遭遇
お待たせしました。この回でようやく神話生物が登場します。
食事を取ったり近くのホームセンターで必要なものを買ったりしていたら夜になった。ようやく半魚人の出没時刻ということで、香川はとてもうれしそうにしている。
まあとりあえず香川が最初に主張していた徹夜での捜索をやめさせ、12時になったら近くのカプセルホテルに泊まるということで、納得させることができたのは僥倖と言える。こいつの説得に成功したのは初めてかもしれない。
「てか香川。何だよその荷物は」
「うーんとまず赤外線カメラ。フラッシュ焚くわけにもいかないしね。これで相手に気づかれることなく撮影できるわ。」
半魚人を撮影する気満々のようだ。というか赤外線カメラなんて何で持ってるんだよ。
「それでそのスプレーは、虫よけか。にしても何で二本あるんだ?」
「一本はハブ除けよ。」
「何だそれ? ギャグで言ってるのか?」
「実在する商品よ。夜の沖縄はハブが怖いから、こういうものが売られてるのよ。ハブ除けのエアゾールが3mぐらい飛ぶらしいわよ。」
なるほど、そんなものが売られてるのか。一つ賢くなった。その知識を使う機会は今後ないだろうけど。
「それでこれはスタンガン。」
「ス、スタンガン? ひょっとして半魚人をそれで拉致するとか?」
「葛西。私を何だと思ってるの? この辺は行方不明事件が多いってさっき話したでしょ。そのための防犯用よ。」
「…すまん。俺も香川の発想に毒されたせいで。つい。」
「…その発言についても謝罪を要求したいわ。」
「それでどうすんだ。カメラのほうが重そうだし、そっちを持とうか。」
「撮影は自分でやるわよ。尾川はこっちの防犯系グッズを持っておいて。」
「うん、いいのか? こっちのほうがずいぶん軽いけど」
「大事な撮影を人任せにはしないわよ。大体、葛西みたいなのが赤外線カメラ持って夜歩いてたら、不審者にしか見えないわ。職質でもされたら面倒だし」
「…さりげなく傷ついたぞ。俺は」
「さっきの仕返しよ。」
香川よ。一つ言っていいか。お前は確かに美少女だが、それでも赤外線カメラ持って夜うろついてたらやっぱり不審者だ。俺が警官だったらそんな奴は迷わず職質する。
それとスタンガンを持ち歩いているような男は、輪をかけて不審者、というか凶器準備集合罪だ。カメラのほうがまだましじゃないのか。
「とっとと行くわよ。そろそろ目撃情報が多い時間帯になってきたし。」
そう言うと香川は海のほうに向かって歩き出し、俺は慌ててその後を追いかけた。
「夜の海ってのもいい感じだな。」
「遊びに来たんじゃないわよ。」
「いいじゃん別に。半魚人なんて見つかりっこないんだし。素直に景色を楽しもうぜ。」
「何か言った?」
「いえ、何でもありません。」
ナイフのような鋭い視線を向けられ、慌てて口をつぐむ俺。香川にとっては待ちに待った調査で、それを茶化されるのは腹が立つのだろう。それは分かるが、肉親を惨殺した相手を見るような目で睨むのはどうかと思う。
というかあの視線を向ければ、ハブぐらいは余裕で逃げていきそうだ。ハブ除けのスプレーなんて要らなかったんじゃないか?
「いや、でも実際景色は奇麗だろ。」
夜の真っ暗な水面に街灯りと灯台の光が反射し、波の動きに合わせて蠢動している。それはまるで、宇宙の中心を覗き込んでいるようだった。美しいが、何となく不安を掻き立てる、そんな光景。
「うーん、まあそれはそうね。あの波間に半魚人が潜んでるって思うと、何だかワクワクするわ。」
うん、俺と香川の美的感性の違い(あるいは、香川におけるその欠如)がよく分かった。にしても嫌なことを言ってくれる。そう言われると、真っ暗な水面の下に怪物が潜んでいるような気分になってくる。その怪物は突然姿を現し、不運な犠牲者を黒い水の中に引きずり込むのだ。
えっ、夜の海についての表現含め、何て陳腐かつくだらない心配だって。じゃあ、あんたが海の怪物の話を聞かされながら、夜の海岸を散歩してみてくれ。
所詮恐怖なんてものは、同じ状況に置かれた人間じゃないと理解できんのだ。
「うん? 葛西、もしかして怖がってる?」
いや、心を読まないでくれ。香川。
そりゃお前は怖くないどころか、半魚人に会いたくてたまらないんだろうけど。
「い、いや、そうじゃないけどさ。にしてもこの辺って、行方不明者が多いんだろ。何か犯罪者に襲われそうじゃん。」
ちなみに俺は帰宅部で、犯罪者に対抗できるような腕力も武芸の心得もない。その点は文化部の香川だって同じだろう。つまり犯罪者に襲われたらほぼ詰み。
「スタンガン渡してあるでしょうが。出てきたらあれでやっつけなさいよ。」
「あのなあ香川。民間で売られてるスタンガンなんて、基本火花出して相手をビビらせるぐらいの威力しかないぞ。犯罪者を気絶させるなんて無理。」
「え、そうだったの。」
「うん、警察用ならともかく、市販品じゃそれが限度。」
「ちょ、それ聞いたら何か怖くなってきたんだけど。」
こいつも現実的な危険には反応するらしい。
あ、あれ香川が何か近づいてきた。さっきまで少し離れて歩いてたのが、今では至近距離、というか密着だ。お互いの腕が思いっきり触れ合っている。
にしてもこうしてみると、香川って意外に小さい身体をしてんだな。やたら存在感がある人物なので忘れかけてたが、考えてみれば身長は女子の中でも低いほうなのだ。その香川が俺のすぐ近くにいる。ここまで密着すると体温や甘い香りまで伝わってきそうだ。俺は心拍数が高まるのを感じた。
うん? 香川がさらに何かしようとしてるぞ。俺の腕にもう一本の、華奢で柔らかい腕が絡んでくる。ひょ、ひょっとして俺と腕を組もうとしてるのか? 香川。
「あっ、ちょっと葛西。何してんのよ?」
あ、香川が正気に戻った。戻ってしまった。ああ残念。って何を期待してたんだ、俺は?
