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第三十四代のサクラカンド王たるオスカル四世は、相変わらず気怠そうな、眠そうな目をして、じっと英雄の顔を見つめていた。かつて――といって一年前だが――、紅の騎士として王に近侍していた男の事を、王はすっかり忘れてしまっているようで、バーブルの姿を見ても、更には彼が自ら名乗っても、これといった反応を示す事はなかった。
オスカル四世の治世は五十年の長きに及ぶ。即位以前は聡明な気質で、先代からの覚えもめでたく、将来は賢王になると目されていた事もある。実際即位後しばらくは賢明なところも多く、その治世は華々しさに欠ける一方で堅実であり、斜陽の道を突っ走っていた王国の在り様も一時的に落ち着きを見せたりした。だが、老いるにつれて明晰さを失い、それに伴って王国の衰退には拍車がかかるようになった。とりわけ先のエスティリアの敗戦が王にもたらした影響は深刻かつ重大で、政治や軍事といったあらゆる責務にやる気を失った王は、日々後宮に引き籠って、酒色と女色に明け暮れる退廃的な日々を過ごすに至ったのだ。
この日も、王は朝まで飲んでいた。
二日酔いならぬ当日酔いの状態で、この栄えある式典に臨んでいたわけである。
とはいえ、ここ十数年のオスカル王は、単なるお飾りに過ぎなかった。彼が政治で主導的役割を果たす事は少なく、その傾向はエスティリアの敗戦以来、特に顕著だった。シャルル王太子が健在の頃は王太子が、その死後は宰相らが代わりに政治を動かしてきた。今は王の両隣りに二人の王子――第二王子のアンリと第三王子のフィリップーーが屹立しているが、次期王位争いに忙しい彼らは王以上に何の役にも立たない。よって宰相の役割は肥大化する一方だったが、その宰相たるシェルード公爵としては、オスカル王は玉座に座っていればよく、倒れ込まないのであれば、眠っていてくれても一向に構わないというのが偽らざる本心であった。
「フェルト将軍!」
正式には、バーブルは“将軍”ではない。
しかし実態に即する形で、宰相は彼の事をそう呼んだのだ。
そこは、王に英雄が拝謁すべく設けられた、祭壇の上。
玉座に腰を据える眠そうな王の傍らに、宰相が立ち、その目の前で英雄が膝を付き、頭を垂れていた。
「貴公の此度の勇戦、誠に見事であった。国王陛下もお喜びであられる。貴公は民を、そしてこの偉大なる国を救ったのだ。陛下はその大功を嘉し、貴公を新たに左将軍とし、サルード男爵に叙すとの仰せである。またそれとは別に、タレント金貨一千枚を下賜する」
滔々と恩賞の目録が口頭で伝えられていく。
その一言一句を聞きながらも、バーブルの脳裏を満たしていたのは、最愛の人、アンナとの新婚生活の事であった。彼が一年に渡る攻防戦に耐えてきたのは、恩賞の為などではない。命永らえ、アンナの下に帰り、彼女と共に過ごす未来を夢見たからである。その幸せに比べれば、英雄としての評価や、あらん限りの恩賞も余禄に過ぎない。しかし無いよりはマシである。それらはアンナとの新婚生活を色鮮やかに彩ってくれる事だろう。
それはともかく、与えられた恩賞の中で気になる部分が一つあった。
サルード男爵と言うのは何だろうか、という事。
意味としてサルードという土地を治める男爵という事はわかる。これまで爵位なしの騎士に過ぎなかった彼にとっては異例ともいえる大出世ではある。だがサルードとはいったいどこの事だろうか。バーブルはサクラカンド王国の全ての土地の事を把握しているわけではないが、それでもある程度の事は承知しているつもりだ。しかし全く心当たりがないという事は、よほどの辺境に違いない。
「体のいい左遷じゃないですか?」
式典が終わった後、側近のザルはあっけらかんとそんな事を言った。
「やっぱそう思うか?」
「誰だってそう思うでしょうよ」
ザルの物言いには遠慮がない。
「お前はサルードって土地の事を知ってるか?」
「……田舎ですよ」
首肯しながら、ザルは淡々と答えた。
「しかしまあ、悪い土地じゃないですが。海と川と山があって、風光明媚を絵に描いたようなところです。酒は美味い、飯も美味い。人も悪くない。ま、中には嫌な奴もいるかもですがね」
「そうか。新婚生活を送るには良い土地のようだ」
「まあ、左様で」
ザルは否定しなかった。
