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「奥方様があれこれ物思いに耽ってしまうのは、端的に言えばやる事がないからです」
ディアナを含むサルード城の人々は、エレナの事を“奥方様”と呼んでいる。
傍から見ればそうとしか見えないのだろうが、バーブルとエレナは結婚しているわけではないし、婚約しているわけでもない。二人の公的な関係は義理の兄妹という事になっているし、彼ら自身、城の人々にはそのように説明していたが、それを頭から鵜呑みにしている者などいない。
「だから余計な事を考えないでもいいように、奥方様が熱中できる事を見つけて差し上げればよいんですよ」
簡単に言ってくれるものだとバーブルは思った。その熱中できる事が何なのか、それが分かれば苦労はしない。幼い頃は料理が好きだったが、十年以上の歳月を経て趣向も変化したのか、あるいは地獄のような日々の中で価値観が変わった為か、いずれにせよそれとなく料理などしてみるよう勧めてみても、気乗りしないような反応しか示さなかった。
「そこは、殿様が頑張ってその気にさせるんですよ」
「……」
それが難しいのだと言いたげにバーブルはディアナを睨みつけたが、ディアナは意に介した様子もない。
「優しい言葉をかけて、そっと抱き締めて御上げなさい。今の奥方様ならイチコロでしょう」
言い方! と突っ込みを入れたくなるほどあっけらかんとしたディアナの言葉だった。
「私が見たところ、あのお方は愛される事に飢えています。殿様が愛を囁き、定期的に注ぎ続ければ、近いうちに必ず凍り付いてしまった奥方様の心も融けるでしょう」
「……そんなものかねえ」
「女なんて、そんなものですよ。何にしても、こんなところでウダウダしているより、やってみる事が肝要かと。失敗したなら、その時また次の手を考えればいいじゃないですか。最初の一歩を踏み出さない事には何も始まらないものですよ」
尤もだとバーブルは思った。
何事も、最初の一歩から始まる。逆に言えば、最初の一歩が無ければ何事も始まらない。頭の中であれこれと思い描いているだけでは意味がないのだ。
「善は急げと申します。早速、今宵は床を整えておきましょう。必ずお渡りいただきますように」
「お、おい」
「必ずですよ」
有無を言わせぬディアナの迫力を前にして、バーブルは返す言葉もなく黙り込むしかなかった。長年サルード城に勤め、歴代の城主に仕えてきた彼女は、こと主筋関係の色恋沙汰や夫婦の問題に関して経験が豊富であり、そちらの方面では初心もいいところのバーブルでは相手にもならないのだ。
隣でザルがクスクスと笑っている。バーブルは負け惜しみするかのように、「黙ってろ!」と吐き捨てると、全てから逃げ出すように部屋の外に飛び出していった。
人は彼女の事を奥方様と呼ぶ。
しかし陰では“窓辺の君”と呼んでいた。
日がな一日、窓辺に身を寄せて、何をするでもなく、ぼんやりと外を見つめているからである。実家に囚われていた頃と何一つ変わらない。三つ子の魂百までという言葉もあるが、長年の生活で染みついた習慣はそう簡単には変えられないものなのかもしれない。
エレナは自由を持て余していた。
自由にしていいと言われても、具体的に何をしたらいいのか分からないのだ。
この城に来た最初の頃は、女官達に連れられて城内を歩き回ってみたり、城の外に出た事もないではない。見るもの聞くもの全てが目新しく、新鮮な驚きに満ちていた。だが新鮮さが薄れ、驚きもなくなっていくと、自然と足が遠のいた。あえて重い腰を奮い立たせてまで外に出ていく理由がなくなってしまったのだ。彼女にとって外に出るという事は、なかなかに勇気が必要な事だった。周りが自分の事をどう思い、何を噂しているのかが過剰に気になったからである。
この周りの目、というのが昔から彼女を苦しめる。
自分は悪魔憑き。そう呼ばれて育った彼女は、基本的に周りは自分の事をバカにしていると思っていた。ずっと家に引き籠って、外に出る事も出来ない自分を、人は蔑んでいると思っていた。
