05 幸せの白いハンカチ
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大根っぽい野菜の汁で血抜きに成功した。きよ子は洗ったハンカチにアイロン(炭を入れるやつ)をかけた。このまま返すのも失礼なので、綺麗な紙を買って包む。セロハンテープが無いのでリボンも買った。
(さて。普通なら菓子折りの一つも添えるものだけれど。貴族様なのよね)
安い菓子など却って失礼だろう。きよ子はカルチャーセンターで教わった押し花を思い出した。まず、なるべく薄い花弁の花を選んで摘む。それを薄紙に挟んで、繰り返しアイロンを押し当てる。そうして程よく乾燥した花をカードに糊で貼り付けた。
『ありがとうございました』
と、お礼の言葉を書いて包みに添えた。それを持って、宴会の翌々日、きよ子は侯爵邸に向かった。
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裏口の門番に事情を話すと、包みを受け取ってくれた。
「律儀だね。ハンカチぐらい貰っても良いのに」
門番は笑って言った。
「そういう訳にも。では宜しくお願いいたします」
きよ子は辞そうとした。だが振り向くと後ろに侍女長がいた。外から帰ってきたところみたいだ。
「あなた。一昨日の」
侍女長に声をかけられたので、きよ子は丁寧に頭を下げた。侯爵令息にお借りしたハンカチを返しに来たと話す。
「…そう。時間あるかしら?お茶でも飲んでお行きなさい」
「はい?」
急に茶に誘われた。宴会のない日は暇なのかしら。こちらの返事も聞かずにずんずんと侍女長は先に行ってしまう。門番さんが『どうぞ』とジェスチャーで招き入れてくれた。
きよ子を応接室風の部屋に通すと、侍女長は引っ込んでしまった。しばらく待たされ、ドアが開いた。恐ろしく美人の中年女性が入ってきた。ドレスを着たカトリーヌ・ドヌーヴだ。なんとなく、きよ子はソファから立ち上がった。貴族オーラのなせる業だ。
「座って、座って。先日はごめんなさいね。息子から聞いたわ」
カトリーヌは笑ってオーラの出力を下げた。続く侍女たちがテーブルに茶を並べた。グレゴリーの母ということは侯爵夫人だろう。平民の女に詫びるとは。さすが正義の人の親だ。
「私の方こそ助けていただき、お礼の申し上げようもございません」
自然と頭が下がる。夫人はあれこれと茶菓子を勧めてくれた。きよ子はありがたくいただいた。何を話そうかと考えていると、カトリーヌの方から訊いてきた。
「それで?あなた、お幾つなの?結婚は?お子さんはいるのかしら?」
今朝、鏡を見たら30歳ほどに若返っていた。侍女長の反応を見ると、40も30も変わらないみたいだ。それに口入れ屋では家族構成まで聞かれない。きよ子は適当に答えた。
「30です。夫とは死別しました。子供はいません」
「苦労したのね…。若いのだし。また家庭を持つ気はないの?」
「今のところは。生きるので精一杯ですから」
「そんなこと言わずに。どんな人が良い?」
笑顔のカトリーヌはきよ子の好みを聞き出そうとした。この人は『仲人おばさん』だ。昔は日本中にいた。悪気はないのだろうが、要らぬお節介に、心の中でため息をついた。
(結婚はもうこりごり)
数十年前、きよ子は見合い結婚をした。相手はハンサムな一流企業の勤め人だった。彼女の生家は貧しく、大学進学など夢のまた夢、おまけに世間知らずだったから、良いご縁だと飛びついてしまった。だが元夫の不行状によって背負わされた苦労は、並大抵のものではなかった。あの地獄は二度とごめんだ。
「背が高くて、お金持ちで、学歴の高い男性が好みです」
断りづらいので、きよ子は三高を並べた。きっとそんな人はいない。
「まあ。ウチの息子みたい。背も高いし、士官学校を主席で出てるのよ。騎士団の副団長だから給料もまあまあだと思うわ」
その後は夫人の息子自慢を聞いて、茶会は終わった。屋敷を出たら日が暮れていた。明日から真面目に働こう。菓子で満腹になったきよ子は宿に帰った。なかなか面白い1日だった。
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「あれがジェラルドの好みなのか?」
黒髪の女が帰った後、パルデュー侯爵は妻に訊いた。覗き穴から茶会の様子を見ていたが、彼女のどこが息子の琴線に触れたのか分からなかった。
