核心
2年11組。
「以上」
教科書の説明が終わり、しばらくして時計を見ると『牛』が言った。
「ありがとうございました。」
リョウ以外の教室の全員が声を合わせる。
「何?」
驚きのため、リョウは合わせることが出来なかった。
清陵学園のホームルームは学級委員が全てを取り仕切り、担任はあくまで顧問として座す事が多かった。そのため、ホームルームでは「よろしくお願いします。」で始まり、「ありがとうございます。」でおわるのが通例となっていた。他に、外部からの特別講師が来た場合も、同じ挨拶を行う。リョウは初めて清陵学園に潜入したわけではないので、その辺は知っている。驚きは、もうこれで今日すべき事が終わってしまったのかという単純なことだった。
「おい。」
リョウは楓の名前をまだ覚えていなかったので、そう呼んだ。
「なんじゃ?」
「今日はこれで終わりか?」
「そうじゃ。帰宅部ならば、このまま帰ってもかまわん。」
リョウは額に手をやる。
「じゃぁ、俺は自己紹介のためだけに来たのか?」
これでは、急いだ挙句、新年度初日から来た苦労に意味が無い。
「ありがたいお言葉が1時間半も聴けたじゃろう、教科書ももろて、説明も受けたじゃろうが?それに、おぬしがおらぬ間に学級委員もクラス係も決めてしもうた。厄介な事に名前が挙がらず、ラッキーだったとは思わぬか?」
楓は顔に似合わず、変な言葉遣いをする娘だ。しかし、声のトーンのせいか、あまり違和感が無い。
「明日から来れば良かった。合理的にやれば今日やった事など明日まとめて済ませられる。」
「おぬし、なかなか面倒くさがりじゃのう。たしかに帰宅部であればそうかも知れんが、クラブに携わるものにとって、今日はこれからが本番じゃ。この後の見学会で進入部員を獲得せねばならんからな。今から準備で忙しい。」
「クラブねぇ」
リョウは右足を椅子に乗せ、それを抱えながら、ため息混じりで言った。
「おぬしはどうするつもりじゃ?うちには剣道部もあるがの、おぬしの得意な剣道とは異な物であろう?」
リョウの目つきが急にきつくなった。
「何が言いたい?」
楓に問いただす。
「おぬし、料理部に入ってはくれぬか?わしも勧誘せねばならぬ身でのう。男子を入部させたとなれば、鼻が高い。どうじゃ?」
楓はリョウの凄みをものともせず、笑顔で答える。良い返事を期待しているのだろうか。
「…俺はもう決まっている。勧誘はお断りだ。」
リョウはほっとしたと言うより、あきれた。楓に、そして自分にも。考えすぎた。もう少し肩の力を抜かなければ。リョウはそう思う。あまりピリピリしても余計な失敗を招くだけだ。それに鏡華が段取りをしてくれているのだ、自分が何者か、こんな所で見破られるわけが無いし、それがどんな存在かを知る者もいないだろう。
「そうか、残念じゃのう。神路鏡華が顧問を務めるクラブかの?」
楓は打って変わってしょぼんとした声で訊いた。
間も無く休憩が終わろうかという時、突然前側の扉から白とスカイブルーのツートンカラーのジャージを纏った男がダンボール箱を抱えて入ってきた。そして段ボール箱を教卓の脇に置く。ドシンという音が段ボール箱の重さを物語っている。その音は弥佳を現実に連れ戻した。その男の顔はちょっと焼けており、堀が深い。あの格好は絶対に体育担当の教師だと弥佳は思った。それも顔の前で親指を立てながら笑うと歯が光るに違いない。そんな清々しい顔をしていた。
「あれが新しい教科書かな?」
と優が誰宛にでもなく訊く。
「それはそうだろう。今から教科書を配る時間だからな。」
と朋美がこたえる。
判っていても何となく訊いてしまうものだ。
体育教師は、『男子は全員こっち来い』と声をかけながら、教室から出て行く。男子はおのおの席を立ち、教室から出て行こうとすると、既に廊下に出ていた体育教師が『駆け足!』とはっぱをかけた。業者か手の空いていた教員が、ホームルームの間に、各教室の生徒数に合わせて小分けして、廊下に用意しておいたのだろう。一旦廊下に出て行った男子は、順番に重そうな段ボール箱を抱えて教室に入ってくる。そして、教卓の脇に置くと、新しい箱を取りに廊下に出て行ってしまう。まるで蟻のようだ。
最初は男子の様子を小ばかにしながら眺めていた弥佳だったが、だんだん積まれていく箱の数に笑顔が無くなり青ざめていく。
(いったい幾つあるんだ?)
