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 炎がひらひらと舞っていた。

 それは決して何かの比喩などではなく、文字通りの意味で、それは空を舞っていたのだ。

「――風船?」

 呆気にとられたように立ち尽くしているバーブルの視線の先にあるそれ(・・)は、ただの風船ではなかった。風船の下に取り付けられた熱源が生み出す上昇圧力によって浮上する、小型の熱気球だった。風に乗り、城内に次々飛来するそれは、そこかしこに無数の火種を撒き散らし、様々なものに燃え移って、火事が生じる原因となっていた。

「火を消すんだっ!」

 我に返ったバーブルが叫ぶ。

「既にやってますよ」

 彼が寝込んでいる間、指揮を代行していたザルは吐き捨てるように答えた。バーブルは「そうか」と答えながら、静かに深呼吸して気を落ち着けると、そのまま御殿の外に飛び出していった。「危険ですよ」というザルの進言には耳を傾けない。

「城が焼け尽きたらどのみち終わりだ。だったら、今できる事をやる。危険だろうと関係ない」

 そう言って、彼もまた兵達に混じって消火活動に身を投じる。

 兵達は困惑した。何しろ全軍の総大将たる御方が裾まくりして、自分達と共に水の入った桶を前線に送る役目を務めているのである。大将といえば、とかくお高く留まって、一方的に指示だけを下す存在と思い込んでいた兵達にとって、自分達と共に汗を流すバーブルの姿は殊更新鮮に映った。

 バーブルは根っからの大将ではなく、あくまで偶然から今の立場になった“成り上がり者”に過ぎない。指揮官、大将として明らかに未熟な彼は、あれこれ上から指示して回るより、何も考えず、ただ愚直に目の前の仕事に取り組んでいればいい立場の方が性に合っていたのだ。要は大将としての責務や責任から目を背けて、懸命に現実逃避をしていたに過ぎないのだが、とはいえ、具体的に誰が何をすべきか、なんてことは既にザルが手配した後だったので、バーブルがその気になったところでやり得る事など少なかっただろう。むしろ下手に口出しして、既に構築されていた指揮系統や命令の内容に混乱を生じさせるよりはマシとすら言えた。

 バーブルは一心不乱に“仕事”に取り組んだ。

 そうしていれば、嫌な事も、辛い事も、全て忘れる事が出来た。

 彼や彼の部下達の献身的な努力の甲斐もあって、また折も良く雨が降り出してきたおかげにより、火の手は急速に弱まり、事態は最悪に陥る事無く、状況は鎮火へと向かっていった。

「ザルよ。被害状況は?」

 バーブルの下問を受けて、火事の最中、現実逃避した主人に代わって実務の一切を取り仕切っていた男は淡々と答えてみせた。

「幸い、死者は出ていませんが、煙を吸い込んだり、火傷を負った者など、負傷者は多数です。家屋は一部木造の倉庫が焼けるに留まりました。全体的に石造りだったのが功を奏したわけですな」

「倉庫だと」

「ええ、しかし食糧は無事ですよ。使っていない部分が燃えたようです」

「そうか」

 安堵したように嘆息するバーブルに、ザルは「ハハハ」と豪快に高笑いしてみせた。

「にしても殿はなかなか強運でいらっしゃる。いきなり雨が降ってきた事といい、この程度の被害で済んだ事といい。一体全体、前世でどれほどの善行をお詰みになった事やら」

「フン、本当に強運なら、最初からこんな貧乏くじは引いていないさ」

 こんな目にも遭っていないと言いたげに、バーブルは身体中に付いた煤をパンパンと払い落とした。

「それに雨が止めば、また火の雨が降り出すだろう。これ以上あちこちが焼けてしまっては、さすがに耐えられん」

「確かにね。では、どうします? いつまでもやられっ放しってのは」

 ザルはニヤニヤと笑いながら、そんな事を言う。

「どうもこうもない。打って出れば負ける」

 バーブルは吐き捨てるように答えた。

「そりゃまあ、確かに」

 城内のバーブル軍は六千に満たない。一方、エルミラ要塞を囲んでいるハスラード軍は十万にも迫る勢いだ。堅牢なエルミラ要塞に籠っていればこそ、ハスラード軍に対抗できているが、それを捨ててしまえば勝負にもならないだろう。