案外、悪くないかもしれない、とバーブルは思った。どのみち、今の自分がこの王都で平穏に暮らす事は難しい。何かにつけて英雄として騒がれる事は必至だし、英雄としての名声や権威を利用しようと考える邪な者も現れるだろうからである。新婚生活を静かに愉しむには、今の王都は全く相応しくないのだ。
そう考えると、辺境の地に引き籠るのは案外悪くない。領主として赴くのだから、生活に困る事もない。
「ま、何にしてもアンナに話してみよう。喜んでくれるだろうか?」
いつになく弱気剥き出しのバーブルに、
「どうでしょうね」
ザルはあえて明言を避けた。
フェルト家は王宮の程近くにある。
英雄と評される男の居宅としては、決して大きくも派手でもない。そもそも紅の騎士に与えられる官舎であったから無理もないが、そんな事情など知らない野次馬にとっては意外でしかなく、誰もが困惑したように、勝手な噂話に花を咲かせていた。
王都凱旋以来、バーブルの一挙手一投足にはエンリル市民全体の興味と感心が集まっている。一種のアイドルといっていい。だから彼が王宮を出ると聞けば、出迎えに行き、帰宅すると知れば、彼の住居の周りに群がった。そんな衆人環視の中を、バーブルはザール・ザル以下の手勢数十人を従えて進んでいく。間もなく一行はフェルト家の門前に辿り着いた。
「時に殿、この屋敷はもう殿のものじゃないそうですよ」
馬を降りようとしたバーブルに、ザルは不意にそんな事を言った。
「何しろ殿は、これまで死んだ事になっていたそうですから。御舎弟殿が居住権を“相続”されたみたいです」
「……」
さもありなんと、バーブルは思った。
王都を守る為には自分やエルミラの同志達を平然と売ろうとした国だ。聞くところによると、自分達がエルミラで奮戦している事も、しばらくは国民に隠していたという。そんな国である以上、自分達を死んだ扱いにするぐらいの事は平気でやるだろう。
だが、生きて帰った以上、死人としての扱いなど無効。生者としての権利は当然に回復されてしかるべきである。
「御舎弟殿は、フェルト家の家督も相続されて、殿の功績によって騎士にも叙されたそうですよ」
「ほォ。じゃあ何か。今の俺は一体何者なんだ? 墓から蘇った元死人か?」
「サルード男爵という事になっておりますな。一応」
「一応な」
国の為に命懸けで戦っている間に、死んだ事にされて、権利一切身包み剥がされているとは、全く有難くて言葉も出ないというものだった。勝って凱旋したからこそ失ったもの以上の新たな地位を与えられたが、もし負けて戻っていたらどうなっていたのだろうかと、バーブルはふと思った。
何にせよ、ハルンが悪いわけではない。自分を死んだ事にして、各種の手続きを強行した国王や朝廷が悪いのだ。自分は新たな地位や領地、賞金などを得た以上、屋敷や家督や騎士の地位はハルンに譲ってもよい。ずっと留守を守ってくれたのだから、それぐらいは彼が得るべき当然の権利であろう。
何にしても、自宅の居住権がハルンにあるとしても、元々ハルンとは同居していたわけだし、バーブルの家でもある事に変わりはない。だから彼は少し気恥ずかしそうに頭を掻きながらも、勝手知ったる我が家に馴れた足取りで立ち入った。鍵のかかった扉を開け、中に入る。そしていつものように、
「アンナ。アンナはいるか?」
と、声を張り上げた。
それは微量の緊張と、昂奮と、喜びと、そして不安を綯交ぜにしたような声だった。
間もなく廊下の向こう側から、見慣れた顔をした女が、恐る恐ると言わんばかりにやってくる。女はその両手に何かを抱えているようだった。それを視界に捉えた時、バーブルの全身を冷たい感覚が駆け抜けた。それは嫌な予感と言って差し支えのないものだった。
「お、おい、アンナ……、それ」
彼女の腕の中に納まっているモノ。
それは生まれて間もない赤子のようだった。
アンナは気まずそうな顔の下に、至福の笑みを隠している。
「だ、誰の子だ?」
膨れあがる嫌な予感に急き立てられるように、彼は恐る恐る問うてみた。
最期に別れてから、はや一年。
一年あれば、様々な事が出来る。
それこそ子供を孕み、産み落とす事すらも……。
困ったように立ち尽くしているアンナに、さらにバーブルが問い質そうとした時、答えがしたり顔をしてやってきた。
「おや、兄者。無事に帰還したと聞いていたが、本当に無事だったんだな」
それは、弟のハルンだった。
その彼は平然と言い放つ。
「ああ、その子かい。その子は俺の子だよ。可愛いだろう。兄者から見れば甥っ子に当たるわけだな」
と。