朋美も優も顔が引きつっていた。ただ碧唯だけが、にこやかに笑っていた。
休憩時間が終わった。
「はい、今から教科書の配布と説明を行います。」
と体育教師が言った。
(えー、神路先生は来ないんだ!)
弥佳はがっかりする。だから、伝言だったのだと今頃気付く。この時間も鏡華が来るのであれば、直接言えばいいのだから。しかし、いったい何をするのだろう。まさか予想通りの展開?ヒャ。どうしよう。思わず顔が赤くなる。いや、純一からは進路指導とクラブの勧誘と聞いている。なんだろう?また考えが元に戻ってしまった。伝言を聞いてから、今迄、何回も同じところをぐるぐると考えてしまう。一向に先に進まない。居残りの理由がどうにもおかしい。ただの口実であり、奥深い目的があるのではないか?そんな考えが弥佳に淡い期待を持たせ、堂々巡りをさせているのだ。そもそも何で伝言なんだ?この時間に来ない。それは判る。しかし、あの時、数メートルも歩けば直接言えたのに、純一に伝言を頼むとは…。まさか!ここで、弥佳の跳躍的発想の転換が発生した。
(まさか、私と先生が怪しいと思う生徒が出たとき、古堅を使ってカモフラージュする為?)
誰かが怪しいと思っても、純一が『進路指導とクラブの勧誘をしていたらしいよ』といえば、そこで収まってくれるではないか!弥佳は超難問のクイズを解き当てたかの様な、すっきりと、晴々した気分になる。よくぞ気付いた。みんなに自慢したいぐらいだ。
「弥佳ちゃん!」
碧唯の声ではっと我に返る。弥佳に教科書を回そうと後ろを向いているのだが、重い教科書を椅子の背もたれに乗せながら、手をプルプルさせて必死に耐えている。私の机に置けばいいのにと思った弥佳だが、気付くと既に2種類の教科書が山になっている。
「弥佳ちゃん早くまわしてよ!」
「ごめん、ごめん」
またやってしまった。
早く教科書を後ろの子に渡さなくては。自分の分を一冊取ると英語の教科書だった。残りの分を後ろに回す。
「おまたせー」
恐縮そうな顔に明るい声。そう言って碧唯から受け取った教科書は、さっきのとは違う英語だった。一冊取ると残りを後ろに回す。机の上に乗っている教科書は、またまた違う英語だった。『コミュニケーション英語』に『英語表現』『英語会話』?わけが判らない。これは想像をめぐらしている場合じゃない。ちゃんと説明を受けねばと思いながら、一冊自分の分を取ると、後ろに回した。
古めかしい木造建築の学校の様な部屋の片隅。しかし置いてあるのは生徒が座るような机や椅子ではない。入り口の正面に位置するところには木製の重量感のある机。その手前には低いテーブルと、それをはさんで片側には長いソファー、反対側には一人がけのソファーがニ脚置いてある。部屋の内装に全くにつかわない重役のオフィスの様な家具類だった。
リョウは今日入部してくるはずの生徒の為に、準備をしていた。楓に影響されたのか、自分も何か用意をしておこうと言う思いになったのだ。『マナ』の適正を調べる為の道具類。水晶玉に、タロットカード、羊皮紙に砂鉄。それらをテーブルの上に並べると、今度は書類関係の準備を始めた。
教科書の配布と説明が終わる。今日の必須授業と言うか、必須行事はこれで終了だ。生徒達は教科書と言う重い荷物を、鞄なり、用意してきたショルダーバッグ等に詰めると、さんざばらばらに席を立っていく。帰宅部の者は帰り、クラブに興味のあるものは荷物を置いて見学会に参加しに行った。
「お先に帰るね。」
碧唯はそういうと鞄とバッグを重そうにしながら、教室を出て行った。
「それじゃ。」
「今度月曜日ね。」
朋美も優も教室を出て行った。三人とも帰宅部だ。
