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 バーブルにはやるべき事が多い。

 彼の判断を待つ政治は、少し油断すると机の上に山と積まれる有様だ。文書に目を通し、問題が無ければ署名し、問題があればそれを指摘したうえで差し戻す。領民や役人が陳情や報告に訪れれば、例え忙しくとも無下にはせず、いちいち応対して、その場で判断を下す。気になる事があれば、直接現地現場に赴き、自らの目と耳で確認する事を厭わない。

 サクラカンド王国広しといえども、これほど仕事熱心な領主は少ないだろう。そもそもたいていの領主は、政治など家臣に任せきり、自らは王都に身を置いて宮廷内の出世競争に明け暮れている。彼らにとって領地とは、単に政治資金を捻出してくれる金づるでしかない。然るに彼は、王都から離れ、中央の政治など知った事ではないと言わんばかりに領地に根付き、その代償として統治に勤しんでいるのだ。

「あのお方はただの引き籠りだよ」

「都が怖いのさ。なんたってあそこには別れた奥さんが、弟と暮らしているんだからね」

 口さがない人々は、面白おかしく噂しあったものである。

 何にしても、領地に引き籠っている彼がここまで仕事に入れ込むのは、まず根が真面目という事が挙げられる。そして仕事に入れ込んでいればそれ以外の余計な事に心惑わされずに済むという事もあった。

 しかし彼は仕事ばかりしているわけではない。

 暇を見つけては鍛錬に勤しみ、騎士戦士としての本分に立ち還る。

 また城下に出向き、民と直接触れ合う事も忘れてはいなかった。

 彼が良く足を運ぶのは、酒場であり、あるいは賭場のような、およそ領主貴族たる者が決して足を踏み入れないような、庶民の憩いの場であった。酒場はともかく、賭場はそもそも王国の法によって規制又は禁止されているのだが、禁止したところで水面下に潜って見えなくなるだけで、決してなくなるわけではない。むしろ当局が実態を把握しづらくなって、諸悪の温床根源となりかねないという考えの下、バーブルは賭場の存在を黙認し、そこで行われるあらゆる賭け事を見逃す代わりに、胴元に対して得られた収益の一割を納める事を義務付けたのだ。

 それはともかく、バーブルは賭場を黙認するだけでなく直接足を運んで、自らそれに興じた。最初のうち、民衆は警戒し、その真意を疑ったが、暇を見つけては何度も賭場にやってきて熱心に賭け事に興じる彼を見ているうちに次第に考え方を改め、仲間として受け入れていくようになった。

 仕事に遊びに、とにかく熱心な彼は、寝ている暇があるのかと疑いたくなるほどに連日多忙を極めていた。そんな彼が、この日に限って、まだ日付も変わらないうちに行きつけの酒場から足を洗って、城に戻ってきたのは、ディアナの“言いつけ”があったからに他ならない。

「早速、今宵は床を整えておきましょう。必ずお渡りいただきますように」

 彼女は有無を言わせぬ迫力でそんな事を言った。

 エレナとの関係に悩んでいる彼としては、従わぬわけにはいかなかったし、そもそも城内の奥向きの事の一切を取り仕切っている“裏ボス”的存在の彼女の意向は、いかな城主たる彼といえども無下には出来なかったという事もある。



 ――お渡り。

 領主や貴族などの貴人が、妻、もしくは囲っている愛人の下に赴く事を指す。

 あえて言うまでもないが、ただ会いに行くだけではない。無論、結果的にそれだけで終わってしまう例もないわけではないが、基本的には男女の本分に立ち還って直接睦み合う事が“お渡り”の主目的であった。

 だからこそ迎える側の女は身ぎれいにし、部屋を整え、雰囲気の醸成に努める。お渡りは彼女達にとってまたとない機会だった。当主の手がついて、子宝に恵まれなければ、彼女達に存在意義はないからである。子宝に恵まれ、それが男子で、世継ぎにでもなれば、バラ色の未来が待っている。世継ぎになれずとも産んだ息子が分家の当主にでもなってくれれば、夫の死後も生活に不自由する事はない。そもそもお渡り自体がなければ話にもならないので、日ごろから肌の手入れや化粧などは怠らず、床上手の噂を流したりと涙ぐましい努力が重ねられる。

 バーブル・フェルトのお渡りは、そこまで仰々しいものではなく、迎えるエレナもそこまで気負っているわけではなかった。とはいえ、ディアナのお膳立てもあって、今の彼女はそれなりにおめかしして、肌の露出が多めで色気を引き立たせる寝間着に身を包み、部屋全体に香を焚くなど、準備は万端整っていた。

