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 ハルンは少しも悪びれた様子がなかった。

 それどころか、甥っ子が出来て嬉しいだろうとでも言いたげに笑っている。

「ど、どうして……?」

 その疑問に対して、アンナは何も答えなかった。

 代わりに答えたのは、やはりハルンであった。

「どうしてって、俺が昔からアンナの事が好きだったてことは兄者だって知っていたはずだろ。知らんとは言わせんよ。だから兄者が出てってから、しばらくが過ぎた頃かな。兄者はもう帰ってこないと思って、思い切って告白してみたんだよ。勇気ってのは出してみるもんだよな。彼女も俺の事を認めてくれて、晴れて恋仲になって、めでたく子宝にも恵まれたってわけだ。それだけの事だよ」

「……」

 それだけの事だと!

 怒りが喉までこみ上げてきたが、それをぐっと飲みこんだのは、屋敷の外にたむろしている野次馬の事に思い至ったからである。

「ああ、安心してくれ。俺達の結婚はあの国王陛下も直々に祝してくれたよ。アンリ殿下に相談してみたら、陛下に事の次第を口利きしてくれたんだ。

 陛下は、兄者が生きて帰る事はあり得ないから、兄者の代わりに幸せにしてやってほしいと仰っておられた。国王陛下にそこまで言わせるとは、さすがは兄者だと感心したものだよ。あの時は兄者が陛下の信任厚い紅の騎士であり、陛下の身代わりになって死んだからだと思っていたんだが、まさか陛下に代わって国防の大任を果たしていたとは。弟として鼻が高いよ。その功績のおかげで、陛下はわざわざ俺達の結婚を直々に祝福してくれたんだな。ようやく合点がいったよ」

「……」

「何にしても、陛下は実に偉大な御方だと改めて思い知ったよ。かつて近侍として仕えていた頃はそこまで思わなかったものだがね。

 あのお方は国の為に献身的に働く臣下の事に常に気を配っておられる。陛下は、兄者が死ねば、アンナが正式に結婚もせぬ身で独り身として残されてしまう事を案じておられたのだ。折も良く俺がアンナを引き取ると申し出たので、兄者の分まで祝福してくれたに違いない。まさに仕えるに値する主君というものだ。兄者が陛下に粉骨砕身の忠誠を貫き、命を懸けて戦った理由が今ならばよくわかるよ」

 ハハハと笑うハルンに、バーブルは二の句も告げずに、ただ無言で睨みつけていた。猛り狂う気持ちを抑え込む事に忙しくて、言葉など発していられる余裕がなかったのだ。そうでもしなければ、今頃バーブルの鍛え上げた鉄拳は弟の顔面を容赦なくぶち抜いて、叩き割っていたに違いない。

 そんな兄の内心など知ってか知らずか、ハルンは含み笑いながら続ける。

「ああ、兄者。まさか兄者が無事に帰ってくるとは思っていなかったが、めでたく帰ってこれたんだから、結婚ぐらいはするべきだと思うぞ。兄者は今や誰もが知る英雄様だし、先ほどは貴族に叙されたって聞いたぞ。なら、なおの事、奥方様は必要だ。良いもんだぞ、結婚というものは」

 こいつはそんなに喧嘩を売りたいのだろうかとバーブルは思った。

 自重させている拳が今にも理性の壁を飛び越えて暴発してしまいそうだが、彼はそれを懸命に抑え込むようにゆっくりと深呼吸した。しかし殺気の先走りを完全に抑え込むには至らなかったらしく、傍に控えていたアンナは、小さくヒィと悲鳴にも似た声を上げて、一歩二歩、後ずさった。バーブルの怒りが自分と息子に飛び火する事を恐れたのだろう。

 そんな彼女の反応がバーブルの心を静かに傷つけたが、気にしていない振りをして、改めてハルンの方に視線と神経を集中させた。

「ハルンよ。……一つ、お前に確認しておきたい事がある」

 努めて冷静に、バーブルは言った。

「なんなりと」

 ハルンはわざとらしく頭を下げた。

「あの日、俺を襲った刺客だが、お前は何か知っていたのか?」

 ザルに指摘され、表向き否定しつつも、ずっと心のどこかに引っかかり続けていた疑念。

 弟が黒幕であるはずがない、という堅い思い込みは、目の前の光景を目の当たりにした今、大きく揺らぎつつある。ザルは言った。自分が死ねば、アンナは自由だと。だからハルンは堂々とアンナを狙う事が出来ると。この一年、自分は死んだも同然だった。その結果、アンナはハルンに奪われた。だとすれば、ハルンが自分を殺そうとしたというザルの推測にも信憑性が生じるというものではないか。ハルンは、ずっと自分を殺すか排除する機会を虎視眈々と狙っていたのだ。アンナを奪い取る為に。

 ハルンが、アンナに懸想していた事は知っていた。

 それでも、それは好意というより憧れの方だと思っていたし、

 恋愛ではなく、姉弟愛に近いものだとも思っていた。

 だからこそあまり深く気に留めなかったし、重くも考えなかった。そうでなければ、ハルンに留守など任せなかった。しかし、ハルンの想いは憧れなどではなく、姉弟愛ですらなく、純粋な恋情であって自分はそれを見抜けなかった。かくて、まんまと飢えた肉食獣に獲物を預けてしまったというわけである。

「あの日、というと、一年前に兄者と共にエスティリア城に赴いた時の事かな?」

 ハルンは平然としている。

「ああ、その時に刺客に殺されかけた事があった」

「ああ、忘れてはいないよ。兄者の素晴らしい剣技のおかげで事なきを得たのだったな」

「……あの事件にお前はかかわっていないな?」

 バーブルの眼光が鋭さを増した。

「かかわっていないとは、どういう意味で?」

「刺客の黒幕はお前ではないか、と聞いているのだ」

「俺? ハハハ、兄者、冗談にしても厳しいぞ。一体どこに実の兄を殺そうとする弟がいるというのだ」

 動揺を勢いで誤魔化しにかかるのは、典型的なハルンの嘘の吐き方であった。他人が看破する事は難しいかもしれないが、幸か不幸かバーブルは他人ではなかった。

「そうだな。しかし、刺客が殺された夜に、その直前にお前が地下牢から出てくるのを見たという者がいたのでな。一応確認したまでだ」

「兄者はそんな事で俺を疑うのか。そいつが嘘をついているかもしれんし、あるいは嘘でないとしても他人の空似という事は十分にある。少なくとも俺は、あの夜、地下牢なんぞに行ってないよ。当然、あの夜は誰も殺したりなんかしていない」

 相変わらず白々しい物言いに、バーブルは反吐が出そうになった。他人はともかく、その程度で兄の目を誤魔化せると本気で思っているとしたら、兄を甘く見過ぎだと思う。しかし弟はこの一年で兄の事を完全に侮るようになっていたらしく、誤魔化し切れたと思い込んだようで、コホンと咳払いしてから、こんな事を言いだした。

「時に兄者よ」

「……」

「先ほど兄者も結婚した方が良いと言っただろう。だが今まで戦いに明け暮れていた兄者に女などおるまい。そこで、良い女を紹介したいと思ってな」

 そこまで言って、ハルンはわざとらしく一息を付いた。


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