大正浪漫《恋を知らずに嫁ぎまして〜大正恋膳綴り帖〜》
(泣いちゃだめ、泣いちゃだめ——)
咲恵はものすごく悲しかった。
(絶対に泣いてはだめ!)
鏡台の前にちんまりと正座して涙を必死で我慢していた。
鏡に映っているのは十六歳になったばかりの自分。
丸い頬と大きな目——これは昨日までと同じ。だけど他はぜんぜん違ってまるで自分ではないみたい。
お下げだった黒髪は銀杏崩しに結いあげている。頬には白粉、唇には紅。
鶯色の振袖と黒地の帯なんて大人っぽすぎてぜんぜん似合っていない。
(私はもう女学生の西園寺咲恵ではないんだわ。おしまい、これで本当におしまい⋯⋯。でも、泣いちゃだめ)
どんなに悲しくても我慢しなければいけない理由が咲恵にはあるのだ。
「咲恵さん——。これは西園寺家を守るための大切なお見合いなのよ。わかっていますね?」
静かにそう言ったのは咲恵の母。
白粉の香りが満ちた部屋の隅で、火鉢で手を温めながら化粧箱を片付けている。
いつもなら女中がする仕事だ。
それを大丸髷に紋付き黒羽織姿の母がしているのは、西園寺家の雇い人のほとんどに暇をやったからだ。
咲恵の父は繊維を主に扱う貿易商だが一年ほど前から事業がうまくいかなくなっている。
咲恵は詳しいことはわからない。どうやら大きな借金があって、その借金が自分の縁談で消えるかもしれないらしい⋯⋯。
「咲恵さん、お返事は?」
「はい、お母様、ちゃんとわかっています」
母に答えながら思い出すのは——、図書室で友達とクスクス笑ったこと、廊下を走って叱られたこと、音楽室で歌の練習をしたこと⋯⋯。
先月までは日常だったのに何もかも遠くに行ってしまった。
(今頃は合唱コンクールの練習の時間かしら? 一位になろうってクラス全員で頑張っていたのに、私だけ参加できなくなっちゃった⋯⋯)
咲恵はピアノ担当だった。
せめてコンクールが終わるまでは女学校に通いたかったのに⋯⋯。
(だめだめ、泣いちゃだめ。お父様とお母様が困るから)
気持ちを抑えようと頑張った。でも、もうどうしても、抑えきれそうもない。
「咲恵さん?」
「⋯⋯白粉が、目に、⋯⋯入ったみたい」
手の甲でそっと涙を拭いて顔を上げると、窓の向こうで、白い雪がはらはらと舞っていた。
*
大正十二年——。
この年の一月の帝都は雪が多かった。
雪景色の中庭が見える長い廊下を進み、料亭の奥まった部屋に通される。
両家の父親同士はすでに席についていて、仕事の話を熱心にしていた。ふたりとも紋付き袴姿だ。
咲恵は顔を伏せたまま座敷に入る。
(どうしよう、心臓が飛び出しそう)
緊張と不安で鼓動が速くなっていく。
小さい子供のように母にぺたりと体をくっつけて座った。
火鉢が三つも用意された暖かい部屋で、向かい合う両家の間に箱膳が並んでいる。
咲恵の見合い相手は、鳴海誠一。
歳は二十八歳。鳴海貿易株式会社の社長の長男だ。
父親の会社では働いてはおらず、帝都中央署の警部補らしい。
誠一の隣には父親だけが座っていて母親の姿はない。誠一の母親はずいぶん前に亡くなったと聞いていた。
咲恵は、少しだけ顔を上げて、誠一を見た。
(怖い方では……、なさそう)
ゆるいウェーブの栗色の髪が、料亭のモダンな電球笠から落ちてくる光を受けて、艶やかに光っている。
黒い警察の制服がたくましい体にぴたりと合い、背筋をぴんと伸ばした姿は凛として、まるで軍人のような雰囲気——。
だけど威圧感はまったくない。
そして⋯⋯、
(まあ、お顔が⋯⋯)
咲恵は驚いて大きな目をますます大きく見開いた。
(……活動写真の、俳優さんみたいだわ!)
