第三話
「そういや、思ったんすけど、魔王さまのCRIってどうなってるっすか?」
しばらくして、シャインは聞いた。ミストも薫もすでにシャワーを浴びおえている。
「CRIって……なに?」
「市民登録身分証明書《Citizen Registration Identification》の略語っす」
「へえ。そんなものがあるんだ」
「もちろん、持ってないっすよね?」
「もろちん、持ってないよ」
「いまなんか変な言い換え方しませんでした? まあいいんですけどね。それからCRIを入れるセルコンも持ってませんよね」
「セルコン……ねえ」
「こいつだ」
横から聞いていたミストが、トランプケースくらいのプラスチックの箱を取り出した。
「現代人はほとんどみんな、一人一つはこれを持ち歩いてます」
「まあ、百聞は一見にしかずっていうだろ。あたし、こないだ機種変更したばかりだから、ひとそろい余ってるんだ。やるよこれ」
「え、いいの?」
「その分働いて返してもらうけどな」
「あ、身体で返せってこと?」
「現金で、だ。あたしたちの仕事を手伝えばいい。分前はやるから、そこから払え」
「ちょっと待っていただけません?」
抗議の声をあげたのは薫だ。
「それじゃあ、わたくしたちのチームに、この方を入れるように聞こえるのですが?」
「女の子に入れるって卑猥だなあ」
「そんなことは言ってませんわ!」
魔王が茶化してきたので、薫は思わず怒鳴り返す。
「だが、それのどこかに問題がある?」
ミストにも反論はあった。
「そもそもこいつ。今後なにかすることはあるのか? 収入は? 家族は?」
「それはそうですけど、わたくしたちはボランティアをやってるわけじゃありませんわ」
薫は言った。
「一応、僕の意見も言っていい? 当事者なわけだし」
「どうぞっす」
こういう時はシャインが議長をつとめることになっているのが、三人の暗黙の了解である。ミストと薫を制して、魔王の言葉を促した。
「僕は一回死んじゃったわけだし、第二の人生みたいなものだからね。とりあえず魔王としてなにかをどうこうするつもりも、当面はない。だから、あえて言うなら、封印を解いてくれた君たちに恩返しがしたいってのは、だめかな?」
「だめに決まってますわ!」
「あたしはかまわんぞ」
ミストは言った。
「魔王とまで呼ばれた男が、働こうなんて、えらいじゃないか」
「甘いですわ。ミストは甘いですわ!」
「それじゃあ、おまえは」
ミストは途中で黙ると、セルコンのARで空中のキーボードを叩き、チャット機能で薫に伝えた。
『魔王と名乗る男を放逐して、いざ魔力を取り戻したらどうなるか、考えているのか?』
「そ、そうですけど……」
「それともあれっすか? 魔王さまの顔がお兄さんに似てるのが嫌とかっすか?」
「そんなことはありません! そもそも、わたくしたちは女性だけのチームなのですよ。そこに男性を入れるなんて、正気の沙汰とは思えませんわ!」
「女性に男性を入れるなんてそんないやらしい」
「ですからそんなこと言ってませんわ!」
度々、魔王が茶化して、薫が怒鳴る。
「ごらんなさい。この性欲の獣と共同生活がおくれるのですか?」
「逆におまえは、力づくでこの男に負けると思っているのか?」
「は? そんなことはございませんわ。わたくしにインストールされたバイオウェアは、ブルガコフ兄弟社が採算を度外視して作ったコンセプトモデルですの。一般に流通しているものと比べ、出力は三割高いものですし、それを使うわたくしの脳にも剣術格闘術はもとより、銃火器を含むありとあらゆる戦闘術がインストールされておりますもの!」
「はい、わかりました。それじゃこれで決定です」
「えっ、ちょっとシャイン……」
「こいつが風紀を乱そうとするならお前が片手でひねって……」
ミストは自分の首を絞めて舌を出す。
「グエー。だろ?」
「そうですけれども……」
「もちろんあたしもおまえほどじゃないが、この優男にどうこうされるほどヤワじゃない。シャインだってそうだろ?」
「ま、ドローンだっておりますしね」
「んもうっ! 知りませんわよ!」
そうして薫は再び紅茶を手に、黙りこんでしまった。
「で、このセルコンの使い方ですけど、画面やボタンはありますが、本体で使うのは電源のオンオフと充電端子くらいです。便利なのはリンクしてるメガネっすね。立体映像で現実の風景の上に重なるように情報が表示されるわけで。まあこれがありますから、本なんかも今は紙はほとんど使われなくなりましたね。この技術をARと呼んでおります」
「なるほど、わからん!」
「いっぺんに話してもわかるものか」
「……そっすね、まあ。おいおい説明してくとして。次はCRIっすねえ。とすると、闇のルートで偽造をする必要があるわけですが……正直、いまお金不足なんですよねえ」
「お金……やっぱり時代が変わってもお金なんだねえ。金の玉ならここにあるけど」
「つっこみませんよ」
「つっこむのは男のすることだろ」
