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 サルード荘は、サクラカンド王国の東端に位置している。

 一面に海を臨み、それに通じるように流れる川と、その周りに生い茂る手つかずの樹海など、様々な自然に満ち溢れた場所である。

 よく言えば、風光明媚を絵に描いたような土地。

 裏を返せば、未開の大地である。

 海沿いには幾つかの漁村があり、川沿いには農村などの集落があるものの、都市と言えるほどの人口集積地はない。地域の中心となっているのはサルードの町だが、これとても農村集落に毛が生えたような宿場町であって、定住人口は五百人に満たない。市が立つ時は、倍以上の人が集まるが、そんなものは月に二度あればいい方で、基本は寂れた田舎町に過ぎなかった。

 そんな土地に、新たな領主となったバーブル・フェルト男爵が一千騎の手勢を従えてやってきたのである。人々は当然のように驚き、次いで恐怖した。たいてい、軍隊がやってきて駐留する場合、ろくな事にならないからだ。略奪、婦女暴行、喧嘩に殺人……。かつて朝廷軍がやってきた時もそうだった。正規軍だから安全安心だと思ったら大間違い。彼らは年貢徴収の名目で民家に押し入り、財産を奪い取り、妻や娘がいれば容赦なく犯して回った。少しでも抵抗すれば、謀叛の汚名を着せてその場で斬殺、あるいは捕らえて地下牢に閉じ込めるのだ。牢に入れられた者の最期は哀れだった。軍隊が帰還する際に、後腐れが無いように悉く首を斬られ、胴体を欠いた首は朽ち果てるまで海岸に晒されたのだ……。

 サルードの民は――彼らに限らないが――、軍隊という存在に良い印象を抱いていない。

 そこにバーブル軍が群れを成してやってきたのだから、彼らが恐怖に駆られたのも無理からぬ事だった。

 しかし、彼らが予期した最悪の事態は、結果として生じる事はなかった。

 バーブル軍は軍規が厳正で、略奪や暴行を働くどころか、逆に民からの自発的な献金すら断固として受け取らず、民に不用意に近づく事も避けたからである。それどころか持ってきた物資を“手土産”と称して民衆に分け与えだす始末。いずれにせよ不可抗力から民に危害を加えざるを得なくなった兵が軍規に基づいて公開処刑とされると、民衆はバーブル軍に対する印象を改めてみる事にした。



 サルードの地に足を踏み入れたバーブルは、その足でサルード城に入城した。彼らが真っ先に行ったのは、現地の役人を集め、彼らの手も借りて、ここまでの道中で買い込んだ物資の多くを民衆に分配する事だった。

 物資の分配には、二つの意味があった。

 一つは余所者である自分達を受け入れてもらう為の、手土産。

 一つは、自分達は略奪者ではないという事を端的に誇示する為のパフォーマンス。

 これらの物資を調達するにあたっては、先のエルミラの戦いの恩賞として朝廷より与えられたタレント金貨一千枚が重要な役割を果たしている。ちなみにタレント金貨一枚はミナ銀貨一千枚に、ミナ銀貨一枚はドラクマ銅貨二百枚に相当し、ドラクマ銅貨は五枚ほどで大の大人の一日分の生活費に匹敵すると言われていた。よってタレント金貨が一千枚もあれば、これ程度の大盤振る舞いも平然と行えたというわけである。また、王都の商人の中には英雄たるバーブルの将来性を認めて融資したがる者も少なくなく、実際幾らか借り入れてもいたので、バーブルの資金力は極めて潤沢だった。そうした財政的な豊かさも、バーブル軍の厳正さを支えていたと言って良い。

 とはいえ、自分に随従してきた一千の兵をいつまでも遊ばせておくわけにはいかない。

 サルード城に入ったバーブルが、大盤振る舞いの次に行った事は、配下の軍団の再編成であった。一部は城の守備兵及び自分やエレナの衛兵として残し、残りは屯田兵として荒野の開拓に回す事にしたのだ。幸い、この地域には人の手が入っていない土地が数多あり、水が豊富な事と、温暖な気候も相まって開発次第で豊かになり得るだろう。少なくともバーブルはそう思っていたのだが、

「領主様、この辺りは塩害が酷くて、作物を育てると言っても大変なのですよ」

 土地の事に精通している民は、バーブルが披露した屯田計画を聞いた時に、口を揃えてそんな事を言った。

「塩害か」

 確かにこの地域は海がすぐ近くにあるから、そういう事もあるのだろう。

 バーブルはそういった事に詳しいわけではないのだが、紅の騎士時代に各地を巡察視察して回り、そのたびに説明を受けてきたから、全く無知というわけでもなかった。

 無論、海から離れた地域は塩害とも無縁で、その証拠に森も広がっている。サルード領の農業はその地域のみで行われており、潮風の影響を受ける土地は事実上放置されて、まさしく不毛の状態と化しているのだという。

「なるほどねえ。まずはその問題を解決しない事には、真の発展は見込めそうにないって事だな」

 独り言ちながら、バーブルは腕を組んで、あれこれ考えてみる事にした。

 まあ、少し考えた程度でどうにかなるほど簡単な問題でもなかったのだが……。



 バーブルは多忙だった。

 政務に鍛錬に、遊びに、

 やりたい事、やらねばならぬ事が山とあった。

 いっそ忙しい方が、嫌な事の一切を忘れられてよかったという事もあった。アンナの事、ヘイワード家の事、エレナの事……。多忙は、彼にとって傷ついた心を癒しうる数少ない薬だったのかもしれない。

 しかし、薬が必要なのは、何もバーブルだけに限った事ではない。

 むしろ、真に薬を必要としていたのは、彼ではなく、彼女の方であったかもしれない。

 その彼女――エレナには現実から目を背けられるような便利なツールがなかった。確かに見ず知らずの新天地で今まで得たくても得られなかった自由な日常を謳歌する事で、多少なりと心の傷を誤魔化す事が出来たかもしれない。しかし新鮮さや感動なんてものは有効期限が短く、ひとしきり味わいきってしまうと、効力が失われてしまうものである。

 余裕があって、自由過ぎるのもよくなかった。

 おかげで余計な事を考える余裕が生じてしまい、結果としてエレナは事あるごとに心の傷に苛まれる破目になった。辛かった日々を思い出して人知れず啜り泣き、誰に対しても心を閉ざしたように笑顔の一つも見せない彼女を見聞きするたびに、バーブルはどう接すべきか困って、弱りぬいてしまった。だが無視するわけにも無下にするわけにもいかない。エレナがあんな悲惨な境遇に追い込まれた責任の一端は自分にもあると思うからである。

 かつてのバーブルは、現実に流されて、エレナの事を意図的に無視してきた。気にしている振りをして、その実、何もせずに放置してきた。エレナが“悪魔憑き”となって家に引き籠るようになった時、無理やりにでも助けに入っていれば、少なくとも事態が深刻化する事は避けられただろう。せめて紅の騎士になって優越的地位を得た時に、その立場を使って助け出していれば、被害の拡大ぐらいは抑え込めていたに違いない。

 だからこそ、今度こそ彼女に背を向けまいと彼は思っている。

 しかし、ではどうやって接すればよいのかという話になると、バーブルにはいささか人生経験が欠けていた。その点で言えば、普段は相談役として頼りにしているザール・ザルも何の役にも立たなかった。

「好きな事をやらせてみては如何でしょう」

 困り果てていた彼に対し、おもむろにそんな事を言ったのは、エレナの世話役を務めている女官のディアナ・ファレルという中年女であった。


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