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最愛の人の代わりに、その妹をやると言われて、さすがに「わかった」とはいかない。彼自身の気持ちの事もあるし、そもそも妹はモノではない。彼女の気持ちも重要だった。
とはいえ妹たるエレナの事を意識せざるを得なくなった事は事実である。そのエレナは“悪魔憑き”として実の両親からも忌み嫌われて、一族の恥部として幽閉されている事も知っている。どうせなら、彼女を助け出してしまおうと思ったのは、エレナの事を真に思ったからではなく、半ばヤケクソ、あるいは自分を裏切ったアンナやそれを後押ししたヘイワード家に対する八つ当たりという側面が強かったのは否定しようのない事実である。
こうしてバーブルは、あれこれ理由をこじつけて、フェルト家の官舎周辺に群がっていた野次馬を退散させると、自らは市内の軍事務所で一夜を明かしてから、翌朝にはヘイワード家に足を伸ばしたのだった。
突然の英雄様の来訪を受けて、ヘイワード家は上を下への大騒ぎだった。
何しろ相手はあのサルード男爵バーブル・フェルト閣下である。下級騎士に甘んじ続けているヘイワード家の人々にとっては雲の上の御方であり、かつて隣人だった頃のバーブル少年ではない。
何事!
と、色めき立ってしまうのも無理からぬ事だった。
一方で、フェルト家とヘイワード家は今や親族である。バーブルの実弟ハルンと、ヘイワード家の長女アンナが結婚しているのだ。その観点から見れば、バーブルの来訪は別段不可思議な事でもない。ただ、事はそれほどに単純ではない。そもそもアンナはバーブルに嫁ぐはずだったのに、それを反故にしてハルンに嫁がせてしまったわけで、その事を彼が快く思っているわけがなかった。無論、それについてはヘイワード家の人々にも言い分はある。何しろバーブルは死んだと思われていて、死人にいつまでも恋々とされても致し方なく、ならばハルンに嫁いでもらった方がよい。ハルンはバーブルほどでなくとも将来を嘱望される騎士だった。かつて近侍として国王に仕えた事もあるし、また国に殉じたバーブルの弟という事もあって王の覚えもめでたかった。ヘイワード家がうだつの上がらぬ下級騎士から成り上がるには、フェルト家に頼るしかない以上、アンナには死したバーブルにいつまでも拘泥するのではなく、ハルンの求婚に応えるべきだと懇々と説いたのは、他ならぬ両親であったのだ。
まさかバーブルが生きていたとは。
しかも英雄として凱旋するとは。
ヘイワード家の人々にとってこれほどの誤算はなかったが、今更結婚をなかった事にはできない。である以上、頬かむりするしかないと思っていたのだが、バーブル自らやってきてしまった。
文句でも言いに来たのか。
あるいは抗議しに来たのか。
いずれにせよ、門前払いにもできない以上、出迎えざるを得ず、当主シオンとその妻ティファ自ら門前に立って、側近のザルのみを従えてやってきた彼を出迎え、精一杯もてなした。恐る恐る、「何の御用で?」と問うてみたところ、
「エレナ嬢はお元気かな?」
バーブルが口にした言葉は、両親の想像の斜め上のところにあった。
「え、エレナですか?」
両親の反応は渋く、鈍い。
その顔は、苦虫を何匹もまとめて噛み潰したようであった。
「ええ、昔はよく遊んだ仲だというのに、ここずっと会った事がない事を思い出しましてね。今回新たに領地を与えられたので、そちらに赴任する前に一度会っておこうと思ったのですよ」
「……左様で」
両親の言葉は歯切れが悪い。
悪魔憑きたるエレナの事は、家の奥深くに幽閉し、存在自体を抹消してきた彼らにとって、触れられたくもない事だったのだろう。バーブルにしてみれば、だからこそという思いがあるのだが、その邪な本心は隠して、表向きは純粋な友人を装って続けた。
「私はね、エルミラで死にかけました。あの頃は毎日が死と隣り合わせでしたが、その頃よく思ったものです。俺の人生には心残りがあり過ぎるなと。アンナと結婚できずじまいで出征してしまった事もその一つ。そして昔馴染みのエレナの近況を知ろうともしなかった事もそうです。こうして幸運にも期せずして生き永らえた以上、少なくとも当時抱いた心残りぐらいは早いうちに全うしておこうと思ったのです。
世の中というのは世知辛いものでね。あなた方も御存じの事とは思いますが、何事も無駄に長引かせると、事を仕損じますし、あらゆるものを失うし、奪われる。善は急げとはまさしく真理ですな。私はね、この数日でその事を嫌と言うほどに思い知らされたのですよ。ハハハ」
笑声を挙げるバーブルの目は、全く笑っていなかった。
そんな彼に対し、シオンもティファも返す言葉を失って黙り込まざるを得なかった。彼が言うところの“この世の世知辛さ”というのは、アンナの裏切りの事を指しているのは明らかだったからだ。
「ではエレナに会わせて頂けますな」
バーブルは遠慮がない。
ヘイワード家の暗部にずかずかと踏み入って、彼らがもし抗うならば英雄としての立場や特権すら容赦なく行使する構えなのである。
「よもや駄目とは仰るまいな」
その意思を示すべく威圧的に言い放ってみると、シオンとティファは震え上がったような表情を作ってみせた。将軍であり男爵たる貴人の意向に抗うなど、本来あり得ない事だが、今更エレナに会わせるわけにもいかず、どうしたものかと必死に思案している風でもあった。
バーブルはしばし彼らの反応を意地悪く楽しんでいたが、間もなくそれにも飽きてきて、ゆっくりと立ち上がった。「お待ちを!」と悲鳴にも似た声を張り上げるシオンの全身を、バーブルの後ろに控えていたザール・ザルの鋭い視線が貫いた。歴戦の戦士であり、何より強面のザルの露骨な威圧に、凡人のシオンは縮こまってしまうしかなかった。
バーブルは構わず家の奥に突き進んでいく。
幼い頃、よく遊んだ、勝手知ったる家である。
何処に行けば何があるかは、承知の上だった。
当然、エレナが押し込められている部屋にも目星はついている。
二階に上がり、その奥に、分厚い扉で封じ込められた一つの部屋がある。バーブルはそちらにずかずかと突き進んでいって、立ち止まった。
「ば、バーブル様、閣下、おやめください!」
必死の形相で駆け込んできたのはシオンである。彼は今にも扉を蹴破ってしまいそうなバーブルの足元に縋りついて、ひたすら「やめてください!」、「ご勘弁を」と喚いている。バーブルは面倒臭そうに嘆息した後、ザルに目配せした。ザルは「承知」とだけ小さく答え、主命を全うすべく、シオンの身体を押さえつけて主君の足から無理矢理引っぺがしてしまった。




