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 その夜の事であった。

 夜営しているバーブル軍……改めライナルト軍の陣所に、王都より珍客がやってきた。その報告が、真っ先にバーブルの下にもたらされたのは、この軍が“バーブル軍”であった頃の名残といえるし、そもそも珍客がバーブルを訪ねてやってきたからである。

「客だと」

 こんな夜遅くに、一体なんだと、バーブルはいささか面倒臭げに吐き捨てた。

 報告にきた近侍曰く、子連れの若い女性だという。

 更に深堀して、身なりや雰囲気を確認した結果、バーブルとエレナの二人にはピンとくるものがあった。

「姉上ですかね」

 エレナがポツリと呟くと、

「かもしれんが、まさか」

 バーブルはなお半信半疑であった。

 ともあれ、通すように命じたのは、その目で確認してみたくなったからである。そしてもし本当にアンナであるとしたら、今更この期に及んで何を言いに来たのか、興味が湧いたのだ。

 近侍に伴われて、やってきた彼女は、予想と大差ない顔をしていた。

 ただ彼らが覚えている当時の彼女と比べると、いささか痩せ衰えた感がなくもない。実家に押し込められて、絶望のどん底に沈んでいた頃のエレナを彷彿とさせる。あれから一年。そのエレナは生活環境の劇的な改善や、精神状態の回復によって、みるみる本来の美しさを取り戻しつつあったから、バーブルにとってはあらゆる意味で久方ぶりの再会と言ってよかった。

「アンナか。どうしたのだ。こんな夜遅くに」

 今更、自分を裏切って弟に走った、かつての婚約者に対して怒りなどない。

 一年の時が彼の心を癒したという事もあるし、

 彼女以上に愛すに足る女性を見つけたという事もあった。

 昔の女など、どうでもよいというのが今の彼の本心だった。

「バーブル様、お久しぶりです」

 そのアンナは、かつて以上に成功を収めたバーブルに対して、未練にも似た表情を向けている。そんな彼の隣に、これ見よがしに座っているエレナを見ると、露骨に眉間に皺を寄せるが、とりあえず口に出す事はなく、代わりにこんな事を言った。

「今宵、まかり越しましたのは、主人……ハルン様より預かった書状を届ける為でございます」

 アンナがいそいそと懐から取り出したのは、一枚の紙きれであった。

 近侍を経由してそれを受け取り、ちらちらと文面に目を落としていたバーブルは、思わず「はぁ?」と素っ頓狂な声を張り上げてしまった。

「お前をくれるというのか?」

 これが呆れずにいられるか、と言いたげなバーブルである。

「……」

 一方、アンナは黙っている。

「フフ、読み上げてやろうか。なかなか笑えるぞ。

 ……余、ハルン・フェルトはここに誓う。もし兄上が余の帰参を許し、余の資産と地位を従前と変わらず存続する事を認め、かつ余の事業の経済的な後ろ盾となってくれるならば、兄上のかつての恋路を旧に復する事を約束しよう。この書簡を届けた女は、そのまま兄上の好きにしてくれて構わない。余の誠意の証である。よろしくご査収のほど、伏してお願い申し上げる。……だと」

 ここまで厚顔無恥な手紙は初めて見たというべきか、とにかく笑うしかないバーブルだった。エレナも呆れたというか、困ったような表情を作っている。というより彼女はいささかの不安もあるようだった。今更姉を返すと言われて応じるようなバーブルでもないだろうが、まさかという事はあり得る。昔のアンナ一筋であったバーブルの事を知っているだけに猶更だった。

「己可愛さの為に、お前を俺に売るのだと。アンナよ。お前はそれでいいのか?」

 バーブルの問いは至極尤もなものであった。

 アンナはしばらく困ったような顔をしていたが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。

「……私は構いませぬ。もうあの人と一緒にいたくはないのです。あの人は、もう私には興味がないのです。毎晩、他の女の下に通っています。あるいは、アンリ殿下の“愛妾”を務める事に忙しいようです。それだけならまだしも、少しでも気に入らぬ事があれば、すぐに暴力を振るいます。一人であれば耐えられますが、いずれはこの子にも危害が及ぶという事を考えると、もう……」

 耐えられませんという言葉を吐き出す前に嗚咽してしまったアンナを前にして、バーブルは示すべき反応に困ってしまった。今更何を言っているのだと怒るべきか、あるいは大変だったなと同情を示すべきか。

 そのどちらもバーブルは選びたくはなかった。というより、こんなバカバカしい話に関わりたくないというのが、偽らざる本心であった。

「なるほど。であれば、離縁すればよい。俺は別に反対する気はない。俺には関係のない事だ。お前がどんな道を歩もうが、知った事ではない。それと、今更言うまでもないかもしれんが、俺とお前はもはや結婚する事はできん。俺はお前をそのようには見れないし、そもそも既に先約がいる身なのでね」

