鴻鵠もまた
やはりフィクションです。
時代考証とかは忘れてください。
以前書いた「不如帰」が60フィクションくらいなら今回のは50フィクションくらいかと思います。
天正10年(1582年)。初夏の上野は緑に萌えていた。高台から四方を見渡せば目に映るのは必ず山。厩橋城を囲む平野にはのどかにも色とりどりの花々が咲き乱れている。城郭を挟む二つの河岸では投網を打つ漁師の姿がちらほらと見え、女房衆は童子を連れての洗濯に忙しい。
いずれも、この国がつい三月前までは血肉と砂塵の舞い飛ぶ戦場であったなどとは思えないほど、実に平和な光景であった。
厩橋城主滝川一益は、天守よりその穏やかな城下を見下ろしていた。盛夏さながらの強い日差しの下、時折頬を撫でる冷たい風が未だ春の名残を感じさせる。蝶が舞い小鳥がさえずる静かな生命の営みは、それを見る誰しもの心を自然と和ませるものだが、一益の表情は決して明るくなく、むしろ物憂げな様子であった。
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家臣団。中でもとりわけ信長よりの信厚く、四天王と称される有力家老の一人として名を連ねるのがこの滝川一益と言う男である。はたから見れば彼に思い悩むことなど無いはずであった。
信長の代から織田家に仕え、譜代の家臣を凌ぐ早さで出世を重ねた一益は、関東統括の責任者として織田領最東端の上野一国を賜ったのだ。北に上杉、南に北条と二つの大勢力に挟まれ、国内にはかの武田信玄を悩ませた意気盛んな国人衆、隣国には全盛期ほどの権威は無いものの未だ復権の意志を失わない関東公方足利家も拠る複雑な土地である。任せた信長の一益に対する信頼は言うに及ばない。
一益はその信頼に見事応えて見せた。拝領から二ヶ月あまりの現在、課題であった国人衆の取り込みも概ね順調に進み、北条との関係も表面上は良好。常陸の佐竹、安房の里見のみならず、遠く奥州の蘆名伊達にも使者を送る抜け目の無い仕事ぶりは、任せた信長も十分に満足のいく働きだと言えるだろう。
不意に一益は顔を上げ、「何か」と、閉じた板戸を振り返った。応える声は若い。戸の向こうから低い調子で用件を述べる。
「沼田の義太夫殿が、お見えに」
一益は城下へと視線を戻し気だるげに告げた。
「通せ」
眼前を過ぎる雀が二階の屋根に降り立つ。一益の目は自然とその動きを追っていた。
程なく板戸が開かれた。一瞬にして室内を臭気が満たす。現れたのは一益の従兄弟にあたる義太夫益重だった。益重は血糊の付いた具足姿のまま低頭した。
「面目次第もござりませぬ。越後入りの段、上杉方の手向かいにより、しくじりましてございます」
益重は跪いたまま瞑目した。叱責、落胆、罵倒、いかなる言葉も受け入れる覚悟で主の返事を待つ。しかし、意に反して、訪れたのは沈黙だった。
長い間の後、益重が恐る恐る顔を上げると彼の主はぼんやりと言った様子で窓外を眺めていた。憂い気味の横顔は益重が入室したときから寸分たりとも変化が無い。自分の声は主の耳に届いていないのではないかと、思わず益重は錯覚した。
ややあって、一益の口が開いた。目は相変わらず外に向けられたままである。
「ご苦労であったな。城に戻って休むが良い」
「……はっ」
答えたはいいが、益重はその場を動けずにいた。一益の、敗戦の報せを聞いたとは思えない呆気無い反応に困惑したのだ。
「まだ何かあるのか」
一益の顔がようやく益重を見た。いつまでも辞去しない家臣を咎める様な声音だった。
「はっ、いえ、……先刻から、いったい何を御覧になられているのですか」
益重の問いに、一益はほんのわずか目を見開き、ふっと笑った。
「近う」と呼ばれ、益重は窓際まで進み出る。
「あれが見えるか」
益重は一益の指す方向に目をやった。
「ほう、これは珍しい」