友達の間で人気の高い銀幕の美男俳優たち。 その誰よりも、目の前のこの男性のほうが、もっともっとハンサムだ。
「鳴海誠一と申します」
しかも穏やかで柔らかい美声だ。
「さ⋯⋯、西園寺咲恵でございます。お初にお目にかかります……」
慌てて座布団からにじり下りて、両手を畳について頭を下げた。
胸の鼓動はもう気を失いそうなほど速く、トクトク、トクトクと鳴っている。
(帯が、く⋯⋯、苦しい⋯⋯!)
座布団に戻りながら帯と着物の間に親指を入れて帯の位置をグイッと下げた。こうすると帯が緩むのだ。
すぐに咲恵の両親と誠一の父親たちは席を外した。ふたりきりで話す時間を作ってやろうと思ったのだろう。
静かな部屋に火鉢の炎が弾ける音だけが響く——。
(なんだか気まずいわ⋯⋯。何か話したほうがいいのかしら? お天気? お仕事のことを聞く? それともご家族のことをお聞きしようかしら⋯⋯)
悩んでいると誠一がこっちをじっと見つめる。
(何か話さなくちゃ!)
咲恵は焦りながら口を開いた。
「あ、あの……。お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
「⋯⋯お嫁にうかがう際には、本を持って行っても、……よろしいでしょうか?」
心の奥から不意に飛び出してきた問いだった。
「本、——ですか?」
誠一の表情に驚きと、何か柔らかなものが加わった。
「もちろん構いませんよ。何冊でもお持ちになってください。ご趣味は読書でいらっしゃるのですか?」
「はい。あの⋯⋯、読書とピアノです。女学校の図書室にはたくさんの本があります」
「どのような本をお読みなのですか?」
「あの⋯⋯、『花物語』や、『乙女の港』などが好きです」
「楽しそうなご本ですね」
誠一が目を細めて笑う。
咲恵は慌てて付け加えた。
「お勉強もちゃんとしていました」
「ええ、もちろんそうでしょう」
誠一の笑いは大きくなって、軽く咳払いをしてから真面目な顔に戻った。
(子供っぽかったかしら?)
咲恵には、何年も前に嫁に行った歳の離れた姉がいるだけで、男の兄弟はいない。
こうして大人の男性とふたりっきりで会話をするのは初めてでとても緊張する。
(ふうぅ⋯⋯、喉が渇いたわ)
箱膳の茶碗をじっと見つめた。
(今お茶を飲んだら、失礼だと思われるかしら?)
考えていると、
「この部屋は暑いですね。喉が渇きます——」
誠一が茶碗に手を伸ばす。
「はい、とっても暑いです」
咲恵はほっとして自分も茶碗に手を伸ばした。
****
一ヶ月後——。
運転手が車の扉を開くと咲恵の頬をひんやりと冷たい風がふわりと撫でた。
袂を押さえながら車から降りる。淡い白藍色の着物を着ていた。小さく咲く梅の文様が肩と裾にあしらわれ、冬の名残と春の兆しが入り混じっている。
帯は華やかな銀の糸で織ったもの。母の嫁入り道具だ。「咲恵さん、この帯にしなさい。今日の日にふさわしいから」と言いながら母が結んでくれた。
髪はふわりと小さめの丸髷だ。
咲恵がこれから誠一と暮らすこの場所は麻布の飯倉町。
庭の広い屋敷が並ぶ古くからの静かなお屋敷街で、咲恵を送ってきた車のエンジン音だけが通りに低く響いている。
(あ、梅⋯⋯?)
二月の冷たい風にふわりと乗って梅の香りが漂ってきた。もしかすると誠一の屋敷の庭には梅の木があるのかもしれない。
「ありがとうございました」
父の運転手に頭を下げると、運転手は笑顔で会釈を返してから車を出した。自分を置いて去っていく黒塗りの車が角を曲がって見えなくなるのを見届けてから、咲恵はひとつ、深く息を吐く。
(この家で暮らすのね⋯⋯。私、大丈夫かしら?)
