では海に住んでいるものじゃないのか。現に昨日見た怪物は海を移動していたし。
「ああ、ここにはこんな内容のことが書いてある。人魚たちは海岸近くの森や洞窟に集まって住み、独自の神を崇拝しているとね。」
「独自の神? じゃあ、奴らは宗教を持っていると?」
信じられなかった。あの半魚人は、人間とは似ているようで全く異質の存在に見えた。それが宗教という、地球上では人間しか持たないはずの特徴を持っているなんて。
「ああ、ここにはこう書いてある。人魚たちは邪なる神を崇拝し、人間を攫っては生贄に捧げているとな。」
「人間を攫っている…」
初穂は昨日こう言っていた。「半魚人が頻繁に目撃されるこの辺りは行方不明事件が多い。これは半魚人が人間を誘拐しているからだ」と。初めに言われたときはただの妄想だと思っていたが、あれが事実だっていうのか?
「そ、その話をもっと詳しく聞かせてください。」
案の定、初穂が慌てたような口調で質問した。
「分かった。えーと、全体の内容はこんな感じだな。」
そう言うと、教授は俺たちに伝承の内容を説明し始めた。まとめると、こんな感じになるらしい。
1、北部の海岸近くの森や洞窟には、古くから人魚と呼ばれる生物が棲みついている。人間とカエルと魚を混ぜ合わせたような奇怪な姿の怪物だ。
2、人魚たちは辺りで最も大きな洞窟を神殿とし、彼らの神を祭っているらしい。
3、彼らの居住地の近くでは、ときどき人間が消える。そして消えた直後に、人魚たちが神殿としている洞窟から悲鳴が聞こえることがある。おそらく、彼らの神に生贄として捧げられているのだろう。
4、居住地の近くの宇賀那という集落では、人魚に定期的に生贄を差し出しているという噂がある。かの集落が豊かなのは、見返りに人魚から宝物を受け取って外国に輸出しているからではないか。
5、宇賀那の権力を握る高齢の住人たちは、人魚どもにそっくりの顔をしており、また「いなくなった」という話は聞くが、「死んだ」という話は決して聞かない。奴らは人間ではなく人魚なのではないか。
「死んだという話は決して聞かない…」
初穂が呟いた。そう言えば、朝食の時にこんなことを言ってたな。「人魚が年を取らないという伝説は、半魚人が実際に人間より寿命が長い生き物であることを現している可能性がある」と。すると作田教授がそれを聞いて、その部分にさらに解説を加えた。
「この人魚自体が不老不死であるという伝承は珍しいな。人魚の肉を食べて不老不死になったという伝承なら、八尾比丘尼の伝説があるが。あるいは、こっちの人魚自体が年を取らないという話がもとで、それが日本本土に渡った時に変形した可能性もある。」
「どうなんでしょう。人魚は本当に不老不死なんでしょうか?」
「さすがにそれはないと思う。ただ、それこそ八尾比丘尼じゃないが数百年生きるという可能性は考えられるな。例えばハイギョは100年以上生きる個体がいるし。ところで、葛西君だっけ、君のほうはこの伝説についてどう思う?」
「うーん、微妙ですね。」
俺はそう言うしかなかった。前半部分はともかく、後半部分は宇賀那とかいう豊かな集落への嫉妬が生んだ妄想ではないだろうか。それに、人間が消えるのは人魚のせいであるという部分も、状況証拠しかない。
そのことを伝えると。
「ああ、確かにこの文章は、宇賀那の住民への敵意が剥き出しになっていて、とても公平中立なものとは言えない。厳密な証拠として扱うには無理があるだろう。ただね、この宇賀那という集落は、この文書が発行されてから約1000年後の1925年の文書に再び登場する。」
「1925年っていうと、大正時代の終わりですか。」
「ああ、このときに沖縄の北部で大規模な暴動が発生し、軍が鎮圧したという記述がある。そして、その暴動の中心となった村の名前が宇賀那なんだ。」
「暴動の中心になった…」
「そして、不思議なのがここからなんだ。軍は宇賀那の住民のほとんどをその場で射殺し、死体を焼いたと言うんだよ。」
「それって不思議なんですか? 旧日本軍ならその程度のことはやりそうですけど。」
「いや、不思議だよ。1925年と言ったら、大正デモクラシーの真っただ中だ。軍がそこまで強硬な手段を取るような時代じゃない。何よりもその場で射殺して死体を焼いたというのがおかしい。最終的には殺すにしても、普通は連行して暴動に外国の関与がないかを尋問したりしそうなもんじゃないか。」
「確かに。」
「そして何よりおかしいのが、付近の村落の住民から軍に対する非難の声が全く挙がらなかったことだ。それどころか、周辺住民はこぞって軍を讃えたと言うんだよ。当時の住民の声の一部が、こっちの資料に載っている。『宇賀那が無くなって安心できた』、『あの化け物たちを軍が始末してくれて嬉しい』とね。」
「いくらなんでも化け物って」
「ああ、多少周囲の集落と折り合いが悪かったにせよ、そこまで言われるというのは明らかにおかしい。」
「じゃあ、その宇賀那という集落は」
「本当に半魚人の巣だった可能性がある。」
「そ、その集落って今もあるんですか」
これは初穂の声、自分の仮説を裏付けるような話を聞いたせいか、少々興奮気味だ。
「うーん、その後の資料にはこの集落の名前は全く出てこないね。住民のほとんどが死んだことだし、暴動後にそのまま放棄されたんじゃないのかな。」
「じゃあ、大体どの辺にあったかってわかりますか。」
「それは分かる。この村とこの村の近くって書いてあるから、大体この辺だろう。」
そう言うと、作田教授は広げてあった地図の一点を指さした。そこは米軍基地にほど近い場所だった。もしかしたら、跡地の一部は基地の中にあるのかもしれない。
「それで…」
作田教授は最後に躊躇いがちな声で言った。
「私は午後に宇賀那の跡地の調査に行くつもりだが、君たちも付いてくるかい? まあ危険なことがあるかもしれないから、あまりお勧めはできないけどね。」
「行きます。」
秒速で初穂が返答した。
「そうか、だったら一時に観光センターの前で待ち合わせよう。車は私が用意する。」
そう言うと、作田教授は席を立った。
「いやあ、作田教授がいい人で良かったな。」
「そうね。まさか私たちの話を信じてくれるとは思わなかったわ。それに、調査への動向を許可してくれるなんて。」
「ところでさ、初穂」
「何よ。」
「作田教授がいなかったら、どうやって資料読む気だったんだ? 考えてみればあの資料って1000年前のものだったし。」
「…」
「おい、考えてなかっただろ。」
「…真司って古文とか漢文とか得意よね。」
「俺に無茶な期待をするな。授業で習う程度の古文漢文で資料が読めるか!」
「き、気合で何とか読めない?」
「じゃあ今度の実力テスト、気合で100点取って見せてくれ。」
いやほんと、作田教授がいてくれてよかったわ。