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エピローグ

 香川初穂は観光センターの前で泣いていた。あれから車に戻り、一時間経っても葛西真司は帰ってこなかった。彼女と作田玲二はそれからも待ち続けたが、日が明け始めるにあたり、やむなく車を発進させてここに戻ってきたのだ。

 何度も繰り返し押した電話番号を、もう一度押してみる。聞こえてくるのは「呼び出しましたが、近くにおりません」という電子音だけ。



(帰ってくるって言ったじゃない…)

「ああ、帰ってくるさ」、真司は確かにそう言ったのだ。なのに…

(何で帰ってこないのよ。約束を破るなんてひどいじゃない)

 しかもそれが、こんなことに巻き込んだ私のせいだなんて。信司が私なんかを守るために、米軍の方に向かっていくなんて。

(何だったのよ? 結局、私を名前で呼ぶようになったのは何の意味があったのよ? ただの気まぐれだったの?)

 

 ここに来る前は互いを「葛西」、「香川」と呼んでいた。あの砂浜で急に「初穂」と呼ばれたときは、一体何のつもりかと思って驚きながらも、「真司」と呼び返してみた。二人の距離を縮めるつもりなのかと思ったが、結局その後も真司の態度は今までと同じだった。


 (まあ深い意味なんてないんでしょうね。あんな鈍い奴だし)

 本当にため息が漏れる。葛西真司はそういう奴なのだ。鈍感で女心が分からなくて、私に対しても思ったままの無神経なことを言う。

「でも…」

 真司は私の趣味につきあってくれた。私を嫌っている大半の女子の間で評判が悪くなろうが、私の容姿だけを見ている大半の男子から妬まれようが、私とのつきあいを絶とうとしなかった。



 (ここまで連れてきたのだってさ)

 はっきり言って民間伝承研究会の連中は、調査に同行してくれと言われたからといって、特に相手を意識したりしない。ましてやそのせいで、クラブ内の人間関係が乱れることなどありえない。

「私はそんなことを気にしてたんじゃなくて、あなたとここに来たかったのよ。真司。」

 そんなことは本人の目の前では、恥ずかしくて言えなかったけど。


 (ごめん、本当にごめんね。真司。こんなとこに連れてきちゃって)

 謝ってもどうしようもないのは分かっている。生きている人間が死んだ人間にできることなど、何一つない。

「あの洞窟で死んだほうがよかったのかも」

 「諦めないで」、半魚人の洞窟で自分が発した言葉がひどく虚しく感じられる。あそこでクトゥルーの落とし子の餌になっていれば、少なくとも今、こんな思いは味合わずに済んだのに。

「『俺は初穂に助かってほしい。』か。」

 葛西真司はそう言って、私を助けるために米軍のほうに向かっていった。本当に勝手な奴だと思う。そんなふうに助けられた人間がどう思うかを、考えたことがあるのだろうか。





 「ふー、ごめん、遅くなった。米軍の奴ら、身体検査に時間かけすぎなんだよ。」

 え?

「って、真司。戻ってきたわけ! 今まで何してたのよ! 何で電話に出なかったわけ!」

 

 そう、目の前でどこか間の抜けた声を発しているのは、どう見ても葛西真司だった。近寄って抱き着いてみる。実体と体温がある。幽霊でもゾンビでもないのは明らかだ。

「って、お前こそどうしたんだよ。初穂。何で泣いてんだ?」

「何でじゃないわよ! 何で早く戻ってこないのよ! 無茶苦茶心配したんだからね!」

「え? 心配。えーと初穂。俺たちはただの知り合いで、ここに半魚人探しに来ただけの関係で。そりゃいなくなれば少しは心配かもしれんけど、そんな泣くほどの」



  …こ、こいつはまだ気づいてないの? この期に及んでも?

「あ、あんたねえええええええええええええええ!自分が私にどんだけ心配かけたか分かってるのおおおおおおおおおおおおおおお!?」

「う、うわ、いきなり何? すいません。何か予想外に心配かけたみたいです。帰るの遅れてすいません」

「ああもう、いいわよ。もういいわよ。ちゃんと帰ってきたんだから。ていうか何で電話に出なかったのよ、本当に」

「ああ、米軍にスマホ没収されてさ。出られなかったんだよ。」

「そ、そう。ならしょうがないわね」


「ところでさあ、初穂。」

「何よ。」

「あのー、いつまで俺に抱き着いてるわけ?」

「何、迷惑なの?」

「別にそういうことはない。」

「じゃあいいじゃない。」

「はい。あれ、その理屈は何かおかしい。むしろ初穂のほうがそれでいいのかと聞いてるんだけど。」

「本当にどうでもいいじゃない。そんなこと。」

「ま、いいか。」

 

 結局、真司に聞いたところによると、米軍に基地まで連れていかれて身体検査をされたが、特に怪しいものも見つからなかったし。何より。

「まあそもそも、米兵がいる方向に向かって走っていく諜報員なんているわけないってことで釈放されたよ。森の中で道に迷って、人の声がする場所に走っていったって言ったら、その説明を最終的には信じてくれた。」