「時に、都から使い烏は戻ってきたか?」

 バーブルの問いに対し、ザルは首を左右に振りながら、「何の音沙汰もないですよ」と答えた。

「もう一度使い烏を送れ。至急援軍を送ってくれるように、国王陛下にお願いするのだ」

「御意」

 籠城戦というのは、援軍の期待があってナンボというところがある。援軍の見込みのない状態で籠城する場合、包囲軍の物資が切れるのをひたすら待ち続ける以外に勝機はないが、要は我慢比べとなってしまい、長期戦は避けられない。それとても包囲軍は常に外部から物資を補給できるのに対し、籠城側は備蓄物資を消費し続けるしかなく、備蓄が尽きた時点で詰んでしまう事を考えると、一概に籠城側が有利とはいえないのだ。

「陛下とて愚かではない。エルミラが落ちれば、もはやハスラード軍を防ぐものは何もないという事は承知しておられるはず。必ず援軍を送って下さるはずなのだ」

 何か手違いがあったに違いないと、ブツブツとぼやいているバーブルに、ザルは呆れたような視線を向けている。バーブルは国王の事を賢君と信じているようだが、ザルはいささか疑っている。確かに若い頃は賢王であったのかもしれないが、今のオスカル王は自ら率先して戦場から逃げ出してしまった事からもわかるように、愚鈍さと身勝手さが際立つようになってきている。それが老いからくる衰えなのか、あるいは長期の治世からくる飽きなのかは分からない。

 だからオスカル王は援軍など送ってくれないのではないか、とザルは思っている。援軍を送るのではなく、むしろ王都エンリルに兵力を結集させて、己が身の安泰を図ろうとしているのではないか。時と場合によると、エルミラで奮戦している自分達を売って、ハスラードに尻尾を振る事すら躊躇うまい。

 要は、期待薄な援軍などに期待し、それを前提に方針を定めるのではなく、援軍など来ないと諦め、そこから作戦を考えるべきなのである。幸い、エルミラ要塞の物資は豊富で、籠城兵もそう多くはない。半年は軽く籠城できるし、節約すれば一年でも二年でも持たせられるだろう。一方、包囲軍は十万だ。外部から物資を供給できると言っても、十万の大軍を一年も二年も維持していくのは、いかな大国ハスラードといえども簡単ではあるまい。

 ……困ったように爪を噛みながら、あれこれ思考を巡らしているバーブルも、その程度の事はわかっている。ただ彼には、長期戦にしたくない個人的な事情があったのだ。そしてそれはザルも薄々察している。

「殿、あまり言いたくもない事ですが、あえて申し上げます」

「……なんだ?」

「今はひとまずアンナ嬢の事は忘れるべきです。一刻も早く国に帰りたいのは殿に限った話じゃない。なのに、殿がそんな調子では兵達の望郷の念が膨れ上がって、士気が下がってしまいます」

 図星を突かれて、バーブルは返す言葉もなかった。

 何しろ彼は婚約したばかりなのである。一刻も早く国に戻って、愛する女と添い遂げ、一緒に暮らしたいという思いに駆られるのはごくごく自然の事だった。だがザルの言う通り、国に帰りたいのは彼に限った話ではない。にもかかわらず大将たる身が率先して国に帰りたがっていれば、兵達も動揺するし、望郷の念が膨れ上がって敵に降伏しようという意見すら上がりかねない。

 バーブルは再び爪を噛み出した。

 それは、悩んだり、あるいは邪念を捨てたい時によくやる癖だった。

 ザルもそれ以上は特に何も言わなかった。

 静かにバーブルの下から去り、後始末に追われる兵達を指揮する立場に戻ったのだ。一人残されたバーブルは、なおもあれこれ考えている。一夜が明け、翌朝を迎えた頃には、悩みも迷いも吹っ切れたように爽やかな顔をして、兵達の統帥の任にあたるようになった。


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