2.思い出の男の子
突然降ってきたザーザー降りの夕立の中、急いで家に帰ろうと駆けていたときだった。大人も子供もみんな雨の中、急ぎ足で駆けて行くのに、たった一人だけ、ずぶ濡れになりながら、座り込んでいる男の子がいた。
最初は私も濡れるからと家に帰ったけれど、その後も何か気になって。気になって仕方なかったから、まだ雨が降る中、傘をさしてそこに戻った。居なければそれで別によかったけど、その子は変わらずそこに蹲ったままだった。
「こんなところにいたら風邪引いちゃうよ?」
意味はあまりないかもしれないけど、これ以上濡れるよりはマシかなと、彼に近付いて傘の中に入れる。そうしたら、青い目が私をボンヤリ見上げた。
この辺ではあまり見かけない服を着た男の子に、私は問いかけた。
「おうちに帰らないの?」
「占い師を、探してるんだ。ここにいるって聞いたのに、見つからなくて……」
占い師という単語と彼のいる場所から、一人の人物が浮かんだ。
「もしかして、うちのおばあちゃんを探してるの?」
そう問いかけたら、泣きそうだった青い目が目一杯見開かれた。
ずぶ濡れの男の子に『どうしたら会えるんだ!?』と、必死な様子で腕を掴まれてびっくりしたのと。このまま放っておくのも気が引けて、家に連れて行った。
知らない男の子を連れて帰ったら、突然飛び出して行ったことを両親に怒られた。男の子に関しては、両親は何か戸惑っていた様子だったけど、おばあちゃんは違った。その子を見るなり、私と両親を振り返り、ふんわりと笑って……でも、すごく真剣な声で言った。
「少しばかり、この子と二人にしておくれ」
そう言って、おばあちゃんは男の子を連れて奥の部屋に行った。それは、とても大事な占いを必要としてる人が来たときの行動。だから、私は占いを傍で見たい気持ちを我慢して、奥の部屋の灯をじっと見ていた。その日、奥の部屋から灯が消えたのは、夜遅くのことだった。
翌日、ボンヤリとした様子で座ったままのその子に、私は思いきって話かけた。
「私はソフィア。あなたのお名前は?」
「……エド」
朝食のときからずっと無言のままだった男の子――エドが名前を教えてくれたことが嬉しくて、私は勢いのまま、彼の手を掴んで言った。
「ねぇ、エド。こんな晴れた日に、家に閉じこもっててもつまらないから、お外に行こう!」
そんな私を見たお母さんが、ギョッとした様子で言った。
「こら、ソフィア! 無理強いしないの!」
「えー……」
お花畑に連れて行ったら元気になるんじゃないかと思った私の計画は、お母さんによって阻まれた。見せられなかった花畑の代わりに、私はあることを思いつき、自分の宝箱からそれを取り出して、エドの元へ行った。
「私の宝物見せてあげる」
そう言って、手にしていた黒い袋を逆さにして、中に入っている石を彼の前に並べる。二十五個の青い石を前に、彼の目が見開かれた。
「きれい……」
「おばあちゃんがお守りにってくれたの」
それはラピスラズリのルーン。占いを教えてほしいと言った私にくれた、おばあちゃんがいつも使っていたルーンの石だった。
教わった知識を掘り返しながら、一つのルーンを選んで彼に差し出した。
「はい、エドに私のお守りのお裾分け」
「……大事なものじゃないの?」
「そうだよ」
そう伝えれば、彼は伸ばしていた手を引っ込めて、首をブンブンと振る。そんな彼に私は言った。
「おばあちゃんがいつも言ってるの。『占いは誰かを幸せにするためにあるんだ』って。もちろんそれに使うタロットやルーン、他のものもそう」
私の手の中にあるのは、イングのルーン。これならきっと、幸せになるために前を向く力をくれるはずだと、そう信じてもう一度差し出す。
「私には他のルーンもあるし。きっとこのルーンなら、エドを笑顔にしてくれると思うから。だから持ってて」
