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Liars Walk into a Bar  作者: 苗奈えな


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第1話 A Man Walks into a Bar

 仕事から戻った家には、いつも温かい匂いが満ちていた。

『パパ!』

 廊下の灯りに照らされ、黒髪を二つに結んだ小さな女の子がぱっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。その足取りは弾むように軽く、勢いのまま腰へ抱きついた。細い腕のぬくもりがじんわりと胸に広がり、張りつめていた肩の力がゆっくりと解けていく。

 少し遅れて、奥の部屋から女性が現れる。ゆったりとした歩調で近づき、柔らかく目尻を下げながら声をかけた。

『あなた。お疲れ様』

 娘の無邪気な笑顔と、妻の落ち着いた声に包まれる時間は、アレクにとって帰る場所だった。温かい灯り、家族の気配、食卓の匂い。そのすべてが、心を癒す。

 だが次の瞬間、景色がゆらりと揺れた。明るい室内が薄い靄に包まれるように遠ざかり、輪郭が滲み、視界が少しずつ暗く沈んでいく。

 娘の小さな手の温もりは霧の中へ消えていき、胸の奥が急に冷え込む。

「アレクくん。アレクくん」

 娘に似ても似つかない低い声で、アレクはゆっくりと目を開いた。

 視界に入ったのは、黒いベストに白いシャツを着たバーテンダーの姿。磨かれたカウンターには琥珀色のランプが柔らかい光を落とし、棚にはさまざまな酒瓶が規則正しく並んでいる。

 薄暗い店内には木とアルコールの香りが漂い、外の寒さとは対照的な温かい空気が流れていた。

「すまねえ。ちょっと寝ちまってたみたいだ」

「それはいいよ。それより、彼が君と一緒に飲みたいって」

 マスターの指さすほうへ視線を向けたアレクは、思わず眉をひそめた。いつの間にか、隣の席に見知らぬ男が腰を下ろしていた。

 金髪はところどころ乱れ、埃をかぶったように服もくたびれている。それなのに肌は異様に綺麗で、光の加減か各パーツの輪郭が際立ち、人目を引く整った顔立ちだった。

「あ? なんだあんた」

「良い夢を見ていたところ、邪魔してしまってすまない。私も一人でね。ぜひ、君と一緒に飲ませてもらえないだろうか」

 軽い調子で微笑んでいるのに、どこか心の奥を覗き込んでくるような鋭さを秘めた視線。柔らかく見えて油断ならない、そんな独特の気配がアレクの皮膚をかすめる。

 奢り目当ての女性客から声をかけられたことは何度かあるが、男性客からこういった誘いを受けるのは初めてだ。それに、それなりにこのバーへ長く通っているアレクでも、この男を一度も見かけた覚えがなかった。

「見ない顔だな。商人か?」

「旅人だよ。南の国から来たんだ」

 男は、そっと左の耳たぶへ指を運ぶ。それから、反対の手でそっと手を差し出してきた。

「ボンボルド=エリオノーツだ。よろしく」

「アレクだ」

 ボンボルドが差し出した手を、アレクはゆっくりと握った。

「よろしく、アレク」

 続いて、互いのグラスを小さく触れさせると、澄んだ音が酒場の空気に溶けていく。口へと運ぶと、度数の強い酒が舌を刺すように広がり、熱が喉を伝ってゆっくりと胃へ落ちていった。

 これだ。この痛みが、あの温かい記憶を薄れさせる。

 しっかりと味わっていると、ボンボルドが先にグラスを置いた。

「私はここに来たばかりなんだが、君から見てこの国はどうだい?」

 アレクが住むこの国――ボルテラ王国は、北方の大国と国境を接する中規模の王国だ。寒冷な気候のせいで冬が長く、農作物は思うように育たない土地が多い。かつては軍事国家として名を馳せたこともあったが、それは過去のことで今では国力がじわじわと落ちていると聞いたことがある。王都は人々で賑わうものの、それ以外の都市はいつどこから攻められてもおかしくない状態で、緊張をはらんだ空気が漂っている。