そこにいたのは一羽の鶴だった。天守の二階、その屋根の縁に一羽の鶴が羽を休めていたのである。落ち着き無く跳ね回る雀たちの動の中に、凛然と立つ静寂の鶴は、敗戦で荒んだ益重の心を一目で奪った。同時に益重は安堵する。彼の主はこの鶴の美しさに目を奪われて話を聞き流していただけなのだと。
「如何に思う」
一益の問いに、今度は益重が答えた。
「とても、美しゅうございますな。歌などろくに詠まぬそれがしでも、なにやら一句浮かんでくるような心持ちがいたします」
益重は素直に思うところを述べた。しかしそれは、一益の望む答えではないようだった。一益はため息交じりに頭を振った。
「益重よ、あの鶴は何故あのような場所にいると思う」
「何故? 羽を休めているのでは」
一益は再び鶴を指し、その指を下へと移した。
「あの鶴の見つめる先を見よ。田畑があろう。川があろう。そこにはおそらく鶴の食する糧も数多あることだろう。しかし、あの鶴はそこへは行けぬ。何故だか分かるか」
益重は主の指す城下を見た。理由は明白である。
「人が、多くいるからにございます」
一益は「然りよ」とうなずいた。
「鶴ともなれば、一日の糧を得るにも自由には行かぬ。人や獣にいつ襲われるやも知れぬ。遠間からじっくりと様子を見、万事宜しきを十分に確かめ、初めて糧にありつけるのだ。生まれ持っての美しさと引き換えに、やつらは心休まる時を知らぬのであろうな」
益重は返事に窮した様子で「はあ」と答えた。一益の言っていることは分かったが、その思うところを掴みかねていたのだ。
一益は再び二階の屋根を指差した。
「あれを見よ」
指差す方向には相変わらず鶴が佇んでいる。一益は指をちょちょいと動かし視線をやや手前へと促した。
「……雀、にございますか」
一益の示す先では数羽の雀が飛び跳ねていた。屋根に米つぶでも落ちているのだろうか、戯れつつもしきりに瓦をついばんでいる。せわしないその姿は特別感慨深いものではなかったが、見るものに安心感を与える微笑ましい初夏の景色でもあった。
「ただ飯を食うにも気を張り続けねばならぬ鶴と比べて、あの雀たちのなんと自由なことか。毎日の糧に事欠く浪人であった頃には考えもせなんだわ。大身になることがこのような不自由を伴うものだなどとはな」
雀を見つめる一益の表情は、やはりどこか寂しげであった。上州に入りて後、益重はしばしば主のその顔を目にしてきた。
「殿は、悔いておられるのですか。大殿様より、この上野を賜ったことを」
益重は、拝領を祝う宴にて、一益が残念そうに語っていたことを思い出した。あの時彼の主は確かに言っていたのだ。「甲斐を落としたあかつきには、小茄子を肴にうまい酒が飲めるものだと思うておったが」と。
珠光小茄子といえば安土名物としてその名を広く知られる茶器であるが、上野一国と比べるにはあまりにもささやか過ぎる褒美である。酒席の冗談と受けとっていたが、今の様子を見るにあの言葉は一益の本心だったのではないかと益重は思った。
一益は自嘲気味に頭を振った。
「悔いてはおらん。だが、何かと瑣末なことにも気を配らねばならぬ鶴と、自由気ままな雀と、一体どちらが恵まれておるのだろうかと、考えておった」
一益はちらと目だけを向けて問うた。
「益重よ、そなたなら何とする」
益重は即答できなかった。一城を預かるこの益重とて、巨大な織田の家中では一羽の雀に過ぎないのだ。鶴の苦労など知る由も無ければ考えたことも無かった。
その時、突然、屋根の上で佇んでいたあの鶴が小枝の様な細い足をくの字に曲げた。鶴はくず折れるような形で身を縮ませるとやがて脱力し、そのままなだらかな瓦の上を階下まで滑り落ちていった。抜け落ちた羽の軌跡が天守に白い点を描き、鶴はあっという間に二人の視界から消えてしまう。
益重は何も言葉にできぬまま一益を振り仰いだ。
一益は細めた目で吹き上げられた鶴の名残を見やり、静かにつぶやいた。
「……やはりか」
