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結論から言えば、戦いは生じなかった。
ハスラード、サクラカンドの両軍共に、大軍を繰り出して実力を誇示してみたものの、その先に進む度胸がなかったのだ。もしひとたび戦端を開けば、それはもはや一大会戦であり、これまでの小競り合いとは規模も性質も全く異なるものとなる。両国の全面衝突の呼び水ともなりかねず、そのような大事を現場司令官レベルで判断できるわけもなく、よく言えば自重したというわけである。
とはいえ、今にも始まる戦いに高揚感を膨らませていた兵士達にとっては、いささか拍子抜けの結末ではあった。大戦は、手柄を立てるまたとない機会である。これまでは、愚にもつかぬ小競り合いばかりで、戦いこそ多くとも、手柄を立てる機会はほとんどなかった。だからこそ、万の大軍が睨み合った今回は、手柄を立てるまたとない機会と勢い勇んで戦場に出向いたのに、結果的には両軍が数時間睨みあっただけで、特に何かをするでもなく、両軍の上層部で話し合いがついて撤退する事になってしまった。話し合いの結果、紛争の引き金となったサクラカンドによる水供給停止措置は解除され、引き続き水は安定的にハスラード側にも供給される事になって、万事丸く収まったと言うが、サクラカンド側の兵にとってはどうでもよい事だった。
「こいつらは本当の戦と言うものを知らんのだ」
不満タラタラの若手兵に対して、熟練の古参兵は呆れたように嘆息している。
今でこそサクラカンドは平和を謳歌しているが、その平和もずっと続いてきたわけではない。周辺の小国との紛争は未だ絶えず続いている。何より当代の国王オスカル四世の即位強行によって引き起こされた“サクラカンド継承戦争”は、まさしく国を二分する凄絶壮絶な内戦となり、平和に馴れた国民に乱世のおぞましさ、醜さ、儚さをこれ以上ない形で見せつけたのである。この内戦では、友人同士、身内同士で殺し合う例も少なくなく、あるいは故郷の町や村を焼き払わねばならなかった兵も多かったという。結果としてはオスカル王に挑んだシリル王子が敗れる形で内戦は終結し、以来二十年に渡ってサクラカンドは不動の平和を保ってきたが、その間に戦争を知らぬ世代も増え、結果として戦争を求める者が増えてきたのは、全く皮肉と言う他はなかった。
一触即発と思われた戦が、激突の寸前で回避された事で、バーブル・フェルトは本来の使命に立ち還る事が出来た。現地の視察である。
サクラカンドのエスティリア準州太守たるティメット伯爵と、現地軍を率いるアゼマ将軍の案内で各所を検分し、あるいは伯爵や将軍から今後の方針等を聞いたりしていたのだが、検分作業も佳境に差し掛かり始めた頃、異変が生じた。一行に随従していた兵の一人が、突如短剣を抜き出して、一心不乱にバーブルらに襲い掛かってきたのである。
「なっ!」
誰もが驚きと困惑の余り、というより何が生じたのかすら理解出来ずに身動き一つとれないでいる中、バーブルだけは瞬時に異変を察知し、素早い身のこなしで凶刃を回避しつつ返す刀で凶刃そのものを叩き落とすと、直ちに逆撃に転じて、素手のまま刺客の身柄を取り押さえてしまった。傍目には何が起きたのか容易に視認できないほどの早わざで、まさに凄腕と評するに値するバーブルに誰もが呆気にとられたが、一方でこうも思ったものである。刺客が最初に狙ったのがバーブルでよかったと。他の人間――例えばティメット伯やアゼマ将軍――が狙われていた場合、回避も防御も敵わずまんまと殺されていたに違いないのだ。
「さすが栄えある紅の騎士は違うものだ」
称賛の声は絶えなかったが、バーブルは素直に喜ぶ気にもなれなかった。
刺客の動機が気になったという事もある。
一触即発の緊急事態が回避されたばかりの、このタイミングでサクラカンド軍の指導部が狙われたからには、何かしら深刻な事情や理由があるはずで、仮にもし黒幕がいるとすれば、二の矢三の矢があってもおかしくない。バーブルは警戒を怠らなかったが、幸いな事に、危惧された事態が生じる事はなかった。調査の結果、下手人はハスラード人であるらしい事はわかったが、なぜ指導部を狙ったのか、黒幕の有無など、詳細な事は遂に聞き出す事が叶わなかった。何しろその日のうちに男は獄中で殺されてしまい、聞き出したくとも不可能な状況に陥ってしまったからである。
