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「――これはどういう事かな」
バーブルの冷え切った視線が、扉の外側で蹲っているシオン・ヘイワードの全身を貫いた。その傍らで、ザール・ザルが自ら羽織っていた上着を床の上に寝転がっている少女にかぶせ、馴れた手つきで手枷足枷を外している。
「大丈夫か?」
そのエレナに、彼はいつになく優しげな声をかけた。エレナは声にもならぬか細い声で、「ええ」とだけ答えた。それを確認してから、バーブルは再びシオンに視線を戻す。
「改めて聞こう。これはどういう事だ。貴様は実の娘を奴隷の如く扱っているのか?」
「……い、いえ」
「違うのか。ならばこの光景を説明してみろ。納得できるものなら引き下がるが、そうでないならば、容赦せぬ。王の手に突き出すか、あるいはこの場で手討ちにしてやるぞ」
ちなみに王の手というのは、王都を守る警察機構の事である。
ともあれ、娘を幽閉し、あまつさえ娘を犯していたとなると、王国法に照らすまでもなくシオンの罪は万死に値する。王の手に引き渡せば、即決裁判でギロチンに架けられても文句は言えない。ただ、それをやってしまうと事が大きくなりすぎる恐れがあった。何しろ、事が事である。父が娘を犯していたなど、世間体としては最悪を通り越している。ヘイワード家の世間体など、正直言ってどうでもよいのだが、エレナの事を考えるとそういうわけにもいかない。これまで散々苦しい目に遭ってきたのに、それに追い討ちをかけるような事になりかねない。今はとにかくエレナの事を第一に考えるべきであった。
エレナの方をちらりと見やると、彼女は何が起きているのか事情を把握しかねたように目を丸くして、ただ茫然と困惑していた。
「お、お許しを」
シオンは恥も外聞もなく、命乞いに徹している。
だがバーブルは意にも介さず、エレナに視線を向け続けていた。
「エレナ」
そんな彼は優しく語りかける。
「今のお前に聞くのは酷かもしれないが、あえて聞く。お前はどうしたい?」
「……わ、私?」
久しぶりに声を出すのだろうか。
声はかすれ、小さく、何より苦しそうである。
彼女の声帯はすっかり埃を被ってしまって、動かし方を思い出すのにいささかの時間を要しそうであった。そんなになるまで、たった一人でこの部屋に閉じ込められていたのかと思うと、とにかく可哀想で、それを強いていた男達に対する怒りや憎しみが急激に増していった。
「ああ、お前に決めさせてやる。王の手に突き出すもよし。この場で手討ちにしてもよし。あるいはこの男が求めるように許してやってもいい」
「え……あ……」
声にならないというのもあるだろうが、それ以前に迷いや困惑が先に立って、何を言えばいいのか分からなくなっているという事もあるのだろう。
バーブルが目配せすると、ザルが腰に佩びていた剣を抜いて、その刃筋をシオンの首筋に押し当てた。深紅にも似た血が一筋流れ落ちる。シオンは痛みと恐怖で顔を歪ませた。
「え、エレナ……」
醜く歪んだ声で、その男は娘の名を呼ぶ。
「な、何とか言ってくれ。ち、父が殺されそうになっているのだぞ」
今更のような父親面。
反吐が出るとはまさにこの事だとバーブルは思った。
もし剣を握っているのがザルではなく自分だったら、今の瞬間にこの男の首を斬り落としていたかもしれない、とも思った。
「お願いだ」
娘に懇願する父。
構図が逆であれば、絵画にして額縁付きで飾っておきたいほど高尚な光景だろう。だが、現実は違う。娘を娘とも思わずに虐待を続けてきたおぞましい父が、この期に及んで娘に命乞いしている図なのだ。しかし、いかに醜悪な構図であっても娘にはそれなりに響いたらしい。娘にとっては、どれほどおぞましい存在であっても父は父という事もあるのだろう。
「こ、殺さないで」
くださいと、声にならぬ声で続けるエレナに、バーブルは意外そうにも当然そうにも見える表情を作ってから、小さく溜息を吐いた。
「そうか。やはりそうだよな」
エレナに決めさせる。そう言った以上、エレナの決断には従わなければならない。
観念したようにバーブルが肩を落とすと、ザルはシオンの首筋に突き立てていた刃を鞘の中に戻した。ホッとするシオン。安堵が行き過ぎて、あるいはそれまでの恐怖が過ぎたのか、その場で失禁してしまったほどである。
「仕方ない。エレナがそう言うなら命は助ける。命を助けるからには、王の手に差し出したりもしない。……だが、何の罰も与えぬというわけにもいかぬな」
バーブルの言葉に、シオンはえっと言わんばかりに困惑の表情を浮かべた。
だがバーブルは意に介さず、ザルに視線を送った。
「確かにエレナはお前を許した。だが、俺はお前を許していない。お前は俺から婚約者のアンナを奪い、友人のエレナを辱めた。末端の騎士の分際で、男爵の係累に手を出すのは貴族法に照らして重罪にあたる。そして貴族法によると、被害を受けた上級貴族はその独断で加害者たる下級貴族に法の範囲内で好きに量刑を定め、罰を与えてよいという事になっている」
「なっ……」
「上級貴族の妻や婚約者を寝取る行為に対しては、その場で手討ちにされても文句は言えぬ。まあ、お主は間男ではないが、間男の支援者と捉えれば、同様の罪を与えられても文句は言えぬ立場だ。だが、エレナは殺さないという決断を下した。俺はそれに従うと言った以上、手討ちにする事は出来ない。逆に言えば、それ以外の刑は下しても構わんという事になる」
この時、バーブルは半ば自棄になっていた。
思わぬ事があり過ぎて、苛立ちや怒りや憎しみが理性で制御できる範囲をとうに飛び越えていたのだ。彼の怒りが爆発した瞬間に居合わせてしまったシオンは、いっそ不運というか、哀れという他はない。しかしそれについて抗議したり文句を言える立場にないのも事実だった。シオンがエレナに対してしでかした事は、間違いなく重罪にあたるのだ。
頭に血が上った状態のバーブルの意を汲み、ザルはシオンの右腕を引っ張り上げて、机の上に固定した。そして、バーブルが小さく首肯するのを確認してから、一刀の下に手首を斬り落としてしまった。
「それと、エレナは貰っていく。こんな家に置いておくわけにはいかんのでね。手首一つと、娘一人。それぐらい奪っておけば、まあ罰としては十分だろうさ」
余りの激痛で声も出せないでいるシオンに冷然と言い放つと、バーブルは踵を返して歩き出した。そして呆気にとられたように腰を抜かしているエレナの下に歩み寄り、「行くぞ」とだけ言って、その手を引っ張り上げる。エレナも抗ったりはしなかった。バーブル、ザル、エレナの三人は、何事もなかったようにヘイワード家屋敷の外に出る。そこにはザルの命令で予め待機していたバーブル配下の兵達の姿があった。彼らはエルミラ要塞の戦いにてバーブルの指揮下で戦い、彼にどこまでも従うと誓った忠臣達だった。数は一千にも達するが、大半は王都郊外に待機しており、今この場にいるのは、選りすぐりの百騎だけである。
「我らはこれよりサルードに向かう。新たな土地で人生をやり直すのだ。いざ、出陣!」
用意された馬に飛び乗り、大音声を張り上げる。
おおおおうっという威勢の良い掛け声がその後に続いた。