不安に胸が押しつぶされそうだ。寂しいし、悲しいし⋯⋯、なんだか迷子になってしまったような気持ちだ。
涙がじんわりとにじんでくる。
「帰ろう⋯⋯かな⋯⋯」
でも帰れるわけがない。自分はもう鳴海家に嫁入りしたのだから。
木造一階建ての屋敷は家の主と同じように端正な佇まいをしていた。
咲恵は、屋根瓦の向こうの青い空を見上げ、ふと、昨日の結婚式のことを思い出す。
結婚式はとても盛大で、帝都ホテルの大広間に両家の会社関係の来賓が何百人も集まり、結婚式というよりもまるで会社の祝賀会のようだった。
金襴緞子の花嫁衣装を着た咲恵は、最初から最後までお人形さんみたいに金屏風の前に座っていた。
咲恵の父の西園寺秀治郎は始終笑顔。
借金は消えて会社は鳴海家との提携で一気に安定を取り戻したらしい。 席のあちこちで「西園寺商会さんも見事に立ち直ったね」「さすが鳴海さんだ」との声が上がり、咲恵のところまで聞こえてきた。
母の美代も満足そうだった。
新郎の誠一はあちこちから声をかけられてほとんど咲恵の隣にはいなかった。しかも式の後で急な仕事が入り、咲恵の嫁入りは『改めて明日』となったのだ。
(さあ、——これからここで暮らすのよ!)
両手をギュッと握りしめ、頑張って自分に気合いを入れて門を入ると、覚悟を決めて呼び鈴を鳴らした。
カランカランと澄んだ鈴の音——。
「きれいな音ね⋯⋯」
そう呟いたと同時だった。
目の前の引き扉が、ガラリと勢いよく開いた。
****
「いらっしゃい、咲恵さん——」
呼び鈴の音が鳴り止まないうちに誠一が現れた。
「あっ⋯⋯。あの、よろしくお願いいたします」
咲恵はぺこりと頭を下げた。
(うわあ、びっくりしたわ。まるで玄関口で待ってくださっていたみたいに早いんですもの⋯⋯)
誠一は紺色の着物を着ていた。広い肩に同色の羽織をふわりと羽織っている。
まっすぐに自分に向けられる誠一の視線。見つめられると恥ずかしくて、胸がふるりと震えるような気持ちになる。
(ほんとうに活動写真の中から飛び出していらしたようだわ⋯⋯)
着物姿での立ち姿は凛としていて、羽織りに袖を通していない様子にさえも気品が感じられるほどだ。
「さあ、どうぞ。今日は寒いですね」
「は、はい⋯⋯」
玄関を入ってすぐ右に洋風の応接間があった。長い廊下と、廊下の両脇には和室が並ぶ。
「どの部屋でも自由に使ってください。遠慮は無用です」
「はい⋯⋯」
「通いの女中がいるのですが今日は休みです」
「はい⋯⋯」
(あら? ⋯⋯お休みということは、誠一さまとふたりっきり?)
そう気づくとますます恥ずかしくなった。下を向き、廊下の木の継ぎ目を数えながら誠一の後に続いて歩く。
一番奥の部屋まで行くと誠一が襖を開けた。
「ここを使ってください」
「ありがとうございま⋯⋯。わあ、もう本が届いているのですね!」
庭に面して大きな窓がある部屋だった。冬の日差しがたっぷりと入ってくる。
嫁入り道具の可愛らしい鏡台と、小さな文机、そして桐箪笥。
本棚もある。咲恵が実家から送った本が整然と並んでいる。
「並べる順番は自信がないのですが、咲恵さんが手に取りやすいようにしてみました」
「ありがとうございます」
「昨日の疲れが残っているでしょう。ゆっくり休んでください」
ニコッと笑って誠一は部屋を出ていった。
咲恵はふぅ、と大きく息を吐く。緊張して肩がガチガチ。ゆっくりと腕を回し、それから本棚の前にぺたりと正座した。
「ずっと続きを読みたかったのよねえ⋯⋯」
ここしばらく忙しくて本を読む暇がなかったのだ。本に挟んだ栞の位置は主人公が意地悪な継母に騙されて外国に売られそうになる場面。咲恵はずっと、この続きが気になっていたのだ。
静かな部屋にページをめくる音だけが響く、そして——。
「あら?」
顔を上げると障子の端に夕日の橙色。
(そんな……、もうこんな時間?)
「大変だわ——!」
咲恵は部屋を飛び出した。
**
台所に入った瞬間ひんやりとした空気が咲恵を包み込む。 木の棚、味噌の匂い、鉄の鍋。 ぴかぴかに磨かれた調理台に、小さなガスコンロが据え付けられている。棚にはブイヨンやカレー粉の缶詰もある。全部西洋のものだ。
(この家の女中さんは西洋料理が作れるのかしら? すごいわねえ)
咲恵の実家の料理女中は和食しか作れない。
「よし!」
咲恵は着物の袖を帯に挟み込んで台所を見まわした。
実家では台所に立ったことはなかった。母の美代も料理はまったくしなかった。
だけど、誠一はひとり暮らしで女中の数も少ないと聞いたので、簡単な料理を実家の料理女中に習ってきたのだ。
(女中さんがお休みなら私が夕ご飯を作るのよね?)