弥佳はそれぞれ笑顔で手をふって送り出した。一応帰る用意も出来ている。あとは鏡華のところへ行くだけだ。教科書の説明を真剣に聞いていたからかもしれないが、今は想像力が働かなかった。鏡華に呼ばれている…そんな特別な感じではなく、ただ先生に呼ばれている、そんな感じだった。高揚感が全く無い。
「荷物は置いていこう。」
教室にほとんど生徒がいなくなったころ、弥佳は職員室に向かった。
弥佳は生徒指導室で椅子に座り鏡華を待っていた。少しここで待つようにとの鏡華の指示だった。
「おまたせ」
急に扉が開くと、鏡華がカップを2つ持って、入ってきた。カップの一つを弥佳の前に置き、もう一つをその脇から、席一つ分離れた所に置くと扉を閉めにいった。
「先生」
か細い声で弥佳は訊いた。
「まぁ、コーヒーでも飲んで落ち着いてから話をしましょう。ミルクと砂糖は一つずつで良かったかしら?」
「はい、でも、コーヒーを出してくれる進路指導なんて初めてです。」
弥佳は苦笑する。
「それは、クラブの勧誘もあるからかな?」
鏡華はちょっと笑うと、コーヒーを置いたところに座る。弥佳の対面に座る事はしなかった。対面に座ると言う事は、正面からぶつかり合う折衝を行う事を意味するからだ。静かな中、二人はコーヒーを口にする。そして時間が流れる。五分ほど。
「笹木瀬さん、あなたは今、人生最大の岐路に立っています。これからの人生を決めなくてはなりません。」
鏡華が話を切り出した。
「先生…私だけが決めなくてはならない進路って、何なのですか?」
弥佳は鏡華をじっと見据える。もはや想像する必要は無い、直接訊けばいい、その為の時間だ。岐路とは何か?特別科目の選定とか、学校の事は思えない、そして、その決断が自分の人生そのものを決めてしまうような口ぶり。
「あなたには、他の人には視えないものが視えるわね?」
弥佳の心臓が一瞬止まる。心臓は一回分血液を押し出すのをやめ、普段の倍を溜め込んだ。そして、二回分の血液を一気に力強く吐き出す。ドキン。一瞬意識が遠のいたかと思うと、体が弾けてしまうのではないかと思うほど、全身に血液の圧力がかかる。
「え、あ、」
弥佳は思考が停止する。言葉も出てこない。心臓はさっきほどではないが、早く、力強い定期的な鼓動を打つ。
「そして、それを悩み、苦しみ、耐えてきたのでしょう?」
鏡華は弥佳の手に、自分の手を添える。弥佳の手は小刻みに震える、何故こんな所で『視えてしまうもの』の話に通じてしまうのだろう。今日出会ったばかりで、話した事も無い、そんな知らない人が自分の事を知っている。信じてもらえるように懇願した両親や、友達さえも信じてくれなかったことを、そして、それを苦しんできた事さえも知っている。
「話してくれる?」
鏡華は優しく言った。
「う、うわー、」
弥佳は話すことが出来なかった。全ての想いを押しのけて、泣き声が口を独占する。涙が目を独占する。弥佳は鏡華の手を握り返すと、俯いて泣いた。泣く事しか出来なかった。鏡華はそんな弥佳を抱き寄せ、優しく包んでくれた。
どれほどの時間がたったのだろうか、少し落ち着いた弥佳は順を追って話し始めた。いつごろから、どんなものが視えたのか、そして、おそらく鏡華は求めていないだろう事、周囲の反応や、つらい思い出まで。それでも鏡華はずっと頷きながら、親身に聞いてくれた。
「ごめんなさい、つらい事を思い出させてしまって。」
話が転じるときが来た。お悩み事相談などではない。今から鏡華の言う事を受け入れ、決断しなければならない。その時が来た。
「笹木瀬さんや『私達』が見えるもの、それは『魔物』と呼ばれるものたち。笹木瀬さんが見たものの他にも、ややこしいけど悪魔や悪魔的なもの、不死を得たもの、人間とほとんど変わらない亜人間だけれど人間に害をなすものなど、人間にとって都合の悪いものの総称よ。」
弥佳はじっと聞いている。
