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『おとん、あいたいよ』長編小説  作者: のん


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第3章 『父の厳しさの裏にある温かい優しさ』

家族の形が少しずつ変わっていく中で、

大きな波が訪れたのは、二十歳で嫁いだお姉ちゃんが実家に戻ってきた時だった。


心も体もボロボロになって帰ってきた姉に、お父さんはたった一度だけ、厳しい言葉を投げた。

「そんな娘に育てた覚えはない」


それは、お父さんの精一杯の叱咤であり、娘の苦しみを自分のことのように痛感しているからこその言葉だったのだと思う。


けれど、その一度きりの雷が落ちた後は、お父さんは何も言わず、ただ静かに、優しくお姉ちゃんを見守り続けた。


そんな折に出かけた、家族四人での白根山への旅行。 お姉ちゃんがハンドルを握り、お父さんは助手席に座っていた。


山道は深い霧に包まれ、おまけにガードレールもなく、一歩間違えれば崖下へ真っ逆さまという、大人でも足がすくむような難所だった。 車内には、お姉ちゃんの緊張が伝わってくるような、張り詰めた静寂が流れていた。

ガードレールすれすれの、崖っぷちを走っていたその時だった。 助手席でお父さんが

慌てる様子もなく、まるでお茶でも飲んでいるかのような平熱の声でボソッと呟いた。


「……おっこっちゃうよ」


その拍子抜けするほど穏やかな響きに、車内の空気が一瞬で弾けた。


「ちょっとお父さん、何その言い方!」

誰からともなく笑いが漏れ、お姉ちゃんの肩の力も、ふっと抜けたのが分かった。別に険悪だったわけではないけれど、お父さんの一言が、霧の中にいた私たちに「大丈夫だ」という明かりを灯してくれたような気がした。


お父さんは、多くを語って励ますようなタイプではない。 けれど、崖っぷちに立たされている娘の横で、平然と「おっこっちゃうよ」と冗談を言える。その動じない強さが、私たち家族をどれほど救ってきたことか。 霧の向こう側で、お父さんはまたいつものように、静かににっこりと微笑んでいた。


お父さんは、そういう人だった。  


お姉ちゃんが実家に戻ってきた時と同じように、私が十八歳で車の免許を取るため、合宿で静岡へ行っていた時もそうだった。


慣れない運転、公道での運転練習中、夕方で暗くなり雨も降っていて、私は信号右折時に視界がよく見えずに中央分離帯にぶつかりそうになってトラウマになった。


私はすっかり参ってしまい、スマホでお母さんかお父さんに連絡を入れ泣き言を漏らした。電話だったかメールだったかは覚えていない。


「もう嫌だ。キツいよ、帰りたい」って。

そしたらお父さんは


「…そんな弱気な娘に育てた覚えはないぞ」 と言った。半ば諦めながら教習所の敷地を歩いていた時のこと。


「のぞみ!」 不意に、

聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。  


驚いて振り返ると、そこにはお父さんがいた。仕事の合間を縫ってわざわざ静岡まで駆けつけてくれたんだ。


電話で突き放したばかりの人とは思えないほど、お父さんは優しく穏やかに笑っていた。


「驚いたか?」


お父さんはそう言って、私の顔を覗き込む。あんなに厳しいことを言っておきながら、娘が心配で居ても立ってもいられずにハンドルを握ってくれた。


お父さんの言葉の裏には、いつも言葉以上の「行動」があった。


「そんな娘に育てた覚えはない」という言葉、突き放すためではなく「お前ならできるはずだ」という強い信頼の裏返しだった。


私は、さっきまでの泣き言が嘘のように、もう一度頑張ってみようと心から思うことができた。


合宿先へ駆けつけてくれたお父様の無言の励ましのおかげで、私は無事に免許を手にすることができた。 助手席にお父さんを乗せて、家族旅行へ出かける日がやってきた。


行き先は、京都の天橋立だった。


お父さんを助手席に乗せてハンドルを握る緊張感は、教習所の比ではなかった。


お父さんは、最初のうちは私の危なっかしいハンドル捌きを見てなんか色々と小さくぼやいたり、私の急ブレーキに肘をぶつけて苦笑いしたりしていたけれど、次第にその態度は柔らかくなっていった。  


昔よりも丸くなったその性格で、隣で静かに、時に冗談を交えながら私の緊張をほぐしてくれる。


観光地の道は予想以上に狭く、駐車場へ入るゲートの前で、私は完全に行き詰まってしまった。後ろには、車が列をなしている。焦れば焦るほど、ハンドルを切る方向が分からなくなる。


「……おとん、無理! 変わって!」

お父さんは「え、ここでか?」と驚いたような顔をした。ゲートの目の前、後続車が並ぶ中での運転交代なんて、本来なら無理な話。


けれど、お父さんは怒らなかった。

仕方ないなって顔して苦笑いしながら車を降りると、列をなす後ろの車に向かって、あの大きな手をすっと挙げた。


「すまん」という、お父さんらしい堂々とした合図。 それだけで、殺気立っていた空気がふっと緩んだような気がした。


お父さんが運転席に座り、大きな手がハンドルを握った瞬間、グランディスはまるで別の生き物のように滑らかに動き出し、一発で狭いスペースへと収まった。 天橋立の青い海を背に、車を降りてきたお父さんは、やっぱりいつものように静かににっこりと笑っていた。


お父さんの助手席は、世界で一番厳しい教習所であり、そして世界で一番安心できる特等席だった。



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