本来鶴は本州で冬を越し、春になれば北へと渡る鳥である。じき夏を迎えようと言うこの時期に、この上野で、目にかかることなど叶わないはずのものなのだ。病か、怪我か、老衰か。理由のほどは定かではないが、一つだけはっきりしていることがある。
あの鶴は渡る事ができなかったのだ。
月は変わり水無月(旧暦六月)、ある夜半のことである。滝川一門をはじめ織田家直参、与力を含めた主だった諸将は、突然厩橋城に集められた。寝入りばなを起こされた諸将は皆一様に不安と困惑で表情を曇らせている。一益の登場まで、皆の座す奥の間では不穏な噂が飛び交っていた。
「上杉が北条と結んで上野を挟撃する構えだ」
「下総の古河公方足利家が上野の国人衆と通じている」
事実無根の憶測は彼らの不安を加速させたが、はたしてやってきた一益は、一座でささやかれていた全ての予想を遥かに上回る凶事を告げた。
「大殿様が討たれた。京、本能寺にて、惟任(明智)光秀の手により」
一益はそれきりで口を閉ざした。沈黙。ややあってざわざわとした息遣いが油皿の炎を揺らしだす。
虚報、ではないことは一益の顔が語っていた。薄明かりの中浮かび上がる一益の目には光が無かった。悲しみ、怒り、それらを超える絶望が一益から表情を奪っていた。
一益にとって信長は標であった。茶の湯も具足の拵えも手本は全て信長だった。領国の治め方も家臣への振る舞いも、信長とのやり取りから学んだものだった。用兵にこそ一分の利があると言えなくも無いが、窮地に立たされたとき信長は誰にも及びもつかないような方法でいつも状況を打開するのだ。どれだけの戦で勝ちを重ねようと、その一度の閃きが無い限り、いつまでだって一益は信長の背中を追う者なのだ。
標を失った一益の目には、もはや何ものも映ってはいないように見えた。
混乱する一同の中「恐れながら」と、まず声を上げたのは益重だった。
「大殿様の御訃報、遺憾の極みにございますが、この上はすぐにでも兵をまとめて京へと上り、光秀を討つべきかと存じます。我らの手で、大殿様の弔いを致しましょうぞ」
威勢の良い益重の意見に、居並ぶ諸将は即座に続いた。暗く沈みかけていた一同の心がにわかに活気付く。
益重の進言は理に適っていた。この時すでに羽柴秀吉、丹羽長秀といった織田家の重臣たちは打倒光秀の言葉を掲げ京の都へと軍を返していたのだ。
満場は光秀討伐で一致した。後は一益の下知を待つのみである。
一益は顔を上げ、神妙な面持ちで口を開いた。
「皆の意は分かった。今は亡き大殿様への忠孝あっぱれである。急ぎ上方へはせ帰り光秀の首級を挙げるがよい。益重、陣立てはそなたに任せる」
「はっ!」と力強く答えた益重だったが、途端浮かんだ疑問が口を出た。
「陣立てを、それがしが」
戦上手の一益が、誰かに陣立てを任すなど今までに無いことだ。それに今の言い方ではまるで、
「殿は、如何なさるのです」
益重の問いに、一益は間髪いれずに答えた。
「国人衆を集め、上杉北条に備える。京へと上るのはその後だ」
揚々と腰を上げかけた誰もが驚愕のあまり静止した。一益は静まり返る一同に向かって噛んで含めるように言葉を続ける。
「大殿様亡きことが知れれば、同盟が瓦解するは必定。なればこそわしは国主として、この上野を守らねばならん。忠義を果たすが臣下の務めなら、国を守るが国主の務め。わしの臣下としての務めはそなたらに一任するゆえ、京で存分に槍を振るうが良い」
一座を再び沈黙が覆った。理屈には筋が通っている。しかしそれは上策と呼ぶにはあまりにも苦しいものであった。
信長の死を知れば、一益の読みどおり当然北条は同盟を反故にするだろう。戦力の均衡が崩れれば北条方に寝返る国人も当然現れるし独立を目論む者とて皆無ではないはずである。そのような不安定な状況の中で北条との決戦を迎えることと、一時国を捨て、信頼できる手勢のみで京へと上り、光秀と雌雄を決することと、どちらのほうが堅実かは、武辺一倒の益重にとて容易に想像できる。ましてや一益に理解できぬはずはない。