「人間は、人間とか、動物、植物、そういった既知の種族しか見る事が出来ない。だけれど、突然それら以外の魔法的なもの、魔物、精霊、妖精が視える様に適応した人間が現れる。それがあなた。今のあなたには精霊や、妖精も見えるはず。でも、あなたは視ていないし、視る事は無いと思う。森は失われ、大気は汚れ、水はにごり、大地はコンクリートやアスファルトの下に埋もれてしまった。そんな所には妖精達は住めない。だから、笹木瀬さんに視えて、通常人に見えないものは『魔物』しかない…。どう?視えてしまうものが判った?」
弥佳は頷く。
「何となく正体は…。それで、私はどうなるんですか?何かしなくちゃいけないんですか?」
これまでの疑問の解消と、新たなる不安。
「『魔物』は人間を糧としているの。つまり、人間を食べる。それは、身体そのものであったり、生命力だけであったり、色々あるけれど、少なくとも食べられた人間は、いなくなってしまう。体だけ残っても、それはもう人間とはいえない。笹木瀬さんがするべき事は、まず選ぶ事。戦うか、今まで通り生きていくか、その二択。」
「戦うって!…そんな、私、出来ない!」
弥佳は取り乱す。やはり、『視えてしまうもの』は有害だったんだ。有害と言うより殺される!?
「落ち着いて!だから『私達』がいる!」
暴れそうになる弥佳の腕をつかみながら、鏡華は叫んだ。
「『私達』?」
弥佳は力が抜け、呆然としながらつぶやいた。
「そう、私と弟のリョウ。『導きの者』と呼ばれているわ。」
「『導きの者』?」
「もし、あなたが戦う事を選んだなら、身を守るすべを教え、あなたが魔物を倒せる様に育てあげる。それが『導きの者』の役目、魔物を倒せるようになったあなたは、『退魔師』と呼ばれるようになる。」
「先生が…?」
「そう。だけど、その代償として、自分自身が守れる様に育ったら、『退魔師』として、他人を助けるために、魔物と戦い続けなければならない。それが条件。」
条件はかなり厳しい物だった。得る物は自分の身を守る方法だけ。自分の身を守るのは結局自分。しかし、満足に戦えるようになれば、自分を守りつつ、他人を守らなければならない、その使命を負えと言う事だ。
「もし、今迄通り生きていく事を選択したら、どうなるんですか?」
「視えないふりをして生きていくだけ。結果、生涯を全うして終えるかも知れないし、魔物に喰われてしまうかも知れない。運がよければ、『私達』に助けられるかもしれない。だけれど、おぼえておいて欲しいのは、その道を選んだならば、笹木瀬さんも普通の人と同じ。特別扱いは出来ないわ。そして、身の危険を察知しても、誰も信じてはくれないし、助けてもくれない。」
「そんな!おかしいじゃないですか?ただ視えるって言うだけで、私は守ってもらえないのに。だから訓練して、戦って、自分で守って!それなのに、他の人を無条件で守るなんて!そんな、なぜ?」
「戦いを拒んでも、守らないとは言って無いわ。普通の人と同じ扱いにするだけよ。」
鏡華は一部の誤解を正す。
「普通の人は視えないじゃないですか!襲われても判らない!でも私は判っちゃうんですよ!戦うのを断ったら魔物に襲われても、連絡しても、助けてくれないんですよね?恐怖し、苦しみながら喰われろって事ですよね!?」
魔物を探せるだけでも、居場所を通報するだけでも、貢献できているはずだ。なのに、それを無視すると言う。見捨てるという。それは、誘いを断った弱者に対する制裁としか聞こえない。弥佳はその理不尽な条件に我を忘れる。
「ごめんなさい。戦える人間は僅かしかいないの。本当は全ての人間を助けてあげたい、だけれど、それだけの戦力はどうあがいても用意できない。多数の悲しい結果を出しているの!だから『選択して』と言っているけれど、本当は戦える素養を持つ人は全員一緒に戦って欲しい!それが現実!…なのに、戦う素養を持ちながら戦わないなんて、だけど守ってくれって、そんな事言われて助けに行ける!?命がけなのよ!?」
