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領地の視察もバーブルにとっては重要な仕事である。
エルミラの戦い以来、彼に付き従ってきた兵の多くは、屯田兵として領地の開発に従事している。サルード領は未開発の荒野が多く、開発次第でいかようにも発展し得た。可能性の宝庫ともいうべき土地を与えられた兵士達は、腕を振るって木々を切り倒し、土を耕し、用水路を造るなどして、瞬く間に荒野を農村へと作り替えていった。
その有様をバーブルは視察して回っている。屯田兵が不便に思っている事があれば、大所高所から改善の手を打ち、不満があれば解決の為に力を尽くす。何事も任せっ放しにしないと言うのがバーブルの施政の大前提だった。
バーブルがサルードの領主となって、はや半年が過ぎた。
目下の彼が力を注いでいるのは、海岸線に沿って広がる不毛な荒野の開発計画だった。ここは海に近い事から、塩害によって作物が育たず、辺境の主産業といっていい農業が成り立たないのだ。よって海岸地帯の集落といえば、漁村が幾つかあるのみで、それ以外は手つかずの状態となっていたが、何とかしたいというのがバーブルの本音であった。
彼がそう考えるのは、このところ急速に人口が拡大している事が挙げられる。増えた民を養うには、既存の開発可能土地以外にも目を向けなければならなかったのだ。いわば必要に迫られて対策を強いられた形だが、上手くいけば増えた民を食わしていけるし、サルード領は益々発展するしで、良いことづくめのはずであった。
それにしてもサルード領の人口が急拡大しているのは、各地から“移民”が相次いでいる為だが、その理由としてはバーブルが他に比類のない善政を敷いている事が挙げられる。彼の統治の下、サルード領で課される租税は全国最低の“三公七民”に抑えられ、無償の強勢労役や兵役は一切なく、法は簡素だがその分厳格で、領主ですらそれに従うといわれるほど領内全体に規律と秩序が行き渡り、それらの結果として治安もよい。その噂は既にサクラカンド王国全土に知れ渡っており、当然、各地域で恣意的な領主の圧政に苦しんできた人々が移住したくなるのも無理からぬ事といえた。
バーブルが、とかくカネのかかる善政を断行し得たのは、エルミラの戦いの結果として得た報奨金と、彼の将来性を認めた商人達の協力姿勢によって、投資用の資本には事欠かなかったからである。バーブルは商人達から調達した莫大な資金を無意味な事に浪費せず、次に繋がる“投資”に全振りした。失敗もあったが、成功の方が多く、結果としてカネがカネを呼ぶ好循環が成立し、返済も怠りなく行う事が出来、何なら前倒しで行う事も出来た。商人達からの信頼や声望はいよいよ高まり、もはや彼があえて求めずとも、彼らの方からサルード城に日参して、「金を借りてくれ」と言ってくるほどだった。
それはともかく、この時期のバーブルの関心は塩害対策に向いていたが、ある時、日参した商人がこんな事を言った。
「海からの風が内陸に届かぬよう、海岸線に沿って木々を植えてみては如何でしょう。塩害に強い樹木であれば、すぐにご用意できますよ。また木綿であれば、塩にも強いですし、何ならそれを取り除いてもくれますから、この二つを併用すれば、対策としてはそれなりに十分かと。木綿の種子も私共にご用命いただければ、お安くご提供いたしますし、何なら栽培方法の手ほどきなども承りますよ」
「ほォ」
商魂逞しいというべきか、相手の困りごとを察してその解決案を提示し、それに必要なものは全て用意するという商人の手際の良さに、バーブルは感動すら覚えた。これならば誰にとっても損はしない。多少高く売りつけられようと、問題が解決できるならバーブルにとって安いものだし、商人の方も今後の付き合いも考えれば、そう暴利はとらないだろうし、受注できる仕事の規模が規模であるから、多少利益を減らしても十分な利益を得る事が出来る。
バーブルはこの提案を即決で受け入れ、早速、手配に移るように依頼した。このように、彼の判断一つでその場で即断即決出来るのは、サルード領の大変な強みである。しかし逆に言えば判断や決断ができる人材がバーブル一人に偏ってしまう事は避けられず、結果としてバーブルにあらゆる仕事が圧し掛かってくる構図となってしまい、働けど一向に多忙が解消されない結果に繋がっていた。せいぜい、ザルは、バーブルから寄せられている信頼の厚さに加え、豪放磊落な性格も相まって、主君に無断で勝手に決めては、独自に実行したりしているが、そんな事は彼にしかできないし、許されてもいない。
