休日【前編】
けだるい朝だった。弥佳が目覚ましも無しで朝からおきるのはめずらしい。ベッドからの脱出には成功したが、すぐに机の前に座り突っ伏す。そのまま顔を横に向けると、昨日、出しっぱなしにした鏡を手繰り寄せる。覗いてみると、髪の毛がボサボサで、目つきがとろんとした女の子が覗いていた。
「ぶっさいく。」
弥佳はつぶやいた。でも、それは、普通の眠たそうな女の子であって、何かに脅えるような素振りもなければ、恐怖によって刻み込まれた皺もない。初めて魔物が視える様になった時の方が酷かった。
(こんなものか…。)
昨日視た光景がフラッシュバックする。だがそれは自分と縁遠いようにも思える。映画の中の世界。そうではない。そんなに遠い御伽噺でもない。なんとも実感がわかない。そうだ、今となってはその言葉が一番しっくり来る。
おなかも良くなり、気分を一新するために、買い物にでも行きたい所だが、体が言うことを聞きそうにもない。ずるりと椅子から滑り降りると、四つん這いのままテレビの前に向う。テレビ台の中からCD/DVDケース引っ張り出す。かなり重い。120枚も収納できるファイル式のやつだ。弥佳はゲームを買うと、ディスクをこのファイルに収め、パッケージは押入れの奥にしまい込む。いちいちパッケージから取り出すのが面倒くさいからだ。
ぱたり、ぱたり、とページをめくる。十回ぐらいめくったあたりで手が止まる。ちょっと迷ったが、ディスクを取り出し、ゲーム機のスロットに差し込む。ゲーム機はそれを感知して待機状態から電源が自動的に入り、ディスクを飲み込んで、読み込み始める。弥佳はテレビの電源をいれ、入力設定をゲーム機に合わせると、女の子座りしてコントローラーを持ち、ゲーム機が起動するのを待った。
ゲーム機が起動する。カーテンの閉じられた薄暗い部屋。テレビだけが明るく光り、その光は、パジャマ姿の弥佳をシルエットで浮かび上がらせた。ゲームを始めようとすると、行き成りセーブデータが無いと警告される。本気でゲームを楽しむつもりは無い。弥佳は新規で先に進んでいく。そして、タイトル表示。RPGだった。もともとは海外でヒットした大昔のRPGだ。パーティーを組んで地下迷宮を探索し、より良いアイテムを発掘して身に纏い、敵と戦い経験を積み、とにかく強くなり、ボスを倒すと言うシンプルなゲーム。結構シビアなゲームだが、自分の境遇が近いように思えて、それで選んだ。
弥佳はキャラクターを作り始める。種族の基本能力値に、ランダムで与えられるボーナスの値を割り当てる。普通は高いボーナスが出るまで、何度もやり直したりするのだが、今回は、やり直すことは無かった。運命のままとでも言ったところか…。
「最低。」
弥佳は呟く。
パーティーのメンバー六人分を作ったが、そのときのボーナスは、全て最低値だった。それでもそのメンバーでパーティーを組み、装備をととのえ、地下迷宮に下りていく。何度も同じ通路を廻っていると、敵と遭遇した。『にんげんがたのいきもの』が六体。まだ正体は判らない。
「エンゲージ。」
弥佳はまた呟いた。弥佳はゲームをやるとき、独り言を呟く癖がある。
キャラクターごとに行動を選択していく。攻撃や魔法のエフェクトが何も無いので、結果表示をすっ飛ばす。敵の正体が判った。『コボルト』だ。ゲーム界ではゴブリンやオークと、同じ立位置のやられキャラだ。弥佳はまた行動を選択していく。
四回ぐらい繰り返しただろうか、弥佳はコントローラーを放り出すと、横にパタッと倒れた。テレビには財宝のグラフィック。勝利画面だ。しかし、パーティーの順番が変わっている。先頭にいたはずの戦士が、最下段に移っていた。『DEAD』と表示されている。死亡。戦死。弥佳は、横たわりながらも、その画面を、その文字を見つめていた。その瞳に映り込む『DEAD』の文字は、くっきりと、眩しいほど鮮やかだった。
魔物は嫌い、おぞましい姿をしているから。
魔物は嫌い、人間を食べてしまうから。
魔物は嫌い、生き残った人間ですら、人生を狂わされてしまうから。
弥佳は鏡華の事を想った。自ら魔物に関わる事を選択した者でさえ、人生を狂わせ、業を背負いながら生きている。