鏡華の返答は言葉が紡ぎ出されるほど、感情的になって行った。鏡華は自分の手をこぶしにして膝の上に乗せると、ぎゅっと握り締め、そして歯を食いしばった。そして僅かな沈黙。
「ごめんなさい、取り乱してしまって。笹木瀬さん、コーヒーをもう一杯どう?」
鏡華はコーヒーのお変わりを勧めたが、弥佳は断った。
「私はもう一杯頂くわ。」
そう言うと、鏡華は一旦生徒指導室を後にした。
鏡華が戻っても、沈黙の時間が続いた。弥佳は一方的な話の内容に怒りを覚えていた。しかし、鏡華があの様に声を荒げるなどとは思いもよらなかった。そして、あの苦しそうな、悔しそうなあの表情。血が滲んでしまうのではないかと思えるほどに、握り締められたこぶし。尋常ではない。言いたくても言えない特別な事情があるのか?
今迄『視えてしまう』だけで恐怖の対象だった『魔物』と戦う事を切り出され、感情的になり拒絶してしまった。『視えてしまうもの』の存在を理解してもらえる人間に出会い、救われたとの思いとの落差が、より一層反発させたのだ。そして、その反発的な言葉が鏡華をも感情的にさせた。そう、触れられたくない何かに触れてしまったのかも知れない。今となって弥佳は、鏡華の苦しみの理由を知りたかった。知らなければ後悔の無い選択など出来そうに無い。すれ違ってしまった話。もはや弥佳にはそれを正し、戦うか無視するかを選択する話ではない。鏡華を肯定するか否定するか、その選択に変わっている。鏡華が肯定すべき存在であり、思い通りの人ならば、助けを指しのべなければならない。友達ではなくとも、同様に信頼を持つべき相手だ。耐えがたい内に秘めた苦しみを少しでも和らげてあげたい。さっき自分が『視えてしまうもの』話を聞いてもらっただけでも、救われたように。互いに助け合う。今日学んだばかりの事ではないか。だが、否定すべき人ならば、『魔物』に対する嫌悪と憎悪に駆られた鬼であり、人間を守るのではなく、ただ『魔物』への復讐と滅亡を渇望し、その力を欲する人ならば…。弥佳は平静さを取り戻した。そして思考回路がONになった弥佳は提案をも申し出る。
弥佳は、コーヒーのお変わりを口にし、落ち着きを取り戻そうとしている鏡華に話しかける。
「先生、お願いがあるんですけど。」
「どうしたの?」
「先生、この話って、もう学校の話じゃないですよね?」
「まぁ、学校の話とは言えないわね。」
「なら、先生としてではなく、『神路鏡華』自身の言葉で説明してください。言葉使いもどうでもいいです。一人の人間として話してください。さっき『本当は一緒に戦って欲しい』って言ったじゃないですか?無理に感情を押し殺さなくてもいいです!教員らしく段取りの良い話し方じゃなくてもいいです。もっと素直に、どう選択すべきかを教えてください。先生はとっても苦しそうです!心の中に何かを押し殺してます!」
弥佳はじっと鏡華の目を見据え、そして、説得する様な強い意志で願いを申し出る。
鏡華は自分がつくづく不器用である事を呪った。もっと経験のある、政治的な能力を持った人間であれば、もっと事をうまく運べたかもしれない…。