「さあ、まずは材料だけど、何があるかしら?」
台所の隅に冷蔵庫があった。氷を入れて冷やす仕組みの扉のある箱だ。中を見ると牛肉の塊と卵と魚とミルクが入っている。
肉の甘辛煮込みを作ろうと思った。咲恵の父の大好物だ。これならよく食べるので味も知っている。
まずは鍋をコンロに置いて火をつける。コンロはアメリカ製のガスコンロで、咲恵の家にも同じものがあるので使い方は心得ている。
しばらくして肉を鍋に入れるとジュッと激しい音がした。
「お砂糖と醤油は⋯⋯、どこかしら?」
急いで探し出して肉の上にかけた。
「あら?」
混ぜようとしたらなんだか変だ。肉がぴくりとも動かない。鍋底にくっついている。
「動いてお願い——」
必死で菜箸で混ぜようとするがうまくいかない。そのうち焦げた臭いまでしてきたので、そこでやっと火を止めた。
だけどどうやら遅かったようだ。ぐつぐつと地獄の大釜のような黒い泡が立っている。これではとても食べられない⋯⋯。
「どうしましょう⋯⋯」
しばらくぼーっとしてから気を取り直した。
お米を忘れていたことを思い出して米櫃を開ける。
「ご飯さえ上手く炊ければなんとかなるわ」
米を研ぐのはちゃんとできた。釜に米を入れて水も入れる。そしてコンロの上に乗せ火をつけた。
「ふうぅ⋯⋯」
さて、次は?
「冷蔵庫に魚があったわよね」
焦がした肉はちゃんと弁償しようと思った。実家からいくばくかのお金は持ってきているのだ。あとで誠一に肉の代金を払わなければ——。
「魚は焼くだけだから簡単だわ」
最初から魚にすればよかった、と思いながら米を炊いている釜の横に魚焼き網を乗せ火をつける。
どういう種類の魚かはわからない。頭のついたままの魚が網の上にゴロンと転がる。
隣では釜から蒸気が出始めていた。
ご飯は成功したと思ってほっとしつつ、焼けていく魚をじーっと見つめる。
魚は上手く焼けているように思えた。だけど、次の瞬間、魚の尻尾やヒレからパッと炎が上がった。
「あら?」
どういうことだろうか? 魚が燃えるなんて誰にも教えてもらわなかった。
咲恵が不安になり始めた時、釜から異様な量の煙が出てきた。何やら臭い。焦げ臭い。
「ああ、どうしよう!」
急いで釜の蓋を開けると米はガチガチで底は焦げ、とても『ご飯』と言えるものにはなっていない。水の量を間違えたのだ。
咲恵は焦った。
このままではご飯がない。食べられるのは魚だけだ。
その魚にもさっきから火がついていっこうに消えない。
このまま見ていていいものか、それとも——?
魚の皮がめくれチリチリと音が聞こえだすと、炎と煙がぼうっと立ち上がり、まるで生き物のように咲恵を襲った。
「きゃあ——っ!」
思わず両手で顔を覆ったそのとき——。
「咲恵さん、下がって!」
背後から強い声が聞こえた。
次の瞬間には誠一がサッと燃える魚と咲恵の間に入り、濡れた布巾を魚に被せた。
炎は消えた。けれど台所には煙が立ち込めてものすごく焦げ臭い。
咲恵は自分が大きな失敗をしてしまったことに気がついて頭が真っ白になった。
「咲恵さん、大丈夫ですか?」
「は、はい⋯⋯」
こくんと小さく頷いて、
「煙が目に⋯⋯」
袖で目を押さえた。
目の奥がじんわりとしてくる。
(泣いてはだめ、絶対にだめ)
「もうしわけありませんでした⋯⋯」
きっと誠一は怒っている、そう思うと声が震えた。
「咲恵さん、実は——」
誠一はそう呟きながら、勝手口を開けて焦げ臭い空気を入れ替え、焦げた鍋や燃えた魚を外に出した。それから声の調子を明るくして続けた。
「実は、魚も肉も古くなっていたんです。捨てようと思っていたところでした。——どうかな、もしよかったら、あかつき館に出かけませんか? 美味い料理を出す西洋料理の店ですよ。それとも、僕が作ってもいい」
「え?」
僕が作る、という言葉にびっくりして涙が引っ込む。
「栄養のあるものがいいですね。卵ミルクスープをご存知ですか? 僕の得意料理です」
「でも、あの⋯⋯」
「まあ、任せてください」
言い争うでもなく、慰めるでもなく、ただ静かに──。
そんな口調に咲恵は思わず「はい」と頷き、後ろに下がった。
誠一は冷蔵箱から卵とミルクを取り出した。手慣れた手つきで玉ねぎを刻み、「涙が出るんですよ、これは」と笑う。