堪りかねて進み出たのは家老の木全忠澄であった。忠澄は益重とは違い政務謀略においても一益の信を得る、言わば参謀的な役割を担う家老である。滝川家にとって彼の言葉は一益のそれに次ぐ重さを持っていた。
「恐れながら申し上げます。領国の安定を思えばこそ、今すべきは打倒光秀にあるとそれがしは存じまする。何故ならば、国人衆を従わせているのも、北条の侵攻を阻んでいるのも、全て亡き大殿様の御威光によるもの。これがなくなった今、再び領国に元の安寧をもたらすためには、織田家の威光未だ健在たるを世に広く知らしめる必要がございます。大殿様は御武運味方せず、身罷られてしまわれましたが、織田家の血筋は未だ我らと共に在り。今こそ大殿様の遺児を支え、天下に覇を唱える好機と存じまする。なにとぞ、殿御自ら陣頭に立ち、我らをお導きくださりませ」
忠澄は深々と頭を下げた。異を挟ませぬ滑らかな弁舌に、誰もが心中で首肯する思いである。
しかし彼らの熱意は一益の心を変えられなかった。
「忠澄、皆も、言うたであろう。上方へは帰る。光秀も討つ。しかしそれは、北条の手からこの上野を守りて後にじゃ。上州には大殿様の威光を信じてわしに人質を預けた諸将がいる。彼らを見捨て、わしらだけで京へ向かうなど織田家の名に泥を塗ることだとは思わんか」
一益は立ち上がった。最早話すことなどない。口にはせずとも所作がその心を語っていた。
「そなたらは各々居城へと帰り、急ぎ兵をまとめるが良かろう。上方に戻りて後は修理(柴田勝家)殿か、五郎左(丹羽長秀)殿の指示を仰ぐが良い。悪いようにはされまい」
言い置いて背を向ける刹那、一益の口元に微笑が浮かぶのを益重の目は捉えていた。久方ぶりに拝む主の笑顔は、何故か益重を不安にさせた。
一益には京へ上るように言われたが、主一人を残して国を離れる者は滝川家臣団にはいなかった。上州を守ると言う言葉に同調した国人も多数おり、一益は万全と言える状態で北条軍を迎え撃つことになったのだが、結果としてその公約は果たすことができなかった。
同月半ばごろ、早くも侵攻して来た北条軍と一益率いる滝川上州連合は激突した。緒戦は制した一益軍であったが、後日行われた決戦に敗北。間もなく上野を落ちていった。
上野の差配に手間取り、織田家の後継を決める清洲会議に遅参した一益は、これ以後天下の覇権を狙う争いの場から姿を消した。
天正14年(1586年)葉月(旧暦八月)の末。時の天下人、羽柴秀吉は越中攻略の途上で越前のとある草庵を訪ねていた。茅葺の屋根にくすんだ板塀。一見農民の家屋と区別がつかない侘しい庵は、関白が立ち寄るにふさわしい場所とはいいがたい。そんな不満が顔に出ていたのであろう。秀吉は側に控える石田三成の皺の寄った眉間を小突き、くすりと笑った。
「そんな面で茶を飲むやつがあるか。そこで待っておれ」
言うと、秀吉は一人敷石を踏み歩いていく。戸口の前で止まり、声をかけようと咳払いをした矢先、計ったように中から戸が開いた。
「お待ちしておりました。遠いところをわざわざご足労いただき、痛み入ります」
と、天下人を迎えたのは剃髪し入庵と号するようになった滝川一益であった。
一益改め入庵は、半ば以上白くなった口髭の端に微笑を浮かべ、客を中へと招じ入れた。
庵の中は綺麗に片付いていた。特別な客が来るからではなく、普段からそのように保たれているのだろう。無駄なものは一切が排され、住処としての機能のみがただ存在している。しかしそこに寂しさや物足りなさは無い。香炉を置き、屏風を立てればいかようにも飾れようが、そんな必要は無いのだ。何もない今の状態が、この庵の完成形なのだと秀吉は自得した。
居間に通され対座して、まず一杯、入庵が茶を点てた。招いた入庵は何を語るでもなく目を閉じ、静かに時を過ごす。やがて秀吉が口を開いた。
「実に静かで、良いところですな」
縁側から庭を見渡して、秀吉はうなずいた。しかし、すぐ視線を入庵へと戻し、つぶやくように続ける。
「しかし、滝川殿の功績を思えば釣り合うものではない」