「それはこっちのセリフなんだよ… そもそもお前が近づいてきたんだろうが。」
「あんたが怖がらせるのがいけないんでしょうが!」
「ああ、やっぱり怖かったのか。じゃあもう探索はあきらめて宿を」
「何言ってんのよ。まだ9時でしょうが。あんた12時って言ったわよね。12時までは絶対探索続けるんだから!」
「はいはい分かりました。って、あれ?」
「うん、どうかしたの?」
「できるだけ音を立てるな。それで俺の指さす方向を見ろ。」
「ちょ、尾川。いきなり何を。ああ!」
俺が指さした方向にあったもの。それは黒い水面から突き出した何者かの影だった。大きな魚? いや魚じゃない。魚だったら水面から出た状態で静止はできないはずだ。横を向いているみたいだから正確な形は分からないけど、ひょっとしたらあれって。
それは水中を静かに動いて、いやおそらく歩いていた。下半身が水につかっているのでよく分からないが、身長は平均的な人間と同じか、やや低い程度だろう。身長。そう、そんな表現をしたくなるほど、その動きは人間臭かった。だが、何かが違う。あれは断じて人間ではない。
「声を出すな。カメラを取り出せ。奴がこっちに気づかないうちに撮影するんだ。」
俺はすばやく指示を出した。とにかく半魚人らしきものが目の前にいるのだ。あいつの写真を撮れば初めて調査で具体的な成果が出たことになる。
「わ、分かった。」
そう言うと香川はカメラを取り出し、影に向かってシャッターを切った。その瞬間カシャッという大きな音が、かすかな虫の声以外は物音ひとつ聞こえなかった海岸に鳴り響いた。カメラのシャッター音だ。
しまった、音のことを忘れてた。フラッシュを焚かなくてもシャッター音はするのだ。これじゃ相手に気づかれちまう。
「あ、ああ、やっちゃった。気づかれた。」
隣で香川も呟いている。
案の定、謎の影はこっちを向いていた。だがそのおかげで全体像を把握できた。ややずんぐりした胴体に短めの腕がついていて、胴体の下には二本の脚が伸びている。ほとんど光源がないので輪郭しか分からないが、少なくとも人型をしているのは確かだ。
「あ、あれってダイバー、じゃないよな。」
「そ、そうね明らかに半魚人よ。」
今度ばかりは香川の発言もオカルト趣味によるものとは言えなかった。こんな夜中に潜っているダイバーがいるとは思えない。
それに、あの生命体は明らかに人間じゃない。輪郭は人型だが、どこか歪んでいる。頭が胴体とほぼ一体化していて、身体全体が流線形になっているのだ。子供の絵本に出てくるような人魚ではなく、神経症患者の悪夢の中に出てくるような魚人。人に似てはいるが、どこか決定的なところで人であることをやめている生き物。
魚人はじっとこちらを見ていた。よく見ると、顔にわずかに光を反射する部分があり、そこが目だと分かる。目は人間と同じく二つだが、その間隔は異様に広く、ほとんど顔から飛び出しているように見えた。
「こんな化け物が…」
俺は心の中で呟いた。そうとしか言いようがなかった。人に近い姿をしているだけに、余計あの生き物の醜悪さは際立った。まるで、神ないし悪魔が人間を悪意で歪めたように見える。それが自分たちを完全体あるいは美しさの基準と考える、人間の傲慢さの表れに過ぎないことは分かっていても。
「ひょ、ひょっとして襲われるんじゃ。」
香川の声が震えている。そう言えば、こいつはこの辺で行方不明者が多いのは半魚人の仕業だと言ってたっけ。あのときは一笑に付したが、半魚人の実物を見てしまってはそうもいかない。
俺はバッグに入ったスタンガンを握りしめた。頼りがいがあるとは言えない武器だが、今はこれに頼るしかなかった。プラスチック製の外装が汗で滑るのを感じる。俺は大きく息を吸い込んだ。
ということで、3話目にしてようやくの神話生物登場となりました。と言っても、物語はまだまだ続きます。ここまで読んでいただいた方がどれだけいるかは分かりませんが、できれば最後までお付き合い頂けると嬉しいです。