鍋に玉ねぎとバターを入れて炒めそれからミルクと缶詰のブイヨン。
「温度が勝負です」
「まあ、そうなのですね」
誠一の手元を見つめながら、ハッと気がついた。
「誠一様、私、綴り帳を持ってきてもいいですか? 作り方を書いておきたいのです」
「ええ、もちろんですよ」
笑いを含んだ返事が返ってくるとすぐに急いで部屋に戻り、実家から運んだ箱の中から鮮やかな千代紙の表紙がついた綴り帳を取り出した。鉛筆も必要だ。
そして急いで台所に戻った。
「このミルクスープの中に溶いた卵を入れてはだめなのです。卵の中に入れるんです」
鍋には溶いた卵が入っていた。その中にゆっくりとミルクを注いでいく。
少し煮ると、とろりと黄色いスープの出来上がりだ。
(玉ねぎを刻んで、炒めて、それからミルクとブイヨン。温度が大事。卵液の方にミルクを注ぐ)
綴り帳を開いて最初のページにそう書き込んだ。料理の名前は<卵ミルクスープ>にする。ちょっと考えて<誠一様の>と付け加えた。
「さあ、いただきましょう。お口に合えばいいですが」
誠一は咲恵を促すと、台所の隅の西洋卓に深い器を並べた。
西洋卓とは足の長いテーブルのことだ。
(洋食屋さんみたい)
咲恵の実家では食事は箱膳を使っている。箱膳はひとりひとりが個別に使う小型の膳だ。
スープが器に注がれると白い湯気が立ちとてもいい香りがする。咲恵のお腹がぐうと鳴った。
(うわ、恥ずかしい⋯⋯)
「僕はバターの香りが好きなんです。最近は日本でも手に入りやすくなった」
「私も好きです」
「そうですか? 一緒ですね」
誠一は微笑み、パンを棚から取り出した。分厚く切ってコンロに網を乗せて焼く。焼きながらバターをパンに落とした。バターの香りがスープの香りに重なる。
もう我慢できないほど、咲恵はお腹がすいてきた。
「さあ、どうぞ」
「はい」
スープを一口飲むと思わず目を見開いてしまう。
「わあ、美味しいです、とっても!」
「そうですか? それはよかった」
卵スープはとろりとしていて、体の奥まで沁みていくような気がした。玉ねぎの甘みに卵の旨みが溶け合い見事に調和している。スプーンが止まらないほどだ。
さっきの大失敗のことさえすっかり忘れるほどの美味しさだ。
食事が終わると誠一は洗い物を片付けようとした。
「それは私がいたします!」
「いや、僕が——」
「私にさせてください、お願いします」
「じゃあ、お任せしようかな。適当でいいですよ」
「はい」
誠一が外に出してくれた焦げついた鍋は、明日、日光に当ててからきれいにしようと思った。実家では台所女中たちがいつもそうしている。
「終わりました」
初めての洗い物に手間取りつつも、なんとか器を洗い終わって和室に声をかけると、誠一は書類の束に目を通していた。どうやら仕事中のようだ。
「咲恵さん、お風呂をお使いください。ちょうど沸いているはずです」
「あ……ありがとうございます」
(お風呂を沸かしてくださったんだわ)
何もかもが申し訳ない。
「あの⋯⋯、私は誠一様のあとで⋯⋯」
「まだ仕事があるのです。どうぞ、ご遠慮なく」
「でも⋯⋯」
「先にお使いいただいた方が、助かります」
そうまで言われたら断れない。
「では使わせていただきます」
咲恵は準備を整え風呂に向かった。
****
こぢんまりとした浴室だが、湯船は広い。
(温かいわ⋯⋯)
肩まで湯に浸かるとガチガチだった体の緊張がすーっとほどける。ほっと息が漏れた。
(……はじめての一日、だったのよねえ)
結婚生活の一日目。
気を張って、失敗して⋯⋯。
でも卵スープはとても美味しくて思い出すと笑みが浮かぶ。
(誠一様は、とってもお優しいお方だわ。どうしてあんなにお優しい方が、まだお独りだったのかしら……)
そんなことを考えながら、咲恵はそっと湯船の中で目を閉じ、すっかり体も心も温まってから浴室を出た。
淡い紺色の模様が入った浴衣姿。長い黒髪は片方にまとめて結んでいる。
自分用に用意してもらった部屋に行こうとした時、玄関から誰かの声が聞こえた。
「申し訳ありません、警部補。緊急の報告で──」
「ああ、わかった。すぐに用意をする」
誠一の声も聞こえる。
(お仕事かしら?)