秀吉は碗を置いて正対した。細められた目が鋭さをもって入庵を捉える。
「城を、持ちたいとは思いませぬか。在りし日のように戦場で、武を鳴らしたいとは」
入庵は目を開け、穏やかな笑みで相手を見、頭を下げた。
「殿下におかれましては、それがしのような老体にかような過分の沙汰、感謝しつくしても足りませぬ。この御恩に報いんと、戦場にて腕を振るいたい気持ち山々ではございますが、しかしながら、先年より目を患っておりましてな。この様ではご期待に沿う働きはできかねます」
「左様ですか。目を」
秀吉は顔を上げた入庵の目を注視した。別段の異常は見受けられない。むしろ生き生きと輝いているように、秀吉には見えた。
「もし、目を患っていなければ、以前のように御助力いただけましたかな」
秀吉は身を乗り出してまくし立てた。この大げさな身振りが彼の人たらしたる所以である。
「一統の日が近いとはいえ、天下は未だ滝川殿のような才を欲しております。戦働きが適わぬのなら、どうか別の形でわしに力を貸してくだされ。どうか」
熱弁する秀吉がちらと相手の顔をうかがうと、あろうことか入庵は彼方を見ていた。
「滝川殿、このような時に何を見て……」
入庵の視線を追った秀吉は、そのまなざしの先に鳥を見た。庭に広がる、この粗末な草庵には不釣合いなほど大きな池に、一羽の鳥が佇んでいたのだ。
入庵はつぶやく様に吐息を漏らした。
「水場を造ればあるいは、と思っておりましたが」
それは見事な鴻だった。黒い背中をこちらへ向けて、首だけを左右に動かし餌を求めている。優雅で力強い一羽の鳥は、見るものを圧倒させる魅力を放っていた。
確かに見事な鴻であったが、話の腰を折られた秀吉は眉根を上げて入庵を見た。
「滝川殿、話の続きを」
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
遮る入庵の言葉に、秀吉は続きを飲み込んだ。今度は入庵が言葉を継ぐ。
「燕雀はそれがし、鴻鵠は殿下にございます。それがしのような小人に天下の差配は荷が勝ちすぎまする。御用があれば、どうか家督を継いだ一時に」
頭を下げる入庵を、秀吉は不満げな表情で見下ろした。
庵を出た秀吉を、三成は如才なく迎えた。馬と駕籠の用意はできていたが、主の顔を見てそのどちらも呼ぶことはしなかった。
「何事かございましたか」
帰路、ささやく様に三成は問うた。秀吉の機嫌はあまりよろしくない様子であった。
「いや、なに」と、思案するように秀吉は草庵を振り返った。
秀吉は在りし日の一益に思いをめぐらせた。織田家中において「先駆けは滝川、殿も滝川」と称された出来人の姿はそこには無かった。
野心があればこれを利用し、力が過ぎれば始末する心づもりであった秀吉は、思わぬ拍子抜けを食らってしまったようだ。
「佐吉(三成のこと)よ」
「はっ」
「歳はとりたくないのぉ」
滝川一益老いたり。秀吉は安堵とも落胆とも寂しさともとれる微妙な感情に、思わずため息を漏らした。
客の去った庵の居間で、入庵は一人庭を眺めていた。表情は穏やかで曇りなど無い。出世も知行も関わりの無い自由気ままな隠居生活は、さながら燕雀の生きる様のようだ。彼らの楽しみが、いかで鴻鵠に理解できようか。
少なくとも入庵は、燕雀たるを楽しんでいた。
《終わり》
雀の話や領地より茶器を欲しがった話から、一益の没落は燃え尽き症候群なのかと思っていましたが、調べてみると本能寺後もそこそこ戦ったりしていてそこそこ好成績を残していたようで。
書こうと思いついたきっかけが燃え尽きイメージだったので、とりあえずこの小説では燃え尽きちゃった一益という感じで話を進めていきました。
まあフィクションなんで、細かいことを突っ込まれるときついです。
とにもかくにも、感想お待ちしています。良い点があればもちろんのこと、悪い点のほうも遠慮なく指摘していただいて結構ですので、よろしくお願い申し上げます。