 だからバーブルは、部屋の中に入るなり、驚くというより呆気にとられた。

 そこにいたのは、普段のエレナからは想像もつかない、絵に描いたような深窓の美姫だったからである。

 そもそもエレナは、あのアンナの妹だけあって素材は良いのだ。色白で瑞々しい肌に、鮮やかで透き通るような金髪碧眼、お人形の如く整った顔立ちは、見る者を一瞬で虜にする圧倒的な魅力があった。髪を結い、化粧をして、身なりを整え、それらしく振舞っていれば、まず絶世の美少女と評し得る。

「あ、アン……」

 アンナと言いそうになって、バーブルは慌てて口を噤んだ。

 その言い間違いは、この場にいる誰にとっても得がない。誰に対しても失礼だった。

「エレナか。……きれいだ」

 どう言うべきか、

 何を言うべきか、

 あれこれ考えた末に口の端から飛び出したのは、捻りも何もない、ありきたりな本心だった。

「あ、うん」

 返す言葉に困ったのは、エレナも同様だった。

「ありがとう」

 気恥ずかしそうに頭を掻きながら、そう答えるにとどめる。

 彼女にしても、言いたい事、言わねばならない事は山ほどあった。しかし、いざ口にしようとすると、恥ずかしさだったり、不安などが先に立って、何も言えなくなってしまうのである。有難うというありきたりな言葉でも、今の彼女に出来る精一杯だった。

「そっちに行ってもいいか?」

 天蓋付きのベッドの上に所在無げに腰を下ろしているエレナに向かって、バーブルは改まったように咳払いなど間に挟みながら、努めて淡々と問うてみた。

「え、ええ」

 彼女の反応は表向き何処までも素っ気ない。

 バーブルは構わず歩み寄ってきて、エレナの隣にちょこんと腰を下ろした。

「……あの」

 こういう時、どういう態度を取ればよいのか、二人は共に知らなかった。

 というより、知っていてもそれを実行に移すだけの経験値が不足していたのだ。

「なんだか、こうやって二人きりになるのは、随分と久しぶりだな」

 我ながら愚言だと思う。しかし互いに無言のまま、気まずい空気の中に身を置いているよりは遥かにマシで、それを避ける為にもとにかく何か喋らねばと焦るバーブルは、間違いなく冷静さが欠けていた。

「いや、実際こんな感じになるのは初めてだな。お節介な奴らのおかげで、随分と妙な事になったものだ」

 雰囲気に満ちた空間に、年頃の男女が二人きり。

 ならばやる事は一つしかないと言わんばかりに、部屋のあちこちにその為(・・・)の品がそれとなく並んでいる。焚かれている香もそうだし、大人の男女が睦み合うには適度なサイズのベッド、その上には御丁寧に枕が二つ置かれていたり、窓には戸がしてあって、テーブルの上にはワインがいつでも飲める状態になっているなど、二人をそういう方向に持っていこうとする仕掛けが満ち満ちていた。

 挙句が、おめかししたうえで、肌の露出の多い恰好をしたエレナだ。

 バーブルとて男である以上、ここまで用意されて何も思わぬはずはない。むしろ据え膳喰わぬは男の恥とばかり、雰囲気に煽られて首を擡げてきた本能の赴くまま、気づけば彼は身体を彼女に肉薄させ、右腕を彼女の背中に回り込ませて、勢い任せに抱き寄せるような体勢を作っていた。

 だが、

 彼の手が彼女の体に触れた時、

「きゃっ!」

 悲鳴が上がり、

 彼女の両手が反射的に彼を跳ね飛ばしていた。

 その目は恐怖に震え、

 その体は呆然と固まり、

 その心は困惑に動じていた。

 思えば、彼女は実の父によって散々に弄ばれてきたのだ。いかに雰囲気を整えたからとて、こういう事(・・・・・)をやろうとすれば、嫌な記憶がフラッシュバックしてしまうのは無理からぬ事だった。

「す、すまん」

 彼女の気持ちが分かるだけに、バーブルは素直に謝するしかなかった。そして、彼女の気持ちも考えず、事を急いた己の短慮に自嘲する。

「ごめんなさい」

 エレナはエレナで、こんなはずじゃないと言いたげな顔をしている。咄嗟にとった防御反応は、彼女にとっても想定外だったのだろう。

 その日、バーブルとエレナは寝台を共にした。

 隣同士で眠ったのだ。

 しかしそれだけの事で、他に特筆すべき事は何もなかった。


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