咲恵が鏡台の前に座っていると「咲恵さん?」と誠一の声がして、整った顔が鏡の中に映った。
「はい——?」
咲恵は慌てて振り返った。
「申し訳ないが、急に出かけなければいけなくなりました」 誠一は黒っぽい背広に着替えていた。手には中折れ帽を持っている。
「遅くなるかもしれません。先に寝ていてください」
「はい、わかりました。どうぞお気をつけて⋯⋯」
「ありがとう」
誠一がにっこりと笑った。
咲恵も笑みを返した。
視線が出会うとなぜかものすごく恥ずかしくなった。パッとうつむき、顔を上げた時には誠一の姿はもうない。
「あら——?」
玄関が閉まり鍵をかける音が聞こえた。
「ひとりになっちゃった⋯⋯」
家の中はとても静かだ。今日来たばかりなのでまだ自分の家とは思えなくて、そわそわと落ち着かない。
「えっと、寝室はたしか、隣よね」
隣の部屋の襖を開けると——。
「あ⋯⋯ら?」
布団が二組、並べて引いてあった。
*****
「夜分にすみません、警部補」
部下の声が聞こえたので玄関に向かったちょうどその時——。
奥の廊下から軽やかな足音が聞こえた。
誠一が振り返ると、風呂上がりの咲恵が髪を手拭いで拭きながら部屋に戻っていく後ろ姿が一瞬だけ見えた。
(料理であんなにしょんぼりするとはな……)
子供のような頬のふくらみと、「ご飯が……おこげになってしまって……」という震える声を思い出す。
(なんだって、あんなに真剣なんだろうな)
誠一の端正な顔にやわらかい笑みが浮かんだ。
「警部補、すいません、夜遅くに」
「構わない。奴らが動いたのか?」
「はい、動き出しました」
「わかった——。少し待ってくれ」
羽織を脱ぎながら廊下を戻る。
誠一は、嫁をもらうつもりなどまったくなかった。
それなのに咲恵を娶ったのは咲恵の事情に同情したからだった。
鳴海家と西園寺家は旧知の商取引関係にある。 倒産寸前の西園寺に手を差し伸べる代わりに娘の咲恵殿をお前の嫁にする——いきなり父の儀一が言い出したとき、誠一は(馬鹿げている)と思った。
当然、断るつもりだった。
だけど見合いの席で、頑是無い子供のような咲恵が、こう聞いてきたのだ。
——本を持っていっても……、よろしいでしょうか?
必死に笑顔を保っている姿はいじらしくて、(俺が断れば別の誰かに嫁がされることになる)という事実から目を逸らすことができなくなってしまった。
その《誰か》が酷い奴かもしれないじゃないか。
だけどもしかするとそれすらも、百戦錬磨の誠一の父の策略の一つだったのかもしれない。もうずっと前から父は誠一を結婚させようと必死だったが、誠一はそれをぬらりくらりと交わし続けていたのだ。
(まあ、いい。いつかはどこかの誰かを嫁に取るわけだし、それが彼女で悪いということはない)
そういうわけで誠一は咲恵との結婚を決めたのだった。
「妹のようにしか思えないのが、問題だな——」
苦笑しながらネクタイを結び終わった。夜目に目立たない黒っぽい背広姿だ。
咲恵の部屋に行き、声をかける。
「咲恵さん?
