夜
パトスは、今、掘ったばかりの土の中に寝そべった。
土は、ひんやりしていて気持ちがいい。
パトスは子犬の体だからこその、灌木の枝と枝の隙間に入り込んでおり、少なくとも生き物は、パトスより大きなものは入れそうにない。
幸運にも水も飲んだし、魚も食べたので、このまま一晩この木の根で過ごすのは、それほど難しくはなさそうだった。
後は、オバケが出るという夜の山を、どうにかしのぐだけだ。
「…ちさ、どうすれば、オバケから隠れられるんだ…」
前足の上に顎を載せ、パトスは聞いた。
「、、寝るのが一番なのよ、、。
オバケは、夢の中まで入ってはこられないの、、。
オバケは、現実の中にしかいられない、、」
ふむ、なるほど…、とパトスは思ったが、言われたからといって、そうそうすぐには眠れない。
いつもは、チェコの臭いと共に寝るのだし、ふざけたり喧嘩をしたりして、リラックスして眠るのだ。
最初は、土も思ったより快適、などと考えたが、さすがにラクサス家のベットとは比べようがない。
それでも、パトスだって何度と無く山で寝ていたのだが、ゴロタの森の真っ只中で、木の根の横に穴を掘って寝る、というのは、生まれたときから人に飼われていたパトスには初めての事だった。
なんとか眠ろうとするのだが、どうも森はたくさんの臭いがありすぎで気が散る気がした。
決して、いい臭いなどでは無いのだが、圧倒的にチェコの臭いに包まれる方が、パトスは安心する。
ま、毎日の習性って奴だよな…。
パトスはそんな自分を鼻で笑ったが…。
しかし、一向に目が冴えるのは困りものだ。
灌木の隙間から見える川は、既に夕闇の濃い紫に染まっていた。
「…眠くならない…」
パトスは呟いた。
「、、いつも仲間と一緒だから安心して寝られるのよ、、。
一人の夜は、辛いわ、、」
そんなものだろうか?
確かにラクサス家の寝室は、りぃんが散歩で何かを見つけたり、不意にレスリングになったり、いつも疲れはてて寝ている気がした。
一人の夜は、辛いかどうか判らないが、どうにも静かすぎる気は、パトスにもした。
「…寝れないとしたら、どうする…?」
パトスは聞いた。
ちさは、んー、と体をよじるように考えて、
「、、楽しい事を考えるのよ、、。
歌を歌ってもいいわ、、」
あいにく、パトスは人間と会話もできたが、歌をうたうようには喉ができていない。
遠吠え、のようになってしまうのだ。
「…俺、歌えない…」
「、、心の中で歌うのよ、、」
なるほど。
頭の中で思うだけなら、リコ村の秋祭りの歌も思い出す事ができた。
麦苅りの後の祭日、村人は大きな焚き火を燃やし、火を囲んで踊った。
普段はハブられているチェコも、この祭りには参加をした。
何故なら、ダリア爺さんがシュロキーという弦楽器の名手だったからだ。
ただし、誰もチェコと踊らないため、チェコは歌要員にさせられていた。
チェコは、まあまあ歌が上手いのだ。
歌詞は、方言がきつくて、意味は判らないが、賑やかなメロディーで楽しい。
パトスは、その歌を思い出した。
「はいぎゃはいぎゃのぅ、とう、いさ、ようぃよい」
数メートルも立ち上る焚き火が、夜のリコ村に独特の陰影を与えていた。
始めは全ての村人が踊るが、だんだん若いものが中心になってくる。
すると、輪になって踊っていたのが、だんだん男女の踊りになってくる。
これにより、村では、カップルが決まってくるのだ。
ただ、チェコはそんなことは、全く気がついていなかった。
ただ、自分も参加できるのが楽しかっただけだ。
そんな、酸っぱいような記憶を泳ぐうちに、パトスはうつら、と眠った。
ひたっ…。
パトスの片耳が、ピンと立った。
物音だ…。
ひた…。
そして、近い…。
ひた…、ひたっ…。
それは、軽いものの足音のようだ。
例えば子猫。
遊び盛りの子猫が、足を忍ばせている、そんな音。
ひたっ…。
パトスの鼻を、濃厚な土の臭いがつかみ、その音の正体を、不意に悟った。
何故、真夜中の河原に、遊び盛りの子猫がいるのか!
そんな可愛いものでは、断じてなかった。
パトスは、目を細め、木の根の間から、砂利の河原を見た。
河原は、月夜の明かりで、非現実的に明るく見えた。
昼間とは、まるで違う明るさだ。
そこには、微妙に夜の藍色が混ざり混み、木の葉でさえ、妖しく艶やかに濡れたように見えた。
その、現実にはないような鮮やかさのなか、子猫の足は、どうも人間の足のように見えた。
チェコの、男の骨ばった足ではない。
男でも女でもない、もやしが人の形をとったような、軽やかで、しと濡れた、細い足だ…。
「、、パトス、あまり見てはダメよ、、」
ちさが、ささやいた。
それは、いま、河原の石を飛び越えて、流れる川の上を、楽しげにスキップしていた。
「、、あれは、、妖精よ、、」
ちさは、ささやく。
「、、妖精は、強くなればなるほど、人間の姿をとるのよ、、」
なるほど、それは、ほんのパトスの前足ほどの、人間、少女の姿をしていた。