「そうよ。媚びないところが良いわ」
妻はニンマリと腹黒い笑みを浮かべた。一昨日の夜会で、息子が女性を救った。その女性をいつまでも見送っていたとの報告があった。侍女長と妻は彼女こそ息子の運命の相手だと言い切る。
「元の身分は高そうね。上品だし。なんと言っても美しい」
実際に会ってみて確信したらしい。侯爵はあまりに細くて心配だった。
「栄養失調みたいじゃないか。第一、身分が低すぎる」
「そんなのどうにだってなるわよ。あの堅物女っ気無しが初めて興味を示したの。チャンスよ!」
夫の苦言は一蹴された。妻は侍女長に次なる一手を指示した。
◇
聖女捜索隊本部に、副団長宛の荷物が届いた。実家からだ。リボンが掛けられた包みを開けると、あの夜、黒髪の女性に貸したハンカチが出てきた。綺麗に洗濯され、押し花のカードが添えてある。
(わざわざ返しに来てくれたんだ)
たおやかな心遣いが嬉しかった。ハンカチはほんのり良い香りがする。母の手紙もあったので読んだ。
『彼女をウチで雇いました。いつでも帰ってらっしゃい』
副団長はぎょっとした。誤解だ。彼は慌てて仕事を片付けると、実家に向かった。
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口入れ屋に仕事を探しに行ったら、指名が来ていると言われた。カトリーヌだった。きよ子を侍女にしたいという。
「紹介状が無いと正規雇用はダメなんでしょ?」
きよ子は窓口の女性に訊いた。
「普通はね。言っとくけど断れないよ。侯爵家レベルは」
彼女は書類を押し付けてきた。またあんな嫌な目にあったらと思うと、正直、気が乗らない。しかし平民に断る権利は無いらしい。仕方なく契約書にサインした。今の名前は『キコ』だ。小学生の時の渾名である。
住み込みなのが唯一の救いだ。また老女に戻ってしまったら逃げれば良いか。きよ子はポジティブに考えた。あの正義の人の親だ。きっと良い主人だろう。
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きよ子はパルデュー侯爵家の侍女見習いとなった。お館様はグレゴリーが老けた感じの方で、渋い中年だ。息子もこんな雰囲気の良い男になるに違いない。
始めの1週間は研修だった。明日から侍女デビューという時、侯爵令息が帰ってきた。
「お帰りなさいませ」
玄関ホールにずらりと使用人が並んで迎える。ツカツカと入ってきたグレゴリーは、何故かきよ子の前で立ち止まった。
(?)
薄目を開けて彼の靴を見ていたが、動く気配がない。そこへ奥方様が来た。
「お帰りなさい。ジェラルド」
「…只今戻りました。母上」
やっと靴が去った。きよ子は頭を上げてグレゴリーの背を見つめた。いつか機会があれば、改めて礼を言おう。今は使用人の立場だ。新人侍女は気を引き締めて持ち場に戻った。
◇
ジェラルドは人払いをして、居間のソファで両親と向かい合った。本当にあの黒髪の美女が侍女になっていた。いくら後継ぎが欲しいからと言って、こんなやり方は間違っている。彼は抗議するつもりで訊いた。
「母上。何故このような事を」
「気に入ったのよ。だから雇ったの。文句ある?」
父は困った顔をしていた。母の企みだ。
「あからさまです。彼女の意思も聞かずに」
「じゃあ聞いてみましょう」
母が呼び鈴を鳴らすと、すぐに黒髪の侍女が来た。
「お呼びですか?」
前より若い感じがする。20ぐらいか。陶器のような肌に切れ長の瞳。赤い唇が目を引く。母は笑って尋ねた。
「キコ。ここで働くのは嫌?」
「いいえ。日雇いより安定しています。賄いも美味しいですし。住み込みも助かります」
彼女は無表情で答えた。
「ジェラルドがいる時は、彼の専属になってくれる?」
母が意地悪く頼んだ。キコは顔を顰めた。
「嫌です。お風呂の世話とか、したくありません」
「!」
ショックだ。良いのだが、少し傷つく。父が咳払いをした。
「侍女にそんな事させんよ。ウチは健全なんだ」
「じゃあ良いです」
キコを下がらせ、母は大笑いした。
「やっぱり面白いわ!分かった?口説くなり何なり、好きになさい。ただし雇用契約は1年よ」
「…」
今はそれどころではないのだが。でも、あの娘が居るなら週末ぐらいは帰るか…いやいや、母上の思惑通りになんか…副団長の胸中は複雑だった。