「先生、辛い…んだろうな…。」
弥佳は呟いた。
「コン!コン!」
ドアがノックされた。
「弥佳。弥佳!」
扉の向こうの客人が名前を呼ぶ。ごそごそしていたので、弥佳が起きた事を感じ取ったのだろう。昨日の荷物の件をまだ怒っているのだろか。
「いやだ!今は一人になりたいの!」
そう弥佳は応えたのだが、ガチャガチャ音がしたと思うと、扉が開いた。
母親の佳奈恵だった。扉を開けると部屋に入り、カーテンを開けると日差しを入れた。
「やだ!着替えるときに、見えちゃうじゃない。」
弥佳は適当な理由を考え、親の行為に抗議する。
「ちゃんと、着替えられる?」
そういうと、弥佳の目の前に正座した。昨日のことは怒っていなかった。それよりも心配で、心配で、合鍵を使ってまで、弥佳の様子を見に来たのだった。
「もうちょっとしたら、着替える。」
「ほんとうに?昨日、何かあったのじゃないの?」
佳奈恵は深刻そうに問う。そして、洗濯物を弥佳に差し出した。昨日、自分の部屋に持ってこなかった、お出かけ用の服と、ブラだけだった。弥佳が自分で洗濯した物は、ブラ以外何も無い。
「ブレザーを他のものと一緒に洗濯しちゃって、ブラはネット入れてなかったし、」
佳奈恵は話を区切ると、入り口のドアの方を気にした。誰もいない。
「それどころか生理用品もはずさずに、一緒に洗ってしまうなんて、何かあったとしか思えないわよ。」
「大丈夫。整理がひどくて、あわてていただけ。」
弥佳はそう答えた。
「それでも、下着はともかく、ブレザーまで洗う事は無いでしょう?」
弥佳は俯く。
「ブレザーなんだけどさ、ちょっとした、染みが残ってなかった?」
「私は気がつかなかったのだけど、クリーニングの店員さんに指摘されてね。左襟に点々と付いていたわ。」
「それ、それを、落としたかったの。そう…、残ったのか残念…。」
ウソではない、演技でもない、弥佳の本当の気持ち。佳奈恵は本当に残念そうな弥佳の顔見ると、嘘ではないように思えた。そう、本心なのだから、母親である佳奈恵には、そう思えて当然だろう。
「本当に大丈夫なのね?」
佳奈恵は念押しに訊く。
「うん、大丈夫、何も無いよ。」
これだ。この答えに佳奈恵は懐疑の念がぬぐえない。洗濯物の事はおおよそ事実だろう。しかし、もっと大枠で『大丈夫』と言うのは本当だろうか?それが引っかかる。乱暴でもされたのか、心配で仕方が無い。
「わかったわ。でも辛い事があったら話してね。」
嘘かもしれない。しかし大丈夫と言う娘に、他にかける言葉は浮かばなかった。嘘だったとしても、自分で何とかするつもりなのだ。もう、子供ではない。佳奈恵は弥佳を信じるしかなかった。
「制服の染みって、どんな感じだった?」
弥佳は気になって訊ねた。
「ピッピッと、紙パックのジュースがかかったというか…。ブレザーとスカートはクリーニングに出したから、今は無いのよ。ほかの物は洗い直したけれど、あと、これ。」
佳奈恵はブラを改めて手にとって、弥佳に手渡す。少し破れていてワイヤーが頭を出していた。
「もうだめだね…。今度からワイヤレスの物を選ぶよ。」
そういう問題ではなかったのだが、弥佳はそうやって話を着地させた。
「ブレザーが気になるのなら、夕方には仕上がってくるから。それから、ちゃんと着替えるのよ。」
そう言うと佳奈恵は部屋を出て行った。
弥佳は手にしているブラを、とりあえずそのままゴミ箱に放り込むと、残された外出着をタンスにしまった。
「はぁ、ブラでも買いに行こうかな…。」
けだるさが残る弥佳は、それから何もしていなかった。
「ティレンティー、ティレンティー」
宅配だろうか?玄関のチャイムが鳴る。弥佳は思い当たる節がない。まぁいい。ちょうど活動を開始する機会になった。着替えを物色し始める。黄色のふんわりワンピに白のトップス。取り出して、ベッドの上に広げる。下着を買いに行くのだから、着替えやすいほうが良い。頭はどうしよう。ボサボサの髪を手櫛で整えながらも考える。ふぅん、帽子にしよう。取り出したのは麦わら帽子。お百姓さんがしている大きいのじゃなくて、平たく、ちっちゃいやつ。赤いリボンが巻かれている、可愛いやつ。
(ちょっと夏っぽいかな?)
