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秋時雨  作者: 徳次郎
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【第17話】最終話

 日中に降りそそいでいた太陽は、暗雲に包まれ姿を消していた。沈みゆく太陽が今何処にあるかも判らない。ただ、辺りの景色はアッと言う間に影を無くしていった。

 未由は新目白通りの歩道橋に立ち、大通りを見下ろしていた。

 彼女の中に迷いはなかった。いや、迷いは昨夜の涙と一緒に全て吐き出した。

 彼の優しさ、彼の想い出は、辰彦のそれとは比べられない。比べてはいけないのだ。

 だって、彼は辰彦を殺したのだから。

 あたしの誕生日と一緒に辰彦を永遠に奪ったのだから。

 あの日から、あたしの誕生日は辰彦の命日に変って、それは何年経とうとも変らない。消えることはないのだ。

 どうして……… 未由は敦に問いたかった。しかし、そう問いたところで、彼が辰彦を殺した事実は変らない。しかし、今から未由がしようとしていることが、どんなに愚かで、それを成し遂げたからと言って辰彦が戻ってはこない事も充分に彼女は判っていた。

 これはしるしなのだ。あたしは辰彦を心から愛していた。

 敦の優しさに、一時的には心を動かされたのは事実だが、彼は辰彦の命を奪った犯人だった。その犯人に抱かれ、それによって温もりを感じてしまった。

 一番愛しているのは辰彦なのだと、心にしるしをつけなければならない。



 長谷部は未由の様子がおかしい事に気が付いていた。朝からぼんやりして、仕事が上の空だった。そんな彼女はほとんど見たことがない。

「今日、生理痛でしんどいんだ」

 そんな時でさえ、彼女は苦痛の中で笑顔を作る娘だった。

 そして、何時もより1時間早く帰りたいと言う希望。彼女がそんな事を言ったのを見たのも、長谷部がここで働き出してから、おそらく初めての事だ。

 長谷部は無断で店を出ていた。彼は本来そんな事をする男ではない。少なくても、ここで働き出して、時には未由に叱られながら、仕事への責任感を培った彼は、無断で店を抜け出すはずなどなかった。

 しかし、それほどまでに、未由の様子が気になったのだ。自分でも驚くほどすんなりと、まるで自宅を出てコンビニにでも買い物へ出かけるように外へ出てきた。

 店長には後で謝ればいい。このぐらいでクビにはならないだろう。

 無断で職場を抜ける事に対してそんな軽率な思考が巡るのも、それだけ未由の行動に不安を抱き、何か危機感みたいなものを感じていたからに違いない。

 長谷部が未由を追いかけると、自転車で新目白通りを走り、ある歩道橋の前で止まった。階段の下に自転車を止めると、ゆっくりとそこを上り、歩道橋の中腹で立ち尽くしたまま20分。彼女は動かない。

 彼はその様子を少しだけ離れた細い路地の影から見ていた。

 長谷部には、未由が何をしよとしているのか全く判らなかった。



 未由はバックから、通常の半分の大きさのレンガを二つ取り出して歩道橋の真ん中に置くと、階段を下りた。階段の下の影に入り、その場に立ち尽くして大通りを静かに見つめた。

 その時、薄暗い空から落ちる雨音が、瞬く間に地面を黒く濡らしていった。

 夕方の帰宅ラッシュで、道路は引っ切り無しに車が行き交っていた。

 空を覆い尽くした雲によって、濡れ滴る景色は既に夜のように暗くなっていた。何処までも連なる車のランプが、雨に滲んで次々に通り過ぎて行った。

 一台の銀色のスポーツカーが交差点から出てきて、大通りを走って来た。

 数十台の連なる車両の群れの中でも、未由はそれをしっかりと確認していた。

 この時間だと思った。月曜日は必ず彼は車で来る。仕事の関係なのかは判らない。今更それはどうでもいい事で、何時も通り彼が車で来た事実だけがあればいいのだ。

 未由は瞳に力を込めて、近づいてくる銀色の車に視線を送り位置関係を確認すると、歩道橋の真ん中に視線を移した。

 深い悲しみに包まれた、燃え滾る憎悪を、その1点に集中させたのだ。



 長谷部には、未由が何をしようとしているのか、何を見据えているのか皆目見当が付かなかった。

 未由が歩道橋を見上げた時、そこから何かが勢い良く飛び出した。

 長谷部は、誰もいない歩道橋の上から、確かにそれが投げ出されるように飛び出したのを見た。

 その飛び出した物体は銀色のスポーツカーのフロントガラスをズシリと突き破って、車内に飛び込んだ。

 長谷部は驚愕した。何が起こったのか判らなかった。

 立て続けにもう一つ、歩道橋から飛び出した小さな塊は、同じ車にズドンッと命中した。

 銀色のスポーツカーは横に振られて他の車と接触し、弾かれ、今度は反対側に振られて左の車線に飛び出した。都市バスが走って来て銀色のスポーツカーは勢い良く弾かれた。

 右に弾かれた銀色の車は、元の車線に戻ったが、今度は後ろからダンプカーが急ブレーキを踏んでいた。路面は雨で濡れていて、そう簡単には止まれない。

 ちょうど、未由の目の前で、銀色の車はダンプカーにぶつかってオモチャのように押し潰されながら、何メートルも進んだ。

 走って来たダンプカーはほとんど車速を殺せていなかったのだ。

 タイヤのホイールは剥き出しになって、潰れたアルミの車体と一緒にアスファルトを引きずられる音が激しく響き渡った。

 それは、同時に未由本人の、心の叫びでもあった。

 銀色のスポーツカーは、数十メートル引きずられて、他の車を2台巻き込みながらやっと停止した。その時それは、自動車としての見る影もなかった。

 ねじれたボンネット、潰れたリヤゲートから剥き出しになったエンジンが、雨に打たれて真っ白な水蒸気を発していた。いくらエアバックがあっても、シートベルトをしていたとしても、運転者は生きてはいないだろう。潰れた運転席の奥には、高瀬敦の一部が、微かに覗いていた。

「未由!」

 長谷部は思わず震える声で彼女の名前を叫んだ。

 目の前の出来事が信じられず、現実味が無かった。現実味は無かったが、目の前にいる未由に対して、長谷部は恐怖を抱いて、クギで打たれたかのようにその場から動けなかった。

 未由は静かに振り返ったが、そこには何かをやり遂げた達成感すら覗える、あやふやな笑みが零れていた。ただ、その笑みに、何時もの暖かさは微塵も無かった。

「未由……」

 長谷部は、初めて見る彼女のドライアイスのように乾いて冷え切った笑みに、背筋が凍りつくような気がした。それは、彼の身体が冷たい雨に打たれていたせいではないだろう。

 厚い雲の隙間から、西に落ちかけた太陽が覗くと、辺りは少しだけ明るくなった。

 まだ、日は完全に落ちていなかったのだ。それでも、降り出した雨は止みそうでいて、まだ降り続いていた。

 長谷部は彼女を呼び止める事が出来なかった。

 全身が震えて、下顎がガチガチと音を鳴らした。

 最後の西日は未由の頬を一瞬白く照らして、再び雲の波間に呑み込まれた。

 彼女は自転車を押しながら、ゆっくり長谷部の前を通り過ぎると、濡れそぼる身体のまま、冷たい秋時雨に煙る夕間暮れの中へと静かに消えていった。


 

  秋時雨  了



最後まで読んで頂いた方々に、大変感謝いたします。

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