鏡華は今まで気丈に生きていた。そんな性格ではなかったが、立場上それを求められた。自分の失敗も、辛い思い出も、後悔も、どんなに苦しくとも誰にも語る事は出来なかった。なぜなら、それを受け止めてくれる人間などいなかったからだ。両親は幼い時からいない。魔術の師匠は、そんな人間性をもたらしてはくれる人間ではなかった。だから、そんな苦しみは、ずっと心の奥底に沈めてきた。そして、弟にも、教え子にも、弱みを見せてはいけない。不安がらせてもいけない。どちらも、自分が守ってやらなければならないのだ。鏡華はいつも自分にそう言い聞かせてきた。弱々しく後悔に打ちひしがれる人間が、人を守ってやる事など出来ないと…。それが、いくら自分が見込んだ人間とは言え、年端の行かぬ少女に看破されてしまった。そして、その少女は、それでも話を聞いてくれると言う。鏡華にとって初めての出来事だった。自分を受け止めてくれる人がいる?それも、こんな少女が?だが、鏡華の苦しみが弥佳の想像を逸したものであればどうだろう。どんな苦しみでも受け止めてもらえるのだろうか?いや、弥佳はそれを見極め様としているのかも知れない。だが、弥佳が認めてくれるのであれば、甘えるつもりなのか?今迄の自分はなんだったのだ?教え子に甘える事、それは今迄の自分を否定する事。鏡華は今までの生き方を否定する事が出来ない。それはとてつもなく恐ろしいように感じた。過去と現在、そして未来まで失ってしまうようにも思えた。
「私の言葉で説明すると言うことは、偏見や、感情も伴い、そして、如何に私が不完全な人間かを知ってしまう。それでも、そんな要素を含んでも、後悔の無い選択ができる?」
鏡華はそう訊ねた。
「先生自身の言葉がいいです。何があったのか、どんな想いがあるのか、心で先生の事を理解して、将来や、家族や、友達の事、全部含めて決めたいんです。有利不利では無くて、自分の生き方として。」
鏡華は一度ため息をついた。そして語り始めた。拒む余地が無い。弥佳は戦う事に恐怖した。それを取り繕う為に、あせって口にしてしまった威圧感のある言葉。このままでは、あの言葉が弥佳に人生を決めさせてしまう。だが弥佳はそれが真意でない事をさとり、もう一度チャンスをくれているのだ。その気持ちに応えるには、全てを語るしかない。
「私は、『魔物』が視える人間は、『魔物』と戦うことを運命付けられた人間だと思っていたの。そして、それを裏付けるように、『魔物』が視える子は例外なく『魔物』と戦う力を内に秘めていたわ。だからこそ、その子の力を導き出し、共に『魔物』と戦う事が世の中の為、そして、それ以上に、その子本人を確実に守る方法であり、最も幸せな人生をおくってもらえる方法だと思っていた…。」
過去の鏡華であれば何としてでも、戦いを選ばせただろう。いや、選択などではなく、戦いに身を投じなければならない運命を解いて聞かせてきた。戦う事を拒めば見捨てるのではない、戦う事を学べば救ってあげられる。それが鏡華の信念だった。しかし、今はその信念が揺らいでいる。そして、その迷いが言葉に表れてしまったのだ。
「だけど去年初めて、教え子を失ってしまったの。その子はすでに『魔物』と戦う術を学び、戦える力を得ていた。慢心を持っていたわけでも、油断する様な子でもなかった。だけど、ある日、友達を助けると飛び出していって、帰ってくる事はなかった。遠い地で戦っていた『私達』を待っていては、間に合わないと判断したのだと思う。そして、その後、『私達』が駆けつけた時には、何も出来る事がなかったわ。いいえ、『私達』がたどり着いた場所が、その子の最後の場所であった確証すら無いの。誰を助けようとして、何と戦ったのかも判らない。『私達』が見つけたのは、その子が既にこの世を去ってしまった痕跡だけ。本当に何も出来なかった。何も…。」
鏡華はそこで言葉に詰まった。命がけで助けに行く覚悟をしたのは鏡華ではなかった。だからこそ、弥佳に助けにいけるのかと問うたのだ。そして、その根底には、誰かの命が失われる事になっても、教え子を失いたくないという、純粋な愛情があった。弥佳は教え子になるかも知れない子だ。だが、まだ教え子ではない。助けてもらえて当然と考える人間の命と、教え子の命を引き換える事など、到底許せなかったのだ。命を懸けて助けに行った教え子の事を、当たり前の事のように考えて欲しくない。だが、鏡華ももう落ち着きを取り戻している。あえて弥佳にこの言葉をぶつけるような事はしなかった。そして、弥佳はそれを理解したのか、今度は弥佳が、鏡華の震える鏡華の手をそっと包んでいた。