改めて、オレンジっぽいベレー帽を取り出した。
(これで良いや。)
カーテンを閉め、パジャマを脱ぐとワンピースを頭からすっぽりかぶる。両手を出して、頭を出す。引っかかった所を整えて、背中のファスナーを上げた時に、ドアがノックされた。
「コン!コン!」
「ちゃんと着替えてるよ。」
ドアを開けながら弥佳は言う。先制を取ったつもりだったが、そうではなかった。ドアの外に立っていたのは血の気を失った佳奈恵だった。明らかに弥佳の様子を見に来たとは思えない。
「弥佳。警察の方がいらしているの…。」
佳奈恵は振り絞るように、そう言った。
ザクッ。弥佳は心臓を突き刺すような衝撃を受ける。鏡を見なくても、自分の顔が引きつっているのが判る。
「なんだろ?すぐにいくから。」
弥佳は作り笑顔で一旦ドアを閉めると、とりあえず着替えを完了させる。もちろん帽子はかぶっていない。髪はブラッシングする時間が無いので手櫛で整えるだけで済ませた。大丈夫。大丈夫。何度も自分に言い聞かせながら。
一階の玄関に行くと、佳奈恵が上框からちょっと下がったところで正座しており、二人の男が土間に立っていた。一人は五十代前半で、ちょっと小太りだった。温和そうな顔には深い皺が何本もある。と言うより、目尻の多くの皺が温和そうに見せているのかもしれない。髪は七三に分けているが、癖毛なのか、ビシッとそろえた感じには見えない。そして、半分以上が白く、色を失っていた。古参の刑事なのだろう。
もう一人は対照的だった。若く、スリムで、黒々とした髪を整髪料でカチカチに立てている。身長はそれほど高くないが、フィットしたスーツでピシッと決めているので、バランスよく見える。しかし、古参の刑事ほどではないが、足元は少々草臥れた革靴を履いていた。経験としては、ようやく『駆け出しの刑事』のラベルが剥がされた頃合だろうか。
「お出かけですか?申し訳ありませんな、お休みのところ。」
弥佳の格好を見た古参の刑事が形式的な礼を言う。『そう思うのなら、帰ってください。』言ってみたい台詞だが、口に出来ない。呼吸が間に合わないのだ。早くなる鼓動は、それにあわせた呼吸を求めてくる。弥佳はそれを押しとどめる。今口を開くととんでもない口調になるのは明らかだ。努めて素知らぬ顔をする。
(心臓!おとなしくしろ!)
弥佳は心の中で叫ぶ。
「三重県警刑事部の福富次郎です。こちらは同じく、久保善徳。」
福富はベルトのケースから警察手帳を取り出し、身分証明として開いて見せた。既に佳奈恵に対して、身分を証明しているはずだ。わざわざ改めて行う必要があるのだろうか?久保も同じ考えだったらしく、警察手帳を提示する用意をしていなかった。とりあえず会釈した後で、ごそごそとベルトのあたりを探り、警察手帳を取り出し、開こうとしたが、手帳を止めている紐に引っかかり、上手く開けなかった。それでも、涼しい顔をしてベルトにもどしてしまう。今更な感じもするし、開いたとしても、ちゃんと確認する暇も無く閉じてしまうのだ、大した事ではない。
「なんでしょう?…」
弥佳がようやく口に出来た台詞だった。弥佳は立ったまま応じる。
「先ほどお母様にはご説明したのですが、昨日十六時三十分ごろ、この辺りで車の乗り捨てがありまして、それを調査しています。何か思い当たる事はありませんか?」
福富が用件を切り出す。
(車の乗り捨て?)