「いいかげんにしてくださいまし!」
「とにかくですね」
話が進みそうにないので、シャインは割りこむように大声をあげた。
「偽造するためにお金がいるんです」
「偽造、ねえ……」
魔王は一息ついて言った。
「偽造してまでそんなものが必要なの? 身分証明書なんて必要ないでしょ、君たちも僕たちもここにいるってことは間違いないんだから」
「いやあ、ですが、そうは言ってもCRIがなければセルコンにお金を入れることすらできませんからねえ。わたしたちも結局、本物のCRIは持ってないのですが」
シャインは言った。
「何の因果か、公的には存在してないことになってるのが、わたしたちなわけです」
「出生届も提出されず、貧困やら混乱やらの中で産まれて育ったのがあたしらだ。おかげで偽造CRIじゃまともな仕事は無理だし、飛行機のチケットすら簡単にははとれん」
「そういうのをクリアー《Crier》なんて呼ぶんですけどね。社会的には無色透明《Clear》な存在、それがわたしたちってわけです。だから汚れ仕事なんかを任せるには都合がいいってわけでして」
「それじゃまるで、差別を作るためにある身分証みたいじゃないか」
「まあ、たしかにそうなんですが。といって偽造でもなんでも、CRIを持たないのは不便っすよ」
「それはそうだけど……」
魔王は少し考えて、降参したふうに言った。
「わかった。君たちに従うよ」
「でしょ。わたしたちみんな一応クリアーなわけですし。魔王さまもクリアーですから偽造CRIを使いましょ」
「まとめないでくださいませんか?」
しかし、そこに薫が異を唱えた。
「わたくしはブルガコフ兄弟社の産まれですから。クリアーではありませんの。不本意ですけど、本物のCRIを持ってますわ」
「っと、そうだ。この手があったじゃないですか」
シャインがぽん、と手を叩いた。
「薫のお兄さんのCRIって、いま宙ぶらりんになってませんか?」
「何を企んでますの」
「いや、行方不明のお兄さんが戻ってきたことにして、CRIの再発行をお願いすれば、簡単にCRIが手に入るなあと思いまして」
「おふざけあそばせていらっしゃるのですか?」
「真面目ですよ、わたしは」
「百歩譲って、お兄さまのCRIを一時的にこの男のために貸し出すことを許すとしましょう。そうすると法的にわたくしとこの男が兄妹ということになってしまいますのよ!」
「法的に、でしょ? それくらい我慢してくださいよ」
「いーやーでーすーわ!」
薫は強固に反対し、そっぽを向いた。
「……どうしても、だめかな?」
そこに、魔王のか細い声が聞こえる。
「……いや、わかってるんだ。薫にとって、お兄さんは大切なひとだから。僕ごときがそんな、お兄さんの椅子に替わりに座るなんて、たいそれたことだよね……」
薫がちらりと魔王を見ると、魔王の目には何か光るものが溜まっていた。
「ちょ、ちょっと。何も大の男が泣かなくても……」
「ああ、ごめん。三〇〇年寝ていた反動かな。だって、ほら……世界は全く変わっちゃったし、知り合いもいないし……。もう頼れるひとなんか誰もいないし。……ごめんね、きみには全く関係ないことなのに」
「薫……おまえ、鬼だな」
ミストが目を細めて言った。
「ああもう! わかりました。本当にもう、わかりましたわ!」
「え、でも……そんなことお願いできないよ」
魔王は、小さな声でそれを遮った。
「いいですわ。お兄さまのCRI、貸して差し上げます! その代わり、兄が帰ってきたときにはあなたは偽造CRIに戻すんですのよ?」
「……ありがとう、薫。本当に、ありがとう」
「わかりましたから、お兄さまの顔で泣かないでください!」
「わかった。いやー、一時はどうなるかと思ったよ」
そう言った魔王の顔は晴れていて、今まで泣いていたのが全くの嘘のようだった。
「……一杯食わされましたわね」
「それじゃあ、あたしらも光と呼ぶことにするか。よろしくな、光」
「わたくしは認めませんからね!」
「認めさせてやるぜ! 俺の、存在をなっ!」
「なんで急に暑苦しくなるんですの……」
そうして、魔王バーミリオンスパロウは、氏原光と名乗ることになった。
前述の通り、技術は進歩したが、じつは街そのもの、生活そのものはあまり大きくは変化していない。
あえて特筆すべきは、社会状況の変化だ。先進国のほとんどは国という形が形骸化し、すべての人間は、どの世界規模企業の庇護下にあるかということにアイデンティティを置いている。そういった中でも下層の存在を社畜と呼び、まさにその名の通り家畜のように扱われているのが、人口の大半である。
もっとも、インドのカースト制度が、日本の士民制度が、歴史上様々な身分制度がかつてそうだったように、身分制度から弾かれた人間はあとを絶たない。
シャインたちクリアーはそういう存在だった。社会的には存在しないのと同義であり、まっとうな仕事に着くこともできない。
異様に発達した技術。
異様に分化された身分。
それが二一世紀後半の世界である。