「はい——?」
咲恵は鏡台の前に座っていた。振り返って自分を見つめる湯上がりの顔は昼間以上に幼く見えた。
「申し訳ないが、急に出かけなければいけなくなりました。遅くなるかもしれません。先に寝ていてください」
「はい、わかりました。どうぞお気をつけて⋯⋯」
「ありがとう」
(可愛い——。妹を溺愛する兄の気持ちがわかる気がする)
誠一はにっこりと笑った。
玄関を出ると空気が湿っていた。雨の気配だ。
部下の岩井がいて早口で説明を始めた。誠一と同じような黒い背広姿で、中折れ帽を深くかぶっている。
「黒桔梗が動くという情報が急に入りました。例の、軍の倉庫から横流しされたというアレです」
黒桔梗は、帝都で急速に勢力を広げる犯罪組織だった。
襲撃、密輸、誘拐と悪い意味で手広く、その手口は荒っぽい。戦場仕込みという噂もあった。
誠一は中折れ帽をかぶりながら、
「いい加減、こっちの罠にかかってもらわないとな」
低く言う。
その声も、姿も——。
咲恵が知っている鳴海誠一ではなくなっていた。
*****
「そうよね、お布団は、二つに決まっているわよね」
咲恵はブツブツ呟きながら、並んだ布団を見下ろした。
(でもちょっと距離が近いんじゃないかしら?)
そう思って布団と布団を少し離した。
(⋯⋯離れすぎ?)
これでは誠一が気を悪くするかもしれないじゃないか。
慌てて布団をくっつける。
(ちょっと近すぎ?)
これはこれで恥ずかしいような⋯⋯。
なん度も布団を動かして、結局、三寸ぐらいの距離に落ち着いた。
「警察のお仕事は大変なのね」
布団の横に正座をして壁の丸い時計を見つめる。時刻は十一時。
静かな部屋に時計の音だけがチクタクと響く。
だんだんと眠くなってきて、正座をした姿勢がぐらっと傾く。そのたびに慌てて「寝ちゃだめよ」と目をパッと見開いた。
かなり時間が経って、いつの間にか布団の端に突っ伏すような姿で眠ってしまっていた。
玄関が開く音にハッと目を覚ます。
「誠一様だわ!」
部屋を飛び出し廊下を小走り。
玄関で靴を脱ごうとしている誠一の前でパッと両手をついた。
「お帰りなさいませ——」
誠一はびっくりしていた。外は雨が降り出したようだ。背広の肩が濡れている。
「起きていたのですか?」
「はい」
「それは申しわけない⋯⋯。眠いでしょう?」
「⋯⋯少し寝てしまいました」
「ああ、なるほど」
誠一の顔に柔らかい笑みが浮かぶ。
咲恵は、誠一が戻ると一気に家の中が明るくなったような気がして嬉しくなった。
「では寝ましょうか?」
「え? ⋯⋯はい」
さあ、いよいよだ。
もちろん夫婦になった男女がなにをするのかは知っていた。
母の美代はものすごく遠回しに教えてくれたし、料理女中たちはかなり具体的に教えてくれた。
女学校の友達の話によると夫婦の営みというのは夫側の経験によって大きく違うらしい。経験不足の夫だと妻は苦労するらしい⋯⋯。
(誠一様は⋯⋯?)
考えるが、そもそも『経験』というのがどういうものかもよくわからない。
浴衣に着替えた誠一の後から寝室に入る。誠一は湯たんぽを持っている。
「灯りは消したほうがいいですか? つけておいてもいいですよ」
「⋯⋯あ、私が消します」
電球笠の紐を引っ張るとカチッと音がして部屋が暗くなった。
真っ暗ではない。窓の障子の向こうからぼんやりと外の光が入ってきて、薄い闇だ。
誠一が布団に入る気配がした。
咲恵も急いで布団に入った。
(これから、契りを結ぶのかしら?)
急に手と足が冷たくなっていく。胸の鼓動も速くなる。
「咲恵さん?」
「は、はい!」
答えた声が甲高くなってしまった。
(ああ、恥ずかしい!)
パッと掛け布団に潜って顔を隠した。
少し笑ったような声がして、それから、誠一の大きな体が咲恵の方に動いてくる。
そして足元の掛け布団がめくられ⋯⋯。
(下からお布団に入っていらっしゃるのかしら?)
心の臓が飛び出してしまいそうなほどだった。ドキドキと鼓動が激しく打った。
「咲恵さん——」
「はい!」
大きな声で返事をすると、誠一の笑い声が聞こえた。
「湯たんぽを、忘れていました」
(湯たんぽ?)