「いえ。心当たりは無いです。車の乗り捨てぐらいで、県警の刑事さんが乗り出して来るんですか?」
弥佳は答える。そして訊ねた。あの悲鳴、やはり車の運転手は喰われたのだろうか。
「いやー、警察と言うのは慢性的な人手不足でしてね。こういった仕事もありますわ。」
福富は苦笑しながら言う。はぐらかされた。まぁ当然だろう。ただの乗り捨てであれば、車のナンバーをたどって、直接本人に訊けば良い。それが出来ない状態だと言う事なのだ。
「ほんの、ちょっとした事でも構わないんですがね。何か気になった事、ありませんか?」
「残念ながら、ありません。」
弥佳はキッパリと否定する。
「そうですか、有難うございました。学校も大変で、貴重なお休みなのに。」
話は締めくくりに入る。しかし、何か変だ。帰る姿勢ではない。
「大変なんでしょう?学校?」
学校?何の繋がりがあるかわからない。福富は和やかな顔をしながら、返事を待っている。
「別に…、普通に始まりましたけど。」
「そうなんですか?」
福富はちょっと驚いた表情をしてみせる。
「いえ、昨日、大変そうに走っておられたと伺ったものですから。」
く、弥佳はたじろぎそうになる。佳奈恵もなぜかビクッとしたように見えた。福富が聞きたかったのはこれだ。福富が温和だと言うのは間違いだ。目を見たくない。しかし、逸らせば余計に疑われる。
「整理痛が酷くて、早く家に帰って、薬を飲みたかったんです。」
弥佳はそうつくろった。福富は額に手をやり申し訳なさそうな、いや、本心はどうか分らないが、そんな顔をする。
「いや、はや、本来、警察が取り締まるべきところを…。言いにくい事を話題にしてしまって、重ね重ね申し訳ありません。世間話など、成れぬことはせぬ物ですな。本当に申し訳ない。くれぐれも、訴えたりなどしないで下さいよ。」
セクハラの事だろうか、福富はそう言い、笑いながら会釈をした。福富はもう一度警察手帳を引っ張り出して開くと、中から名刺を取り出した。
「何か思い出す事がありましたら、こちらにご連絡ください。」
弥佳は受け取らなかった。いや、動かなかった。福富は佳奈恵に名刺を託す。
「それでは。」
福富はそういうと踵を返して外にでる。久保も後に続く。訊きたい事を訊き終わり、引き上げるのだ。福富は深々と礼をして、玄関の扉を丁寧に閉めて行った。
「警察って、ドラマ通りなんだね。」
弥佳は重たい空気を何とかしようと試みたが、上手く行かなかった。そして、心臓もまだ言う事を聞いてくれない。
「あたりですかね?」
門扉を閉じた頃合に久保が言い出した。
「おまえ、新米に逆戻りか?初動捜査の段階で、変な推測をするんじゃねぇよ。」
福富は久保を戒める。
「怪しいと思うものを、放って置くわけにもいかんが、今はその時じゃない。」
そう言いながらも、福富は不安を感じていた。並のやり方ではお蔵入りするのではないか?と。そもそも何が事件なのだろうか。もちろん現場は事件そのものだが、その全体像が見えてこないのだ。
昨日の事だった。
「壊れた自動車が、道路に放置されている。」
一本の通報が事の始まりだった。大抵の者が酒気帯び運転を行い、事故を起こし逃走。そんな所だろうと思っていた。もちろん人身事故かもしれない。軽視してはならないが、単純なものだと考えていたのだ。ところが付近を巡回していた巡査が一足先に現場に到着し、変な報告、と言うより、応援の要請を送ってきた。
「血液の付着を確認、人身事故の可能性大です。とにかく、わけが分らない。専門家を全員集めてください。」
現場は住宅街の路地、ほぼ中央だった。自動車の破損は右側面の前部に集中していて、縦や、斜め方向、向きがばらばらな裂傷だった。深さも塗料を剥がした程度の物から、裂け目が生じている物まである。右側のサイドミラーは破砕、サイドガラスには、直径2センチの穴まで開いていた。フロントガラスは同じく2箇所に穴が開き、他にも叩き付けたような痕跡が見られる。ルーフやボンネットは、やはり右から叩き付けた、もしくは切り裂いたような傷で、右側が深く、先は車の半分までは届いていないものだった。そして何よりも、エンジンがかかった状態で発見されている。
所轄の刑事は頭をかきそうになる。彼の癖だ。せっかく手袋をしたばかりだ。危ない所だった。問題の血液は右前方のドア外部に点々と、一部は車体の傷に付着していた。それだけだった。車内を含め、それ以外の場所では発見されなかった。見た目上は。
そして鑑識官の一人が近づいてくると、車と道路右端の壁との間に、直径1mほどの範囲で血液反応が出たという。そして確認して欲しいと刑事に言いった。刑事は暗幕をかぶり路上を見る。青い光が細い網目のように、広がって見える。
「?!」
思わず刑事は立ち上がって、暗幕を取り去る。さらに懐中電灯で照らして確認するが、ただのアスファルトの道路だ。何か施した怪しいところは無い。鑑識官が説明を始めた。
「アスファルトの隙間にだけ、血液が残留している事になります。アスファルトの高いところと言うか、表面には血液の痕跡がありません。」
「そんなに簡単に、血液を拭い去る事が出来るのか?」
当たり前の事を訊いてしまう。その鑑識官は首を横に振った。
車の持ち主は未だ連絡が付かない。盗難車の可能性もまだ否定できない状態だった。そして、その日の夜には桑名警察署に捜査本部が置かれる事になったのだ。