「そ、そう。よかった。本当に良かったわ。」

「それでさあ、ゲートのところで解放されて、バス乗り継いでここまで来たってわけ。まあ、初穂がいるとしたら、出発地点のここかなって思ったし。」


 「…私の居場所はちゃんと分かるのに、私の気持ちは分からないってどういうことなのかしら」

「うん? 何か言った?」

「何でもないわよ。」




 「結局何だったんでしょうね。あの半魚人。」

 俺は隣で所在なさげに立ち尽くしていた作田教授に聞いてみた。できれば、半狂乱で泣いていたらしい初穂を慰めていてほしかったと思うが、この人にそんなことを期待しても無駄なのだろう。まあ俺が同じ立場でも、気のきいたセリフなんか言えそうにないしな。


 「どういうことかな?」

 感情を表に出すタイプではなさそうな作田教授の声にも嬉しげな響きがある。俺の無事を喜んでのことなのか、泣きじゃくる初穂から解放されたことへの安堵なのかは不明だが。


「いや、あの生き物は明らかな知性を備えていて、人間との間に子供を作れるようです。知性を備えているのはともかく、人間と交雑できるというのは何故でしょう?」

「これはあくまで仮説だけど…」

「何ですか?」

「水中類人猿説という言葉を知っているかい?」

「いや、知りません。」


 「人間の祖先は水の中で暮らしていたという説よ。毛がなくて皮下脂肪が厚いという人間の特徴が、クジラやジュゴンみたいな水棲の哺乳類と一致することから考え出されたらしいわ。」

「香川さんの言う通りだ。まあ学会では異端とされている説だけどね。」

「それで、その水中類人猿説と連中に何のかかわりが?」


 「この説によると、人間の祖先の類人猿はかつて海辺で暮らしていたが、やがて陸地に移住して現代人に進化したとされている。だが、彼らのうち、海辺に残ることを選んだグループがいたとしたら、どうなるだろうね。彼らはどんな進化を遂げるんだろう。」

「つまり、海辺で暮らしていた類人猿のうち、陸地に向かったものの末裔が現代人で、海辺に残ったものの末裔が半魚人だと。」

「そういうことだね。この説だと、半魚人が人間と交配できることも説明できる。遺伝的に近い種同士なら、生存能力のある子供を作れるからね。」


「教授は生物学にも詳しいんですね。」

「まあ、私の専門の文化遺伝学と生物学のほうの進化遺伝学は、似た学問だからね。」

「話を戻しますけど、じゃあ奴らは人間に極めて近い種だから知能が高いし、人間との間に子供を作れると。」

「そういうことになるね。まあ水中類人猿説自体がうさん臭い説だから、あんまり鵜呑みにしないほうがいいけどね。」


 「でも、もしその説が本当だとすると、奴らは一種の人間ってことになるんでしょうか。」

「人間の定義は様々だけど、知能を持つヒト科の生物であることを定義とするなら、そう言えるだろうね。」

「奴らが夜行性なのは何故でしょうか? 人間もチンパンジーも昼行性なのに。」

「うーん、前にも話したけど、連中の体の作りは夜行性という生態に適したものとは思えない。むしろ、天敵を恐れてやむを得ず夜に活動しているといったほうが正しいんじゃないのかな。」

「天敵って?」

「人間のことだよ。海岸地帯は世界中にあるのに、半魚人の目撃情報があるところは数えるほどしかない。それは、ほとんどの場所で奴らが人間に滅ぼされてしまったからじゃないのかな。」



 「人間が奴らを滅ぼしたって…」

 奴らはそんなか弱い生き物には見えないが。

「連中は泳ぎはうまそうだし、体力的には人間に勝るかもしれない。でも、火を使えないし、農業を行っている様子もない。これは、扱える武器のレパートリーと、人口生産力の両方で、奴らが人間に及ぶべくもないということだ」

「なるほど、個人の能力では勝っていても、より優れた武器を持つ大集団に襲われたら勝てないと。」

「そういうこと。チンパンジーやゴリラは体力的にはヒトをはるかに上回るけど、現実には彼らがヒトを滅ぼしているのではなく、その逆だ。半魚人にも同じことが言えるんだろうね」