咲恵の足元がじんわりと温かくなった。誠一は湯たんぽを入れるために咲恵の布団をめくったのだ。
「⋯⋯ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして。それから、夫婦の営みのことですが——。僕と咲恵さんは知り合ったばかりだ。ゆっくりとお互いを知るというのはどうでしょう?」
(お互いを知る? ⋯⋯どういう意味かしら?)
天井を見つめながら考えていると、誠一の静かな声が続く。
「つまり、夜はこうして話をしながら過ごしましょう——、と言うことです」
それは咲恵も大賛成だ。
「はい、それでお願いいたします!」
答えた声が明るく弾んだ。
「——ではそういうことで」
「はい!」
咲恵の体から強張りが解ける。
(お話ししながら眠るなんて、女学校の集団旅行のようだわ!)
なんだか楽しくなってきて、ぴょこんぴょこんと足を動かす。つま先が温かい湯たんぽをリズムよく叩いた。
(何をお話ししようかしら?)
外から聞こえてくるのは雨の音。
「あの、……雨は、お好きですか?」
そう聞いてみた。
返事はすぐには返ってこなかった。誠一は黙っている。
(何か変なことを聞いてしまったかしら?)
不安になった時、やっと誠一が口を開いた。
「苦手でしたが、咲恵さんと一緒だと不思議と楽しい音に聞こえますね」
「まあ苦手でいらっしゃったのですか? 雨音って音楽に聞こえますでしょう? 私、雨音に合わせてピアノを弾くのが好きなんです。ほら、今の音! ラ、ラ、ソ、ラ——と聞こえましたでしょう?」
「僕は音感がないのかよくわかりませんが⋯⋯」
「あ! 今のは、ミ、ド、レ——です!」
「⋯⋯ん? 確かにそうかもしれませんね。⋯⋯聞こえました。楽しいですね」
「そうでしょう?」
咲恵と誠一を包み込むように、雨の音が聞こえ続ける——。
****
寝室に朝の光が差し込んでいた。
咲恵は、自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。
(ああ、そうだわ⋯⋯)
昨日自分は嫁いできたのだ。
(あら? 台所の音?)
隣を見ると誠一はいない。慌てて飛び起きて身支度を整えながら台所へ急いだ。
明るい緑色の小紋の着物に山吹色の帯を巻いた姿だ。
台所に飛び込むと黒い制服姿の誠一がご飯をよそっていた。
「すいませんでした、寝坊いたしました」
「豆腐とわかめの具はお好きですか?」
「え? あ、はい」
味噌汁の匂いにお腹がぐうと鳴る。
(私、お腹が鳴ってばかりだわ)
恥ずかしくて仕方がない。だけど恥ずかしさより食欲が勝った。
洋式卓にご飯と味噌汁、漬物にアサリの佃煮、そしてゆで卵が並んでいる。
「明日は私が作ります」
「ありがとうございます。では、一緒に作りましょう」
「はい⋯⋯」
たしかに一緒に作った方が色々と安全だ。
料理を習ったら綴り帖にちゃんと書いて、しっかり勉強しなければ——。
そう決心しながらまず味噌汁を一口w。
「わあ、美味しいです!」
美味しいだけじゃない。誠一が作る料理はなぜか咲恵の心にじんわりと沁みた。
「お口にあってよかった」
誠一がにこりと笑う。
咲恵も笑い、また恥ずかしくなった。
誠一と視線があうとなぜか恥ずかしくなってしまうのだ。うつむき加減に食事を続ける。
雨はすっかり止んだようだ。朝日が当たる窓の向こうに、豆腐売りのラッパの音が近づいてきて、それから遠ざかっていく。
「女中は通いなので朝はいつも自分で作るんです。午後には来ると思うので、遠慮なく頼ってください。——昼前に一度帰ってくる予定です」
食事が終わると誠一はサーベルを手にして玄関に向かった。
(お昼前に帰っていらっしゃるのね)
心細さがスーッと消えていく。
見送りをしようと玄関を出ると、道の雪はすっかり消え、眩しいほどの朝の光が満ちていた。
やはりどこからか梅の香りが漂ってくる——。
「では——」
「あの⋯⋯。あの⋯⋯、行ってらっしゃいませ、旦那さま」
咲恵の頬が桃色に染まると、誠一が笑顔になった。
「行ってきます、女房どの——」
〜終わり〜
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大正ロマンをお気に召して頂けましたら☆で評価をもらえたらすごく嬉しいです!
ありがとうございましたm(_ _)m