第7章 『宣告』
11月20日。
真正面から現実を突きつけられた日となった。医師から告げられた生検の結果は、私たちの淡い期待を微塵も残さず打ち砕いた。
病名は、胆管がん。それも、もはや手術という選択肢すら残されていない手遅れの状態だった。
「何故、こんなにも理不尽に事が進んでゆくのか」。
胃癌を乗り越えたあの日からという月日は、一体何だったのか。
宣告を受けたあとの、あの病室の空気。
お父さんは、その重すぎる事実を、静かに受け止めていた。
その日を境に状況はさらに加速し、お父さんの身体を容赦なく追い詰めていった。
活発化する「がん熱」が、お父さんの体温を激しく乱降下させる。
酸素濃度も95%を切り始め、呼吸一つひとつが重い負荷となってのしかかる。
けれどそんな極限状態にあってなお、お父さんの魂だけは折れていなかった。
「高熱になると、痛みが腰に全集中する……。まだ癌と同じリングに立ててないな。同じリングに立たないと、闘えないよな」
お父さんは自分自身に、そう激しく喝を入れ続けていた。
死を待つ病人としてではなく、一人のボクサーのように、病という敵と対等に殴り合う瞬間を求めていた。たとえ骨が溶け、立っていることすら奇跡のような状態であっても、お父さんは「闘うこと」を諦めていなかった。
一方で、医師の言葉は冷酷な現実を突きつける。 「熱が出ている以上、退院はできません。今はもう、好きなものを食べ、好きなものを飲ませてあげてください」
それは、医学的な「敗北」を意味する宣告だった。
けれど、私たち家族はお父さんのその「闘志」にどこまでも寄り添いたかった。
11月22日、
目に見えてお父さんの体重が減り始めた。
「まだ闘えてない」と焦るお父さんに、お姉ちゃんの旦那さんは、あえていつも通りの、明るい日常を届け続けた。引っ越し作業で溢れかえった大量の荷物の写真を送り、「普通」の会話を交わす。
それは、お父さんを病人扱いせず、これからも共に歩む「家族」として同じリングのコーナーに立っているよという無言のメッセージだった。
理不尽に削り取られていく身体。
けれど、お父さんはその痩せ細った体躯に、誰にも真似できないほどの強靭な意志を宿していた。私たちは、熱に浮かされるお父さんの手を握りながら、その「闘い」をただ、祈るような心地で見守り続けていた。
病状は、お父さんの強靭な意志をあざ笑うかのように、一刻一刻と過酷さを増していった。けれど、お父さんは最後まで一歩も引かなかった。
お姉ちゃんの旦那さんが送った引っ越しの荷物の写真に、お父さんはこう返した。
『大変だな。腰をつけろよ。手伝ってやれなくてごめんな。退院したらとびっきりのラーメン作るぞ』
自分の身体が一番辛いはずなのに、相手を気遣い未来を語る。
グループラインには、あえて家族を笑わせようとする軽妙なフレーズを混ぜる。
面会が終われば激痛に顔を歪めることもなく、エレベーターまで私たちを送りに来てくれた。
11月25日。
ついに現実は、お父さんの意識さえも侵食し始めた。 グループラインに届く、支離滅裂で意味の通じないメッセージ。
「せん妄」の症状が、お父さんの言葉を少しずつ奪い始めていた。
11月27日からは腰の激痛がさらに牙を剥き、お父さんの身体を限界まで追い詰めていく。
そんな暗闇のなかの11月30日
一筋の光が差し込むようにお父さんの子供の頃からの親友が面会に来てくれた。
病室に現れた親友の顔を見るなり、お父さんの表情がふわりと和らいだ。
「……どうした」 その一言には、病に侵された「患者」ではなく、若き日を共に過ごした「一人の男」としての喜びが宿っていた。
私は二人の時間を邪魔しないよう、そっとその場を離れた。あの時、あの部屋で、二人はどんな思い出を分かち合っていたのだろう。
しかし、運命は情け容赦なかった。
12月1日。
お父さんは再び個室へと移された。身体には尿管が繋がれ、自力で動くことも困難に。
医師からは、血液中のカルシウム値が異常に高く、本来なら昏睡状態であってもおかしくない状況だと告げられた。
抗がん剤という最後の武器すら、今の身体では使うことができない。
あんなに「腹減った」と言っていたお父さんの食欲も、この頃には火が消えるように落ち始めていた。
意識が濁り、身体が自由を失い、食欲さえ奪われていく。 それでもお父さんは、その濁流に呑み込まれまいと、魂のどこかでしのぎを削っていたのだろうと思う。