そう言えば、エドは私とルーンを交互に見て、恐る恐るそれを手に取った。『本当にいいのか』と言いたげな彼に、私は頷いたあと、笑顔で言った。
「それにおばあちゃんの占いはすごいんだから。エドが占ってもらったことだって、きっと大丈夫だよ」
私の言葉に、エドは少しだけポカンとしてた。けど、そのあと、出会って初めて笑顔を見せてくれた。それは木漏れ日のようにキラキラ輝いていて、私もおばあちゃんのように誰かを笑顔にできたことが嬉しくて、胸がポカポカした。
そうして数日、うちに泊まっていたエドは、行儀良く『お世話になりました』と言って帰っていった。私には『大事なお守り、必ず返しに来るから待ってて』とだけ残して。
それから間もなく、大好きなおばあちゃんが流行病で亡くなった。私が渡した健康を司るベオークのルーンを握り締めたまま。エドも出て行ったっきり一度も姿も見せない。
自分の行為の無意味さと無力感を当時の私に与えるのに、それらの出来事は十分過ぎるほどだった。そして、石が一つ欠けたルーンは占いにも使えないまま、それでも手放せず、私はそれを物入れの奥にしまい込んだ。……大好きだった占い諸とも。
それを引っ張り出したのは去年。紆余曲折あって、占い師として働こうと決めたとき、上手く行くか不安で、少しでも何かに縋りたくて、使えないとわかりながら、私は仕事道具の奥底に忍ばせたのだった。
***
知り合いだとわかると不思議と警戒心は薄れ、キラキラ男改めエドと並んで座り、二人で話をした。
「まさかエドだとは思わなかった」
「話しかけたら思い出してくれるかなと思ったんだけどね」
「当時は私と同じくらいだったのが、見上げるくらいになってるし、わかるわけないじゃない。ましてやいいところの息子だなんて知らなかったし」
今思えば、何か違うなと感じた衣服の違和感は、高級感のあるものだったからだとわかる。母さんたちが戸惑っていたのも、きっとそれが理由だったんだろう。そんな私に、彼は苦笑しながら言った。
「あのときは本当の名前を名乗れなくてごめん。オレの本当の名前はエドアルド。エドアルド=オルドリーニだよ」
「オルドリーニって、まさか……」
彼の背後、街の中心にある時計塔よりさらに奥。少し小高い丘の上に建つお屋敷を見たあと、エドをもう一度見れば、彼は頷いて言った。
「そう。ソフィアが思ってるオルドリーニ」
「女好きと有名な伯爵……」
「それは父だね」
「……の放蕩息子?」
そう確認すれば、彼の笑顔が引き攣った。さすがに放蕩息子説はまずかったかなと思ったものの、見たことのない伯爵家の跡取りに関してはいろんな噂が街を飛び交っている。実は息子などいない説やら、不細工引きこもり説だとか色々と。だから『信じられない』というのが本音だった。
そんな私に彼は、百合――伯爵家の紋章が刻まれた懐中時計を見せて言った。
「庶民に扮してはいるけど、結構街のこととか見てるんだけどなぁ、オレ」
「……言うほどは隠せてないと思うけれど」
「カッコよすぎて滲み出ちゃってる?」
なんか期待と共に、彼の目がキラキラと輝く。その雰囲気が何かに似てる感覚を覚えつつ、返事をした。
「その格好、どれをとっても仕立てがいいじゃない」
パリッとしたシャツも上着も、到底街の人がそう買える代物じゃない。まさか伯爵家の息子とは思わなかったけれど、どこかいいとこの坊ちゃんであることは疑っていなかった。
私のそれは期待したものじゃなかったのだろう。エドはがっかりとした様子で視線を明後日の方向へ向ける。そんな彼に、私は気になっていたことを問いかけた。
「それで、エド……。ううん、エドアルド様。小さい頃渡したルーンのお守りが、伯爵家を助けたってどういうことですか?」
