【第12話】
火曜日になると、日曜日の事件は既に遠い昔の事のように、店の中は平然と稼動していた。
「あの、試着いいですか?」
「どうぞ」と振り返って、未由は一瞬固まった。
ジーンズを片手に試着室へ入ろうとしているのは、あの黒い車の男性だったのだ。
谷脇秀隆……… 未由は平静を保ちながら、彼の入った試着室のカーテンを閉め、靴を揃えた。
彼がひき逃げ犯と決まったわけではない。しかし、未由の心臓は、異常なほど高鳴った。
何も考えないようにすればするほど、身体が勝手に震えた。
突然カーテンが開いて
「すいません、丈を見てもらえますか」
未由はいちいちドキッとしたが、それを悟られないように静かに息を整えながら、その谷脇の裾丈を調整した。
折り曲げてある部分を物差しで計ってあがり丈にチャコで印をつけると、そこから2.5センチを目測で測ってさらに印をつける。そこが生地のカット位置だ。
なれない場合は物差しの幅を使って縫いしろを3センチにとるが、ジーンズの場合、きれいに仕上げる縫いしろは約2〜2,5センチ。3センチでは多すぎるのだ。
未由は裁ちばさみで勢いよく裾をカットすると、ミシンに腰掛けた。
ずいぶん気持ちは落ち着いたが、まだ少しドキドキしていた未由は、軽く息をついた。
上糸と下糸をチャコールに替えて、裾の内側にあたる山の部分の縫いしろを三つ折りにし、ミシンの「押さえ」を下ろして、手動で針を落とす。
自分の手前側の生地を更に三つ折りにしながらミシンをスタートさせると、あっという間に半周して、外側の縫い合わせの山へ来る。
ミシンを覚える際、この山がなかなかすんなり越えられず、みんな苦労するのだ。
もちろん彼女も例外ではなく、初心者の頃はだいぶ泣かされた。
未由は山の手前で生地の折込みをチェックしながら、ミシンを稼動させるペダルで、ミシンのトルクを微妙に調整してやる。すると、一気に山を越えて、残りの半周を縫い終える。
もう片方も同じように丈詰めして終了。ミシンを踏んでいる時間は三分もない。
マイクで事前に渡した番号札を呼ぶと、谷脇がレジへ来た。
精算をする前に、彼は丈詰めした裾を何気にチェックしている。
「うん、キミは上手だね」
「ありがございます」
未由は値札をバーコードスキャンしながら言った。
「この前、縫い合わせがずれててね。少し気になったんだ」
谷脇は財布から札を出しながら言った。
「無料で縫い直し致しますので、何時でもお持ちください」
未由はおつりを渡しながら微笑んだ。
「ほんと?」
「はい。何時でも」
「じゃあ、その時はキミを指名してもいいかな」
未由は少し驚いた。丈詰めの指名縫いなんて聞いたことがない。それでも未由は愛想よく
「ええ、あたしでよければ」
未由はそう言いながらメンバーズカードを返す。名前は確認した。やはり谷脇秀隆だった。
彼女は「ありがとうございました」
と、元気に谷脇を見送った。
彼は機嫌よく店を出て行くと、通りに止めていた例の黒い車に乗り込んだ。
未由は敦の腕の中でまどろみに耽っていた。それは、とても落ち着く心地よいものだったが、時々、ふと長谷部の顔が過ぎる。
あの時の必死の形相だ。
彼はあたしを強盗の手から救おうと必死だった。
刺されていたかもしれない。自分がもし、あの時バケツなどを動かす力が無かったとしたら、きっと長谷部は刺されていた。
あの大きなサバイバルナイフで刺されたら、助かっただろうか。
長谷部はそんな事も考えないで行動したのか。
それほど自分の事を思っているのだろうか……
こうして他の男に抱かれているというのに。
未由は心苦しいほどに、胸の奥が押し潰されるように傷んだ。
それと同時に、長谷部の命を救った自分の些細な力が、少しだけ好きになっていた。
「未由。起きたのかい」
敦が言った。
「ええ、もう少しこうしていたい」
「明日は俺、休みだからいくらでも付き合うよ」
敦は優しく微笑んだ。