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シュメリア大陸暦一〇〇〇年の六月に行われたエスティリア平原の戦いは、サクラカンド王国の大敗に終わった。この戦の重要性は、普段王宮に根を生やして微動だにしないオスカル王が自ら親征に乗り出したという一点だけでも明らかであったが、それがまさかの大敗である。王都エンリルの人々は、降って湧いたような亡国の危機を前に右往左往するしかなく、オスカル王が数百の手勢と共に逃げ帰ってきた事で動揺と混乱は最高潮に達した。
人々を驚かせたのは、エスティリアを抜かれた以上、次の防衛拠点となるべきエルミラ要塞の守備兵を、恐慌に駆られたオスカル王が悉く引き抜いて、もぬけの殻にしてしまったという事だった。難攻不落で知られるエルミラに十分な兵力を配置しておけば、例えハスラード軍が勢いに乗って攻め寄せてきても、すぐにエンリルが脅かされる事はない。エルミラが時間を稼いでいる間に態勢を立て直し、援軍を送れば、先の敗戦自体をなかった事にも出来たはずである。然るに、オスカル王は自らの身可愛さの余り虎の子のエルミラ守備兵を引っこ抜いて、唯一の勝機を二束三文で投げ捨ててしまった。
「王は愚かだ」
表立ってそう言い放つ者は少ないが、心の中で、あるいは身内同士の間でそう考える者は多かった。
ただ、王の不明や愚行を罵ったり、怒っていても仕方がない。亡国の危機は間近に迫っている。今はあれこれ考えるより、自分や家族が生き残るにはどうすべきかを考えねばならなかった。
一方、オスカル王は、というよりシェルード宰相が率いる朝廷はこの事態を前に、王都に蔓延する動揺の抑え込みにかかった。きたるハスラード軍の襲来に備え、王都の支配を安定させておく事は極めて重要だったからである。朝廷は各地の兵を王都に集め、防衛体制の再構築を図りつつ、城門を閉ざして市民を城内に閉じ込め、また街中に“王の耳”と呼ばれるスパイをばら撒いて不用意な発言をする市民の摘発に乗り出した。摘発された市民の多くは、拷問の末に殺されたと言われ、そんな噂が拡大するにつれて、表向きの動揺は収まっていった。
結果として、予期されたハスラード軍の襲来という最悪の事態は現実化しなかった。
オスカル王によって打ち捨てられ、機能不全に陥ったはずのエルミラ要塞が突如の復活を果たして、壁の役割を全うしたからである。勢いに乗るハスラード軍を押しとどめられたのは、全くエルミラの功績と言うべきで、朝廷には何の功もなかった。何しろ酒色に溺れるオスカル王や、国務を預かるシェルード宰相らはエルミラの“守将”となったバーブル・フェルト将軍からの再三に渡る援軍要請すら事実上黙殺したのだ。彼らにしてみると、王都の防衛の方が重要であり、また援軍を送ったところで勝ち目があるようには思われなかったからでもある。
むしろ王や宰相は、エルミラに立て籠もるバーブル軍を高く売りつける事で、王国の安泰を買おうとすら考えていた。特使をハスラードの王都に差し向け、バーブルの身柄とエルミラ要塞を引き渡す代わりに、金輪際、ハスラードはサクラカンドに手を出さないでほしいと要請した事すらある。この時は、相手側が本気にしなかった事や、サクラカンド側も相手の反応を窺う程度のノリであったから、交渉が本格化する事は無く、なあなあのうちに立ち消えになってしまったが、後日、その事を知ったバーブルは、より深刻な別件での辟易や絶望も相まって、大いに閉口し、国王や王国に対する忠誠心を大いに失うきっかけになる。
大陸暦一〇〇一年七月一日。
この日、英雄の凱旋を控えた王都エンリルでは、軍隊や民衆が朝から準備に追われていた。大通りはゴミ一つ落ちていない程度に清められ、そこかしこに英雄を称える幟が立ち、王宮にあっては、国王が英雄を迎える為の舞台すら設えられた。
英雄の凱旋は、ハスラードの攻勢によって失墜した国威を発揚させ、王権の回復を誇示する為に欠かせぬセレモニーとして位置づけられていた。特に英雄が国王に跪き、国王が英雄を祝し、その功を賞し、恩賞を授けるという図式を万民に示す事が重要だった。王の下に英雄がある、という事を明確にしておかないと、英雄はその名声と威信を糧に王を上回る権威を得てしまう恐れがあるからだ。
そんな政治的事情など、民衆にとっては知った事ではない。