 アレクは小さく息を吐いた。グラスの縁を指でなぞりながら、視線をカウンターの木目へ落とす。

「知らん。……が、危ないかもな。戦争になるかもって噂だ」

「へえ。そうなのかい?」

「あくまで噂だ。だが、本当にそうなるんだとしたらくだらねえ」

 アレクの眉間に深い皺が刻まれる。

 戦争は嫌いだ。命は奪われ、街は壊れ、大地は焼ける。勝っても負けても残るのは虚しさばかりで、誰の幸せにもつながらない。

「ほう。でも、戦争になったら、君はこの国を守るために戦わないといけないんじゃないのかな?」

 ボンボルドの静かな問いかけに、アレクは鼻で笑った。

「知らねえよ。顔も見せねえ国王のために戦うやつがあるか?」

「こら、アレクくん。国王様はご病気なんだから」

「それも噂だろ」

 マスターの言葉を遮るように、アレクは無造作にグラスを口へ運ぶんだ。氷がカランと短く鳴り、どこか刺々しい空気を一層際立たせる。

 対照的に、ボンボルドは口元をゆるめ、愉快そうに目を細めた。手元のグラスを軽く揺らすと、表面の水面が波紋を広げ、柔らかな灯りを受けてちらりと光る。落ち着いた所作のまま、どこか含みを持った声でゆっくりと問いかけた。

「なら、君は戦争になったらどうするんだい?」

「逃げるね。こんな国とはおさらばだ」

「面白いね」

 その後も、会話は弾んだ。時折グラスが触れ合う乾いた音が響き、酒場の温かな灯りが二人の影をゆらゆらと揺らしていた。マスターも含め話題が尽きることもなく、気づけば他のテーブル人はおらず、夜の気配が濃くなっていた。

 やがて、ボンボルドは静かに腰を上げる。

「また明日も来るよ」

 軽く手を挙げると、勘定を済ませ、夜風へ吸い込まれるように店を出ていった。

 扉が閉まる音が響き、アレクはその細い背中が闇に消えていった方向をしばらく無言で見つめていた。

 

 

 昼は側溝の掃除の仕事だった。石畳の隙間に入り込んだ泥をかき出すたび、冷たい水しぶきが足元に跳ね、冷えた風が頬を切るように吹き抜ける。中腰で作業するうちにじわりと腰に痛みが広がり、終わる頃には体の芯まで冷えきっていた。

 仕事を終え、そのまま足が向いたのはいつものバーだ。扉を開けると、温かい灯りと料理の匂いが疲れを包み込むように広がる。

 カウンターに腰掛けたとき、ふとテーブル席のほうに家族連れの姿が目に入った。小さな子どもが楽しそうに笑い、夫婦は寄り添うように穏やかに会話している。

 その光景からアレクはそっと視線から外し、静かに酒と食事へと意識を向けた。

 アレクはマスターと軽い雑談を交わしつつ、周りの会話に耳を澄ませる。

「なあ。王様、最近まったく姿見せないじゃん? なんでか知ってるか」

「病気だって聞いたけど?」

「いや、それが本当じゃないって噂があるんだよ」

「は? じゃあ何なんだよ」

「北の大国に、この国を売ろうとした罪で、幽閉されてるんだってよ」

「おいおい……それ本気で言ってんのか。でも、あの臆病者ならありえるかも」

「だろ? ここは俺たちの国だ。あんなところに渡すわけにはいかねえよ」

「間違いねえ。はやくロイ王子が即位してくんねえかな」

 最近、こうした噂話は町中で絶えず囁かれていた。仕事仲間も、泥をかき出しながら同じ話を繰り返していたほどだ。北の大国がじわじわと圧力をかけているという実感が、人々の苛立ちをさらに煽っているのだろう。その空気は冷たく荒々しく、国中を吹き抜けていた。

 ロイは、この国の第一王子だ。国王が退けば、次に王位を継ぐのは彼だと言われている。戦争を辞さない強硬派として知られ、国を守るために力を振るうべきだと公言している。その姿勢は、今まさに怒りで揺れている国民の感情と重なっていた。

 アレクは酒を口にしながら、その流れがどこへ向かうのか考えていた。嫌な方向へと思考が流れていったころ、扉のベルが軽やかに鳴った。

 外の冷たい空気が一気に流れ込み、それを押し返すようにボンボルドが姿を見せた。

「こんばんは、アレク」

「よう」

 ボンボルドは隣に腰を下ろし、酒を頼む。

 しばらく二人で飲んでいると、入口近くで小さな影がふらりと動いた。まだ幼い子どもが、店の外へ出ようと一人で扉に手を伸ばしている。テーブル席の親は楽しげに談笑しており、その行動にまったく気づいていなかった。

 アレクは思わず椅子をきしませて立ち上がりかけたが、その一瞬前に静かな気配がすっと隣から離れた。

 ボンボルドだ。

 彼は子どもの前で片膝をつき、驚かせないようにゆっくりと視線を合わせる。優しい声で何かを話しかけ、逃げるように外へ出ようとした小さな肩へそっと手を添える。その手つきは柔らかく、押しつけがましさは一切ない。

 子どもは安心したように目を瞬き、素直にボンボルドへついていく。親たちはそこでようやく事態に気づき、青ざめた表情で立ち上がった。深々と頭を下げ、何度も礼を述べている。