かくてバーブルは多忙を極めるわけだが、
ともあれ、彼の治世は順調で、
唯一の例外を除き、この時期の彼の日常は至極順風満帆であった。
その唯一の例外たるエレナとは、あの夜以来、微妙に気まずい関係が続いている。
会話がないわけではない。接点もある。
しかし、あの夜以来、二人の間には見えない壁があるのだ。
実際には、それ以前から壁はあったのかもしれない。だが、あの夜できた壁は、恐らくそれ以前からあった壁よりもさらに厚く、頑丈で、根深いものだった。
まず、あの夜以来、バーブルがエレナの下に“お渡り”する事はなかった。無論、夜が明け、まだ陽が高いうちであれば、バーブルは彼女の様子を見に日参し続けている。しかしその場でも、「元気か?」「はい」の二つぐらいで会話が終了してしまい、結局逃げるように退散するのが常だった。
それでもやらないよりはマシだったのかもしれない。
先祖返りしたように引き籠りの日々を続けるエレナにとって、毎日顔を合わせる人間は、世話役として傍に侍っているディアナを除けば彼しかなく、必然的に彼女の中で彼の存在感は日ごとに大きくなる一方だったからである。ただ素直になれないというか、彼の好意をあんな風に跳ね除けてしまった自責の念から、つい言葉が出ず、態度に現れず、素っ気ない仕草でやり過ごすだけの日々を送っていたのだ。
だが、ある時、彼女は遂に勇気を振り絞って、「はい」以外の言葉を吐いてみる事にした。
何日かの試行錯誤の果てに、
「姉上は、今どうしてますか?」
ようやく口に出来たのは、そんな言葉だった。
いや、もっと他に言うべき事はあった。
あの夜はごめんなさいとか、貴方の事が好きですとか。
何度も言おうとして、遂に言えなかった。だから口にする言葉自体を変えてみたのだが、我ながら愚問だとエレナは思わずにいられなかった。姉のかつての婚約者に、姉の近況を聞いてどうするというのか。自分を裏切った女の事など、思い出したくもないはずだろうに。
「アンナか。そうだな。風の便りによれば、まあ幸せに暮らしているそうな。ハルンの奴は、王の覚えもめでたく、商売にも成功してそれなりに羽振りがいいらしい」
だが、バーブルはそれほどの躊躇もなく淡々と答えてくれた。
彼にしてみると、「元気か?」「はい」の定型文以外の会話が成立した事自体が嬉しく、内容などどうでもよかったのだ。アンナの事だろうが、ハルンの事だろうが、今の彼は快く語る事が出来た。
「そうですか。では、父上や母上は……」
エレナの口から、母はともかく父の事が飛び出した事に、バーブルはいささか驚きを禁じ得なかった。彼女にとって父はトラウマでしかなく、触れたくもないし、触れられたくもない忌むべき存在のはずなのだ。にもかかわらず、まさか彼女の方から父の事を口にするとは……。
「父君は……、一応は無事だよ。ただ施設に入ってもらったがね。あの腐った性根を叩き直してからじゃないと、さすがに娑婆に出すわけにはいかないし、そもそも右手がないんじゃ、娑婆で暮らす事自体が生き地獄だろう。ま、後五十年は施設暮らしは避けられんさ」
「五十年って」
無表情が板についていたエレナの顔の上に、微笑が浮かんだ。
クスクスと噛み殺したように笑う彼女は、麗しい見た目も相まって、天使や女神のように見えた。
「会いたいか?」
あえて問うてみると、
「いえ」
エレナはきっぱりと答え、
「絶対に会いたくありません」
食い気味に続けた。
「そりゃそうだな」
バーブルは苦笑しつつ首肯する。
「母君の方は、不具の旦那に愛想を尽かして、離縁し、今はハルンとアンナの下に身を寄せているそうな」
「姉の下に」
「会いたいか?」
「いえ、別に」
エレナはいつになく素直だった。
この日のエレナは、饒舌だった。そしてバーブルは聞き上手だった。
二人は積年の思いを吐き散らすように、あるいは幼い頃に立ち還ったように、とりとめのない会話に明け暮れた。話の中身に内容があったかどうかは重要ではない。話をした事、それ自体が重要だった。結局、エレナとの会話に夢中になり過ぎたバーブルは、その日予定していた仕事のほとんどをドタキャンする羽目に陥ったが、彼女と腹を割って騙り合えた事と比べれば些事に過ぎなかった。
この日を境に、二人の仲は急速に縮まっていく事になる。
とはいえ、まずは友達に戻るところからではあったが……。