彼らは英雄たるバーブル・フェルトがどんな人物なのか、それについて興味津々だった。正直に言えば、それ以外の事には何の興味も関心もなかったと言って良い。
人々は長きに渡って、自分達を外敵から守ってくれている男達の事を知らなかった。エスティリアの戦い以来、王都は封鎖され、自由な出入りを禁じられた事で、国王や朝廷にとって都合が悪い情報が市内に入る事はなかったからである。朝廷はあくまでハスラード軍に諸事情があって攻めてこないのだと主張し、その諸事情とやらは自分達の工作によってもたらされたものだと言わんばかりの態度であったが、そのような稚拙な情報操作もある程度は功を奏したのだ。とはいえ、人の口には戸は立てられないもので、幾ら情報封鎖しようと、民衆の耳にもある程度の事実は伝わっていた。何者かがエルミラに立て籠もって敵と戦っている。おかげで自分達は辛うじて安泰を保ち得ているのだと。
しかし、長きに渡って、エルミラの守将の正体は不明のままだった。
これは朝廷が情報封鎖した結果というより、本当に伝わらなかったのだ。そもそもバーブルはサクラカンド軍に参加していた一介の紅の騎士に過ぎず、エルミラ要塞の守将などではなかった。政治将校として部隊に属していたとはいえ、手勢を従える将軍ですらなかった男が、敗走の混乱に乗じて自前の軍勢を組織してエルミラに逃げ込み、まんまと守将の座に納まってしまうとはいったい誰が想像できただろうか。またエルミラ要塞はハスラード軍によって十重二十重に囲まれていたから、その内部事情が洩れ伝わるわけがなかったという事もある。難攻不落のエルミラ要塞の内部事情については、囲んでいるハスラード軍すら把握しきれていなかったぐらいなのだ。
だからバーブル・フェルトこそが守将だと知れ渡った時、
「それは誰だ?」
人々の多くは疑問を抱き、
ついで詳細を知ると、
「なぜそんな男が?」
となり、驚きの感情は容易に「凄い」という尊敬の念へと変化していった。
そしてそれは、バーブルに縁のある人々も無関係ではない。
「兄者が?」
実弟のハルンは呆気にとられ、
「あの人が生きてた……」
婚約者だったアンナも同様だった。
彼の家族や知人は、その多くがエスティリアの戦い以来行方知れずだったバーブル・フェルトの事を、死んだと認識していたのだ。
バーブルは英雄として意気揚々と凱旋した。
人々の拍手喝采が鳴り響き、花吹雪が舞い踊る大通りを、エルミラで共に戦った数千の勇士と共に行進していく。
「なんだか別世界みたいだ」
馬上のバーブルは、人々に笑顔を振りまく一方で、ポツリとそんな事を言った。
「ええ、まさしく別世界ですな」
そう答えたのはザルであったが、彼もまた、世界の変わりぶりに驚きを禁じ得ず、呆気にとられたように見慣れたはずの王都の光景を見回していた。
「これは世界が変わったのか、あるいは我らが変わったのか」
「……後者でしょうな」
「やはりそうか」
「ええ、一年やそこらで街の在り様が変わるわけもありません。でも我らの立場はこの一年で随分と変わってしまいました」
「英雄か」
そう呼ばれる事に、バーブルは全く馴れそうにない。
彼はただ、懸命に戦っていただけだった。あるいは目の前の事に夢中で取り組んでいただけだった。英雄になりたいとか、手柄を立てたいとか、そういう欲求などなかった。あるいはあったかもしれないが、生きるか死ぬかの極限状態にあっては、そんな事はどうでもよく、とにかく生き残る事だけを必死に考えてきたのだ。
生き残った結果、英雄という称号が余生の付属としてくっついてきた。
こんな大それた凱旋式まで挙行され、嬉しい反面、恥ずかしさもあって、とにかく落ち着かなかった。
「とまれ、我らは生き残ったのです。殿も、ようやくアンナ嬢と再会できるというわけですな。英雄の奥方となれるアンナ嬢もさぞかし鼻が高い事でしょう」
「ハハ、あいつはそういう事で喜ぶ性質ではないと思うが、まあ、一年も待たせてしまったのだから、せめてこれぐらいなければ、あいつも許してはくれまいよ」
「そうですな。であればなおの事、国王からはより多くの褒美を貰わねば」
「褒美か。まあ、そうだな。だが俺は既に英雄と呼ばれて過分な栄誉に浴している。これ以上何かを貰うのは過分な気もするな。何にせよ俺の事はともかく、お前達の分の恩賞は確実に貰えるように努めるよ。でなきゃ、俺は同志達に背中を刺される事になりかねん」
ハハハと笑いながら、バーブルはそんな事を言った。ザルも釣られたように笑った。