 ほどなくして、ボンボルドが戻ってきた。

「いやあ、国の宝はあれくらい元気なのが良いね」

「優しいんだな」

「そんなことないだろ。君だって、動こうとしていたじゃないか」

 ボンボルドは軽く笑い、ゆっくりとグラスを傾けた。

「ところでアレク。君は、結婚をしていないのかい? 見たところ、私と同じくらいの歳だろう?」

 その問いに、アレクの手がぴたりと止まった。指先がわずかに震え、無意識に力がこもる。

 脳裏には、過去の光景が瞬くように浮かんだ。柔らかな笑顔、家の匂い、小さな手の温もり。アレクは奥歯を噛みしめると、その記憶を一瞬で振り払うように息を吐いた。

「……してたよ」

「離婚でもしたのか?」

「いや、死んだんだ」

「……そうか」

 ボンボルドが深く頭を下げる。灯りが彼の影を伸ばし、その仕草の誠実さだけが静かに場に残った。

「すまない、無神経だった」

「別にいい。……娘がいたんだ。娘は、よく笑う子だった。手を繋ぐだけで幸せそうにして、俺の帰りを毎日妻と一緒に玄関で待っていてくれた」

 アレクは淡々と言おうとしたが、わずかに声が震えた。胸の底にぽっかりと残った空白は、温度を失ったまま凍りついている。

「――でも、死んじまった。その日、二人は妻の地元に帰っていてな。俺は、仕事で後から向かう予定だった。でも、その町が盗賊に襲われた」

 語尾はかすれ、先ほどまであった柔らかな空気が一瞬で重く沈んだ。他の卓で鳴る器の音さえ、遠く鈍く聞こえるほどだ。

「そいつらは、すぐに捕まった。でも、俺はそいつらを責めることが出来なかった。話を聞けば、そいつらは前の戦争のときに、家も家族も全部失くしていたらしい。奪わないと生きることができない――加害者と同時に、被害者でもあったんだ。戦争さえなければ、あんなことにはならなかった」

「……そうか。だから君は戦争が嫌いなのだな」

 ボンボルドの言葉は慰めるでもなく、冷えた空気の上にそっと置かれた雪片のように静かだった。その冷たさが、逆にアレクにとっては有難かった。

「まあ。ちゃんとそう思えるようになったのは、だいぶ後になってからだけどな」

 アレクも、戦場では何人もの命を奪ってきた。血の匂いが立ちこめる場所で、国を守るため、家族を守るためと自分に言い聞かせて刃を振るった。敵を斬ったことを、後悔はしてはいない。しかし、家族を失った今では、剣を振るう理由がなくなってしまった。

 守りたいものが消えた世界で、剣を持つ意味どころか、生きる意味さえも見えなくなっていた。それが、今のアレクだった。

「そういうお前はどうなんだよ。家族はいるのか?」

 問いかけると、ボンボルドは笑ったような、泣いたような曖昧な表情をする。

「旅人だぞ。いるわけないだろ」

 そう言いながら、彼はそっと左の耳たぶに触れる。しかし、すぐに離した。

「……いや、嘘だ。妻は亡くなってしまったが、子どもがいる。息子と娘だ。目に入れても痛くないほど可愛い、大切な子ども達さ」

「そんな子どもを置いて、お前は旅に出ていると」

 カウンターの内側でグラスを拭いていたマスターが、ため息まじりに眉を下げて口を挟む。

「ちょっと、アレクくん。事情も知らずに」

 その声は叱るというより、気遣いを滲ませた静かな注意だった。アレクはわずかに肩を強張らせ、余計なことを言ったと口をつぐむ。

 だが、ボンボルドは穏やかに肩を揺らし、ため息を含んだ笑みを浮かべた。

「いや、大丈夫だよ、マスター。……アレクの言う通りさ。本当に、酷い父親だ」

 その口元は柔らかいが、瞳の奥には陰が落ちているように見える。

「すまんな。あんたにも、色々あるんだな」

 アレクが呟くと、ボンボルドはわずかに目を瞬いた。そして、ふっと力を抜くように笑う。

「やっぱり優しいじゃないか、君」

「そうか?」

「そうさ」

 息がわずかに揺れ、柔らかな灯りがその頬を照らす。

「おっと。もうこんな時間か」

 椅子から立ち上がると、彼は手を軽く振った。

「また明日」

 そう言って戸口へ向かったボンボルドは、夜風に外套を揺らされながら、静かに街の闇へと溶けていった。

 アレクはゆっくりと手元のグラスを傾け、残っていた酒を飲み干す。喉を伝う熱は一瞬だけ体を満たしたが、胸の奥に落ちていく前にすぐに萎んでしまい、冷えた空洞だけがそこに残った。

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