あの頃と今では、自分の立場は大いに代わり、そもそも土地も全く異なる。
自分が悪魔憑きであると知っている者はいないし、引きこもりの過去を知る者も、バーブルやその譜代の配下に限られる。少なくとも街の人は知らないはずである。
そうとわかっていても、
それでもやはり周りの目は怖かった。
何より外には目が多すぎた。
どの目も、
「悪魔憑きめ!」
「呪われた女だ」
「近寄らないで」
「父を惑わした魔性の女だ」
「忌わしい魔女だ!」
そう言っているように見えたのだ。
被害妄想だと分かっている。
自意識過剰だと分かっている。
それでも気になるものは気になるし、だから彼女は、外に行きたくなかった。
窓辺でぼんやりと外の光景を見ているぐらいが性に合っているし、分相応なのだ。そう思っていた。
引き籠りの先祖返りしてしまった事に、忸怩たる思いがないでもない。せっかくバーブルが助け出してくれたのに、それを無下にしている気がして、居た堪れないのだ。そのバーブルは、それとなく気にしてくれているようで、時に自分の下にやってきて、悩みはないか、辛い事はないかと聞いてくる。
「困った事があったら何でも言ってくれ」
「俺を頼れ」
「お前は好きな事をしていいんだ。料理なんかどうだ。好きだっただろう。好きな事に没頭していれば、少しは気が紛れるぞ」
そう言って貰えるのは非常に有難いし、頼もしいし、何よりも嬉しい。
だが、彼にこれ以上の心配や負担をかけてしまうと思うと、どうしても本心を打ち明ける事は躊躇われてしまう。強がろうとして、彼に何を言われても、勧められても、「大丈夫です」と素っ気なく答えてしまう自分が彼女は大嫌いだった。
そんなエレナの前で、最近あれこれと世話してくれるディアナが、せっせと何かの準備を進めている。
ベッドを整え、香を焚き、衣装を用意し、部屋中を隅々まで掃除している。
「何をしているの?」
不思議そうな顔をして尋ねてみると、
「いつ殿様のお渡りがあっても良いように、準備を進めているのですよ」
ディアナはあっけらかんと、そう答えた。
一瞬、彼女が何を言っているのか、エレナには分からなかった。
だがずっと分からないほど、彼女も無知ではないし、鈍でもなかった。
「お、お渡りって。……私とバーブル様はなんでもないのに。それにバーブル様は……、こんな私の事なんか、とっくに愛想を尽かしているに決まっているわ」
顔を真っ赤にしながら、被害妄想全開な彼女に、ディアナは冷ややかな視線を向けている。
「そうですか。しかし準備をしておいても無駄にはなりませんでしょう。それとも、殿様にお渡りいただくのは、嫌なのですか?」
「そ、そうじゃないわ。べ、別に嫌なんかじゃ……。でも」
バーブルがやってくる事自体を、嫌だとは思わない。
むしろ嬉しい。あわよくば、彼とそういう深い関係になってみたいと思っている。
だが一方で、自分とバーブルは絶対に釣り合わないとも思っているのだ。かたや英雄で、かたや悪魔憑き。実の父親に散々穢された身である。バーブルにはもっと良い女性を妻として迎える権利がある。むしろそうすべきなのだ。自分みたいな面倒で、薄汚く、呪われた女なんかでは絶対に釣り合わない。
「フフ、周りがどう思うかなんて、そんなに重要ですかね。大事なのは貴女様や殿様がどう考えるかでしょう。王都ならいざ知らず、この地でお二人の意向に異を唱える者なんていませんよ」
「……」
「それでも周りが気になるなら、逆に開き直って周りを驚かせてやりましょう。周りの人間も、ひとたび驚いてしまえば少なくともそれ以下の出来事には何の関心も興味も示さなくなるものです。殿様と奥方様が一晩を共に過ごされた事が知れ渡れば、驚きが高じて余計な雑音も消え去るはずですよ」
ひとしきり言い終えたディアナの前で、エレナはあれこれと考え込むような仕草を作った。確かにそうかもしれないと思う一方で、何か違う、良いように言い包められたような気がしないでもない。何にしてもディアナの有無を言わさぬ勢いと迫力に呑みこまれてしまった事は事実で、結局エレナは、淡々と準備を続ける彼女に何も言う事は出来なかった。