「エドで構わないし、畏まらなくていいよ。今のオレは伯爵家の息子としているわけじゃないから、身バレしても困るし、ね?」
彼はそう言って人さし指を立てて、片目を瞬きして見せる。放蕩息子説が有力かと思いつつ、不承不承ながら頷く私に彼は続けて言った。
「オレの父は女好きという噂以上に、女遊びの酷い人だった。仕事はできる人なんだけど、そっちに火がつくと見向きもしなくなる。ある日、そんな父の所業に耐えかねた母が、何もかもを放って出て行ってしまったんだ」
仲睦まじい様子でたまに姿をお見せする伯爵夫妻の裏事情、もとい黒歴史を一般人の私が聞いていいのかなと思いつつ、耳を傾ける。
「母が居なくなって、女遊びに歯止めが利かなくなって父はそっちにのめり込む一方。それとは逆に街はどんどん荒れていく一方だった」
そう言われて思い返せば、確かに彼と出会った頃、街の大人はみんなどんよりとしていて怒りっぽくて。当時は外に遊びに行くのだって、両親に渋られもしたくらい、何があってもおかしくない街だった。
「あのとき、占い師を――キミのおばあさまを探していたのは、母の行方とどうしたら荒れていく街をどうにかできるのかを占ってほしかったからなんだ。知らない女の人の声を聞きたくなくて家出したのもあったけれど」
大事な占いなんだろうとは思っていたけど、まさかそんな大事とは思わなくて、思わず言葉を失う。そんな私に彼は淡々と語った。
「キミのおばあさまの占いのとおり母は見つかった。けれど、そのあとは当然だけど、なかなか上手くはいかなくて。その度、キミのおばあさまの言葉と、キミが言ってくれた『きっと大丈夫』っていう言葉、そしてその石がオレに勇気をくれた。支えてくれたんだ」
ふわりと微笑む彼の言葉に、心臓の音が跳ねる。知人だとわかったのに、まだ彼が怖いのかと内心で首を傾げつつ、十年ぶりに手元に転がる石を見つめた。意味なんてなかったのかもしれないと思っていたことが、役に立てたことが嬉しくて口元が弛む。
「そうして漸く父も改心して、いろいろ落ち着いたのが今なんだ」
「そっか……。じゃあ、この街がこの数年見違えるくらい落ち着いたのは、エドのおかげだったんだね。ありがとう。あと放蕩息子とか言ってごめんなさい」
噂は鵜呑みにするものじゃないと反省しつつ、立派になった彼に感謝と共に謝罪した。すると、彼は私の両手を掴み、微笑んで言った。
「いいよ。こうして、ソフィアに再会できたことに比べたら大したことじゃない」
彼の言葉と熱っぽい瞳に、忘れようとしていた事を思い出し、口元が引き攣る。そんな私を真っ直ぐ見つめて彼は続けた。
「この十年、キミを忘れたことはなかった」
こういう歯の浮く台詞を本当に言う人がいるんだなぁと、他人事のように思う中、彼は続ける。
「だからオレと結婚してくれませんか?」
「無理」
即答すると、エドは大袈裟なくらいガクッと肩を落とす。顔をあげると『信じられない』とばかりに声をあげた。
「なんで!?」
「いやだって、私はさっき再会したばかりだし。そもそも好きでもないのに頷けるわけないじゃない」
伯爵家次期当主のお嫁さんとか、こんな地味~な町娘がなっていいものじゃないでしょ、とはさすがに言えなかったけど、結婚はどうせなら好きな人がいい。……好きな人なんて生まれてこの方、いたことないんだけど。
そんな私の返事に対し、彼は考え込んだかと思えば、真剣な表情で言った。
「なるほど、わかった」
わかってくれたのかと、ホッと息をつく。でも、そうじゃなかったらしく、彼は満面の笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、デートしよう」
「……はい?」
彼の提案に、間の抜けた返事をした私を笑うように、彼との間をさあっと小風が赤い花びらと共に通り過ぎていった。