ハスラード人である事といい、肝心な事を聞き出す前に口封じの如く殺されてしまった事といい、黒幕や陰謀の存在を示唆する状況証拠は多かったが、確証を欠く事から、深く追及する事のないまま幕引きとなった。そこにも作為的な何かを感じるが、あれこれ詮索し出せばキリがないし、そもそも危惧された二の矢三の矢が遂になかった事から、バーブルも遂に考える事を諦めてしまったのだ。どうせすぐこの地を離れるのだし、面倒事に関わり合って足止めを食らいたくなかったという事もある。この時期、バーブルの頭の中には長年の片思いの果てに婚約を果たした女の事しかなく、それ以外の事はどうでもいいと言うのが偽らざる本音だったのだ。
バーブルが王都エンリルに帰還したのは、六月に入って間もない頃の事である。
ハルン以下数名の騎士を従えて一直線に王宮に赴いた彼は、宰相府にて報告を終えるなり、とるものもとりあえず自宅に向かった。
騎士と言えば、サクラカンド王国における下級貴族の代表的称号の一つで、その多くは平民と大差ない暮らしをしているが、騎士は騎士でも王直属の騎士たるバーブルが暮らす居宅は王宮に程近い王都の一等地にある。そこは上級爵位持ちの大貴族が御屋敷を構えるような場所であり、実際宮殿と見紛うような大豪邸が所狭しと軒を連ねているが、さすがにそれらと比べると、彼の家は規模・質ともに大きく劣った。しかし、彼と彼の弟と、彼の婚約者の三人が暮らしを営むだけならば十分すぎる大きさであり、数名の使用人が出入りする事を考慮しても狭いという事はなかった。
この家は、王直属の紅の騎士に与えられる、いわば社宅である。
彼がこれを与えられた時、住人は使用人を除けば、彼と、弟のハルンだけだった。
間もなく、バーブルが一生分の勇気を振り絞って告白に打って出た結果、婚約者たる女性が加わった。彼女の名はアンナ・ヘイワードと言う。
バーブルとアンナは、幼い頃からの知己である。元々バーブルの生家は王都の下町にあり、立身出世を果たして紅の騎士に叙任されるまではそこで暮らしていた。そして下町の実家の隣に、ヘイワード家も暮らしていたのである。要するに隣人であり、その縁から二人は互いが幼い頃から見知っていて、いわば兄妹の如き関係を何年も続けてきた。バーブルも物心ついて性を意識する年頃になるまでは、彼女の事は妹か、あるいは気の合う友達ぐらいにしか思っていなかった。
アンナを異性と認識し、それに伴って恋心が生じてから、告白して婚約し、同棲するに至るまでには、ざっと十年の月日が必要だった。バーブルは戦場において敵とやり合っている時は果断即行を極め、誰に対しても一瞬の隙すら与えないが、それ以外の局面では何をするにも慎重で、とりわけ私的な事に関しては臆病ですらあったから、告白しようと思っても、失敗の危険性を考慮し過ぎて最後の一歩を踏み出す事が出来なかったのだ。ハルンに背中を蹴飛ばされなければ、今もうじうじと悩み、迷い、逡巡の迷宮の只中で困り果てていた事だろう。一事が万事で、彼の恋路を語るうえで、ハルンの貢献は計り知れない。
ハルンは、善意の第三者として、昔から二人の仲を取り持ってきた。必要に応じて二人の悩みを聞き、助言をし、時に突き離したり、蹴飛ばす事も辞さなかった。
彼は優柔不断な傾向にある兄と異なり、短気かつ直情径行な性格で、あれこれ思い悩み、逡巡する事が嫌いだった。だから兄やアンナが悩みに悩んでいると、口を出したくなるし、蹴飛ばしてやりたくもなるのである。兄に対しては遠慮容赦なく説教したり、適宜蹴飛ばしたりする傍ら、アンナに対しては専ら悩みの聞き役に徹し、あえて何かを強いると言う事はなかった。何にせよ、二人の関係を取り持つうちに、彼もまた二人との関係が深くなっていき、とりわけアンナとは兄とは異なる形で親密な関係を築いていった。紅の騎士として多忙を極める兄よりも、彼の方がアンナと接している時間は多く、
「まるでハルン様がアンナ嬢の旦那様みたいですわね」
フェルト家に出入りしている使用人達は口々に噂しあったが、幸か不幸か、それがバーブル・フェルトの耳に入る事はなかった。




