愛の表現者たち
たった一音。
それだけで、人生が変わる世界で、僕たちは息をしている。
「……………また負けたっ!」
ぐしゃっとパンフレットを両手でしめたのは、色の薄い髪を肩まで伸ばした少年、一条怜志だった。
「ふん、余裕✨」
その隣でドヤ顔をかますのが、クセっ毛を遊ばせた少年、有川陽斗。
「今日は、陽斗くんの調子がよかったね。いい音してた」
ぼんやりした顔で首位に賞賛を贈るのは、優しげな顔をした少年、朝倉真弘。
「だろっ!」
「っ! でも、今日の僕はノーミスだ。陽斗は今日2回もミスタッチした」
「俺のは『ひょーげんりょく』が良かったんだよ! 俺ぁ天才だからな!」
「自分で自分を天才と言う天才は居ないんだぞ」
「んだと!?」
言い争いをはじめる2人に、真ん中のひとりはため息をついた。
そこに、ふたりの大人が声をかける。和装の老婆は怜志の乳母、もう1人の女性は陽斗の母だ。
「じゃあな!」「また大会で」「次の一位は僕だ!」
この日、怜志は、ピアニスト界から姿を消した。
そして数年後、彼は、ヴァイオリニストとして音楽界に返り咲くこととなる。
***
「なんっでだよ!」
「どうどう」
陽斗がキレちらかすのを真弘が宥める。
「だってッ、アイツあんなに楽しそうに弾いてたのに!」
「確かに……、それにヴァイオリン、機械みたいだった」
氷のような表情で楽譜をさらうだけのヴァイオリニストは、数年前まで表現豊かなピアニストだったとは思えなかった。
「別に機械が悪いわけじゃないけれど、少なくとも彼は、苦しそうだった」
真弘は少し考えるように顎に指を添えた。
「………真弘?」
「………陽斗くん、僕、今日負けるね」
陽斗が目を大きく見開く。真弘はまっすぐ、どこか面白そうに陽斗を見る。
「ごめんね」
「…っ、……勝手にしろ!」
***
どいつもこいつも。と、陽斗は歯を噛み締める。鍵盤に向かい、指を構える。
陽斗の家は、貧乏寄りの普通の家だった。マンションに母親と下に3人の弟妹と5人で暮らしている。だからいつも、電子ピアノにヘッドホンを繋いで練習しているのだ。
そしてたまに、近くの喫茶店にあるピアノを借りて練習している。
だから、簡単に手を抜けるほど、陽斗のピアノは安く無いのだ。一曲一曲が貴重で大切で、一つだって無駄にはできない。
(君はそれでいい)
舞台で喝采をあびる陽斗を見ながら、真弘は笑う。3人の役目はたいだい決まっている。
陽斗は明るく先を照らす。それだけでいい。
(そして僕は、彼に少しいじわるをする)
トン、と鍵盤を鳴らす。
客席から息をのむ音が聞こえる。
「なんだこの曲は」「課題曲じゃないぞ」
陽斗が眉間にしわを寄せた。
中継が流れている前で、今しがたヴァイオリンを片した怜志は、はく、と口を開けて、歯を噛み締めた。
「ばかにするな!」
聞こえもしない、画面のむこうに叫び散らす。
(ピアノが好きだった。君たちが大切だった!)
真弘の家の大人が、真弘を迎えにきた日は無かった。真弘の家は父親がいなくて、母親は病にふせっていたらしい。
―お母さん、ヴァイオリニストだったんだ。だから僕は、お母さんにまたヴァイオリン引いてほしくて、ピアノやってるの
その母親は、今から2年ほど前に亡くなったらしい。それでも彼はまだピアノを弾く。たったひとりの、ヴァイオリニストのために。
「っ!」
僕とは真逆だ、と怜志が思う。
―ピアノはもうだめだな。いつまでたっても三位どまり。明日からはヴァイオリンにしなさい
―……はい
こちらを見ない父親にそう答えたのは、陽斗とミスタッチだの表現力だのと言い合いをした日の夜だった。
自分の唯一だったと言っても過言ではない乳母は、ヴァイオリンを始めてすぐの頃に老衰で亡くなった。
それからは、ただ人形のように楽譜をさらえた。天才だと褒め称えられても、一位をとっても嬉しく無かった。ただ、父親に認めて欲しかった。陽斗や真弘とピアノを弾いていたかった。
振り上げたヴァイオリンのケースを、そのまま胸に抱き寄せる。大切なものだった。
「………ごめん、僕、忘れ物を思い出したよ」
***
「ひっでえ顔」
「うるさい」
陽斗が言うのに、怜志はそれを睨みつけた。
真弘が苦笑いをする。
「ごめんね、少しいじわるが過ぎたよ」
「いや、いいんだ。おかげでピアノへの未練に気づけた。……ヴァイオリンはやめられない、僕はお父様には逆らえない……。けれど、ピアノも続けるよ」
真弘と陽斗が顔を見合わせた。陽斗は小さくため息をついてそっぽを向くが、真弘は微笑んで「うん、それがいいよ」と言う。
「陽斗くんも寂しそうだったしね」
「はあ!?」
さらりと暴露する真弘に、陽斗が声を荒げる。
「そうなの?」
少しきょとんとして怜志が問うと、真弘も陽斗に目を向けた。
二対の目に見つめられた陽斗は「お、」とこぼす。
「お前らが揃ってねぇと、……張り合い甲斐がねえんだよ……」
「「……………」」
「だからなるべく揃ってろ! ばか!」
「………なんだか、愛の告白みたいだね」
真弘が笑うと、陽斗は真っ赤になって「はあ⁉︎」と真弘に噛み付いた。
怜志は「せっかく黙っていたのに、」と真弘を見るが、真弘はなんでもないようにまた笑う。
「何も恥ずかしがることなんてないさ。だって僕らは、愛の表現者なのだから」
ピアノの鍵盤に指を置くように手を掲げながら、真弘が言うと、今度は怜志と陽斗が目を合わせる。
「………なんか、真弘には一生敵わない気がする」
「うん、わかる」
「へ? どうして?」