「教え子が命を落とすなどと言う事は、有り得ない事、有ってはならない事よ。『私達』がいるからには危険な戦いは回避するし、回避できなかったとしても、必ず守ってみせる。でも、それが絶対ではない事を痛烈に感じたわ。本人が不利を覚悟してでも戦えば、なおさらの事。戦う力を持った事が仇になってしまった。私が戦う事を無理やり教えたせいで、その子を死なせてしまったの。強引な方法を使ってでも、止めるべきだった…。いえ、それ以前に戦うことを教えるべきではなかったかもしれない。」
鏡華の想いは『魔物』に対する憎悪でも復讐でもなかった。大切に育てていた生徒の死。
その悲しさと、その子を戦いの世界に導いた自分に対する疑問。弥佳は鏡華が思った通りの人で良かったと思った。救ってあげたい。しかし、弥佳にはかける言葉が見付らなかった。実際に戦いの相手は目の当たりにしている。とてもじゃないが、無事を約束されて戦える相手とも思えない。もっと多くの命が失われているのかと想像していた。きっと鏡華たちは、教え子たちに訓練をつませ、弱い『魔物』を探して実戦を経験させ、時には命をかけて守り、地道に、大切に、肩を並べて戦えるようになるまで、『退魔師』と呼ばれる日まで、生きる喜びを分かち、育てていたのだろう。弥佳は軽率な言葉を口にしていた事を後悔した。
「『魔物』を無視する様に伝えたならば、あの子はどんな人生を送ったのか?それを考えない日は無いわ。もちろん『魔物』を完全に無視する生き方も、容易ではないと思うの。腹が減っているか、身の危険を感じない限り、魔物が人間を襲う事は皆無よ。魔物に出会っても襲われる事は少ない。だけれど、必ずそうとは限らない。魔物の様相を視るだけでも精神的な負担になるし、誰かが襲われているところを目の当たりにしたとき、ましてや、それが家族であったり、友人であったとしても、それでも、『魔物』の存在を無視できるのかしら?さらには自分自身であったなら、その時、何を思うのか想像もつかない。何が長く生きる方法だったのか、そして、あの子が一番望む生き方は何だったのか、色々な事が頭を巡るの。私には永遠に出せない答えなのに…。」
鏡華が語る言葉は説明から程遠く、今でさえも心を縛り続ける過去の思い出話となっていった。過去の出来事を語る事によって、呼び覚まされる苦悩にあえぐ鏡華の姿は、それを語らせた弥佳にも罪悪感をもたらす。訊き終えた今となって、弥佳の心もどこか同調し、つらく、苦しく、忘却のかなたに葬りたい、弥佳自身の過去のように思えた。胸が苦しい。だから、鏡華が話してくれた以上、より良い結論を出さなければならないと弥佳は思った。それは、鏡華が望む返答をする事ではない。弥佳自身が責任を持って出した返答をする事で、後々に鏡華を苦しめる事の無い様に、何を考え、重視し、選んだのか…、たとえどの様な結末が待っていようとも、鏡華も、弥佳自身も後悔の無い返答をしようと思った。そうでなければ、悲しみが連鎖する。教え子の死が鏡華の信念を崩壊させた。その子は強く育っていたとは言え、鏡華たちの加護を必要としていた。しかし、その加護が届かぬ所ですら戦う事を望み、命を落とした。生きぬく為の戦いの術を、生き様を守る為に使い、命を落とした…。その子は何を思い戦いに望んだのか、もし伝える事が出来るのならば、死と言う結果をどう語るのだろうか…。弥佳は願う。たとえ命は落としたとしても、何かを守りぬき、感謝の言葉が鏡華に語られる事を。そして誓う。自分は誰にも、この様な思いをさせてはいけないと…。