 そう言って、バーブルは傍らに控えていたエレナを傍に招き寄せた。

 不安、信頼、呆れに怒り。

 あらゆる感情を綯交ぜにしたような、複雑な表情を浮かべたエレナは、アンナから向けられる鋭い視線を前に、昔のトラウマを抉られたのか、天敵に睨まれた小動物の如く全身をプルプルと震わせていた。

「先約というのは、エレナですか。しかし、エレナは、悪魔憑きにて、貴女には相応しく……」

 相応しくないと言おうとして、全てを言い切る事が出来なかったのは、バーブルの鋭い眼光が彼女の全身を貫いたからである。

「相応しくないか。されど、エレナを我が妻にと推したのは、お前達ではなかったか」

 彼女が口に出来なかった言葉を、バーブルが代わりに冷然と突き返す。

「いえ、それは、ハルン様が……」

「だが、お前も反対しなかった」

「し、しかし。……エレナは悪魔憑きですし、そもそも不愛想で、無口で、気も利かず、くだらない女です。それに、実の父とまぐわっていたような淫乱で……」

「そこまでだ!」

 バーブルが叫んだのは、そのあらん限りの罵詈雑言に彼自身が耐えられなくなったという事もあるし、エレナへの影響を慮ったという事もあった。そのエレナは、信じていた姉から飛び出した罵声の数々に、悲しい顔こそ浮かべていたが、馴れたようにさほど動じた素振りは見せなかった。

 それを見て、バーブルの怒りはいっそう高まった。彼女の馴れっぷりは、それだけ罵声を浴び続けてきた事に他ならないからだ。これまでバーブルは、エレナ虐めの主体は、あのおぞましい父であり、あるいは母だと見做し、姉は傍観こそすれ積極的に加担しているわけではないと思っていた。傍観自体もなかなか許し難いが、それでも自分に矛先が向く事を防がんとする防衛反応だとすれば理解できなくもない。だが、アンナ自身の口ぶりや、エレナの反応から察するに、アンナもまた大なり小なり虐めに加担していたに違いない。

 バーブルは思わず天を仰いだ。

 こんな性根の腐った女を、生涯の伴侶にしようと心に誓い、エルミラ要塞では命を賭して戦ったのだ。そんな自分の不明ぶりが今更にして恥ずかしい。それと共に、こんな女と結婚せずに済んだ事が心底嬉しい。こればかりは神に感謝してもしたりない気がした。

「お前は、一体何をしに来たのだ。俺の妻たる女を侮辱しに来たというのであれば、容赦はせぬ。お前が、妻の姉でなければこの場でその首を斬り落としていたところだ」

「……」

「それにだ。お前はエレナの事を悪しざまに罵るが、俺は別にエレナをくだらない女だとは思っていない。確かに無口だ。しかし気は利くし、優しいし、俺には勿体ない女だ。少なくとも妹を罵って平然としているお前よりはマシだな。それにしてもお前はどうしてそんな女になってしまったのだ。少なくとも昔は違ったであろう。俺がお前を好きだった事実は確かに存在するし、否定しようもない。だからこそその過去を恥と思わせるような軽率な言動、振る舞いは、今後は厳に慎んでほしい。今のお前はいざ知らず、過去のお前は俺にとっていい女だった。今のお前を見ていると、過去のお前を穢されている気がして辛いのだ。これ以上、俺の過去を穢すようなら、本当に首を斬り落としてやるから、そう思え」

「……」

「それと、ハルンの事だがな、都に戻ったら奴に伝えろ。一応俺の弟だ。投降するなら助命ぐらいは嘆願してもいい。だが資産や地位の事は金輪際忘れろ。事業にしても、お前独自でやっていくなら好きにすればいい。だが俺は援助などせん。お前の為に出すカネは銅貨一枚もあり得ん」

 ひとしきり捲し立てると、バーブルはフンと鼻を鳴らし、傍に控えていた近侍に対して、女を外に摘まみ出すように命じた。バーブルの宿所から連れ出される直前、アンナは「せめて、この子だけでも預かってもらえませんか」と懇願し始めた。言うまでもなく、ハルンとアンナの子であった。そして、バーブルとエレナの甥でもあった。

「貴様らの子を引き取れと」

 冷たく返す彼の裾をきゅっと引っ張ったのはエレナであった。

 そこまで突き放すのはさすがに気が引けるし、そもそもその子供に罪はない、とでも言いたげな顔をしていた。バーブルは若干の逡巡を間に挟み、

「わかった」

 と答え、「その子はわが子同然に育てよう。それでよいか?」とアンナに迫った。

「ありがとうございます」

 アンナは心底嬉しそうな顔をして、何度も何度も頭を下げていた。

 そこにいたのは、性根の腐った女ではなく、我が子を想う母であった。

 彼女のそういう側面を見れた事は、バーブルにとっても悪い気はしなかった。


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