 「じゃあ奴らは人間に押されて滅びゆく種族だと」

「そうとも言えないね。少なくともこの沖縄では、奴らは人間との共存に成功しているように見える。一時は人間と一緒に村を作ってたぐらいだ」

「あの村って、資料によると半魚人が人間を支配してたんですよね。技術力で劣るはずの彼らが、人間を支配できたのは何故なんでしょうか」


 「あの洞窟にいた化け物、クトゥルーの落とし子に関係があるんじゃないかと思う。あんな奴がバックについていたら、人間はひれ伏すしかないんじゃないかな」

「じゃあ半魚人は、クトゥルーの落とし子の威光を借りて人間を恫喝していたと」

「単純な恫喝だったのかはわからない。宇賀那は豊かな集落で、それが周りとの対立の一因になっていた。その富は半魚人がもたらした可能性がある」


「火も使わなければ、農業もやらないような生物が富を?」

「太平洋の伝承には、半魚人は生贄と引き換えに大漁を約束し、さらに金をもたらすとある。それが本当である可能性は否定できない。」

「でも、教授の説によると半魚人は人間の亜種ですよね。そんな大それた力があるんですか?」

「半魚人にできなくても、あのクトゥルーの落とし子にはできるのかもしれない。そもそも人間に比べて技術で劣る彼らが今まで生き延びていたこと自体、クトゥルーやその落とし子の力によるものかもしれないしね。」

 


 仮にも学者のはずの作田教授が、神の力などという仮説を持ち出すのはどうかと思ったが、実際に落とし子の姿を見た俺たちは何も言えなかった。

「連中が不老不死だという伝説はどうなんでしょう。本当のことなんでしょうか?」

「それは分からない。ただ、奴らが人間によって滅ぼされかけたとき、必死に自らの一族の不滅を願ったのは確かだろう。そして、その願いをクトゥルーは聞き入れたのかもしれない。こんなのは学者が言うことじゃないけどね。」

 常日頃なら学者にあるまじき妄言と思っただろう。だが、今の俺たちはそうかもしれないと思っていた。





 「まあ一応、今回の調査は成功だったのかな。」

 帰りの飛行機の中で、俺は初穂に話かけた。半魚人を見つけるという目的を達成し、極めて不愉快な形とはいえ接触までできたのだ。これがテレビの特番なら大成功と言えるだろう。


「うん、そうね。成功してよかったと言えるかは微妙だけどね。」

「初穂はどうすんだ? この結果についてクラブのみんなに報告するのか?」

「まあそのつもりよ。」


「ところでさあ、初穂。」

「何よ。」

「俺もそのオカルト研究会、じゃなかった民間伝承研究会ってやつに入ろうと思うんだけど。」

「え、そりゃ新入部員は大歓迎だけど。何で今更? この前私が誘ったときは入らなかったじゃない。」

 

 初穂は自分が民間伝承研究会に入った後、俺にも入るように結構しつこく勧めたことがある。UFO探索の悪夢が頭から離れなかった俺が断固拒否したので、そのまま取りやめになったのだが。

「いや、今までは半魚人とかそういう類のものはただの作り話だと思ってたから、入る気になれなかったんだ。でもあんなもん見せられたら、一部は本当なのかなとか思うじゃん。」

「そう、それはいいけど。本当に入る気なの? この調査であんな目にあったのに。」

 

 意外な言葉だった。本来のこいつなら、俺が入ると口にしたとたんに入部書類にサインをさせるはずなのに。

「うん、この調査もなんだかんだ言って楽しかったと思うんだ。普通では絶対に味わえない経験ができたし。」

「そ、そう。ならいいわよ。会長は8月の前半には帰ってくるから、そのときに入部手続きを出せばいいわ。」


 「何か意外に消極的だな。初穂だったら、この場で書類突き出してサインをさせると思って… っていや、何でもありません!」

 言ってしまってから俺は首をすくめたが、予想していた嵐はいつまで経っても来なかった。その代わり、妙にか細い声でこんな言葉が返ってきた。


 「入部するっていうならそれでいいわよ。…ただ、二度とあんなことはしないでね。自分を犠牲に他人を助けるなんて、助けられたほうにとってはトラウマもいいところだわ。誰も幸せになれない。」

 そうか、妙に俺の入部に消極的だったのは、あの森での出来事に引け目を感じたからだったのか。柄にもないと言いそうになったが、そう言えばこいつは結構責任感が強いほうなのだ。


 「なあ初穂。あのときのことなんて気にするなよ。あれは俺が勝手にやったことだ。それより、次の調査のことでも考えようぜ。」

「え? 真司はまた私と調査に行きたいと思ってるの?」

「うん? ああそうだよ。そのために入部するんだし。」


  本心だった。半魚人と対峙するのは確かに怖かったが、それは同時に信じられないほど面白い経験でもあった。一般の人間が考える確固とした秩序の外にある存在、その姿を見ることができたんだから。

 それに… 初穂と一緒にいるのは楽しいと思う。だからこそ、初穂にはあの森でのことを引きずらず、次の調査の計画でも立てていてほしかった。そのほうが絶対に彼女にとっても俺にとってもいいことだと思う。

「まあ次の調査は夏休みの後半になると思うわ。どこに行くかはクラブ内での会議で決まる。会議の予定が決まったら連絡するわ。」

 そう言った初穂の顔は、さっきとは打って変わって輝いていた。調査の話題になったからだろうが、それだけではない気もする。それが何なのかは分からないけど。


 まあ楽しそうなのはいいことだ。やっぱりこいつにはこういう表情が似合う。俺は何となくそう思った。


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