「申し訳ありませんでした。辛いお話をさせてしまって…。それに事情も知らないのに、勝手な事を言ってしまって…。」
弥佳は素直に謝った。
「いいのよ、笹木瀬さんがどういう状況にあるのか説明するのが私の仕事。でも上手く説明できなかった。だけど、私の…、ちがうわね。その教え子の話をする事で、結果的に分ってもらえたのなら、職務を果たすの為に必要だった話と言う事よ。」
「…でもごめんなさい。」
弥佳はとにかく謝りたかった。なんだろう…、こんな話を求めた罪悪感から?いや、ちがう。なんだろう…。あ、だめだ。眼に涙が溜まってくるのを感じる。
「私は先生の話を聞いて、先生の力になりたいと思いました…。それは私が戦う事を選択するのが一番だと思います。でも、上手く戦い方を、おぼえる事が出来るかどうか、不安なんです。そして、やっぱり怖いんです。どうしようもなく『魔物』が怖いんです。どうして良いか判らないぐらいに…。」
弥佳は冷静だった。しかし、鏡華の目を見つめながら、ゆっくりと顔を横に振り、涙をこぼした。
「ごめんなさい。」
今度は鏡華が謝る番だった。
「でも、『魔物』が視えてしまう者には、避ける事の出来ない選択なの。よくよく考えて。
笹木瀬さんが出した結論には何も言わないし、誰にも、何も言わせない。もう、全てを聞いてもらっての結論だから。でも忘れないで欲しいの、あなたには『魔物』と戦う素養がある。だから、『私達』が来たと言う事をね。」
弥佳は何も言わずにうなずいた。
「それから、『魔物』が視えてしまう者は魔物に狙われやすいから注意して。」
弥佳は涙目のまま、ゆっくりと、そしてほんの少し首をかしげた。その目が話の続きを促していた。
「ゴブリンとか、オークとか、RPGの好きな笹木瀬さんには分ると思うけど、その類の『魔物』が案外脅威なの。彼らは、普通の人間には『視られる』事がないと知っている。その事実が、彼らに有利性と、安心感をもたらしているの。だから、もし『視える』事を悟られてしまうと、状況が一転してしまう。『視える』人間とまともにやりあっては、彼らもただではすまない。逆に返り討ちにあうかもしれない。彼らにとって、笹木瀬さんは安心を脅かす存在となる。彼らは不利だと思うと逃げてしまうけれど、それで安心してはだめ。彼らは、安心を脅かす者を何とか排除しようとする。安心を取り戻そうとする。付狙われる事は間違いない。こっそり夜中に忍び込んだり、仲間を集めて大勢で襲ってきたり、確実な方法で襲ってくるから。だから、彼らの存在に気付いても『視える』ことを悟られない様に、上手く、完全に無視するのよ。」
戦いを望まない場合にでてきた『無視』すると言うキーワード。そうか、ただ逃げる事では済まないのだ。『視える』事を悟られず、安全を確保しなくてはならない。『視えない』人には極自然の立ち振る舞いを、『視えてしまう』人は恐怖に耐えながら、演じなくてはならない。『視えてしまう』者のみが持つ特有の危険性。
「ゴブリンやオークも、慎重に、人目の付かないところで人を襲うから、目にする事は無いと思う。だから、もしも…、もしもの時の話ね。」
鏡華は弥佳を、これ以上おびえさせない様にと付け加えた。そして、取り出した紙に、何かを書き加えて弥佳に渡す。取り出した紙は部室への地図で、携帯の電話番号が添えられていた。先ほど書き加えたのは、この電話番号だ。何かあったら、電話してくれと言う事だった。鏡華は、気休めでも弥佳を安心させたかったのだろう。そして、決心が付いたら、放課後に、地図にある部室に来て欲しいと、そして、例え場所がわかっていても、その地図を持って来るようにと、鏡華は念を押して言った。