夜
目の前には、枝が真っ白くなるような、森林大蜘蛛の壁のような巣。
そして左右には脚長蜘蛛がパトスを狙い、どんどん集まっていた。
足元は、湿度の高い動物森であり、上は空を覆い隠す樹林の天井だ。
一見、蜘蛛の巣は途切れているが、迂闊に枝に立ち入れば、子犬に等しいパトスより蜘蛛の方が、はるかに樹上では俊敏なことは明らかだった。
引き返そうにも、脚長蜘蛛たちは背後にどんどん集結してくる。
パトスは、森の樹間を、つい速度を上げて飛行し過ぎたていたのだ。
真下に落ちるか、目を瞑って、一気に枝を突き抜けて上昇し、空に一縷の望みを託すしか逃れる手は無さそうだ。
「、、下しか無いわ、、。
蜘蛛の巣にかかってからでは、逃れる方法は無いのよ、、」
ちさも言う。
確かに、蜘蛛の糸は厄介だった。
一旦絡み付いたら、噛ろうが舐めようが、剥がせない。
そうして動けなくしてから、奴らは毒を使って獲物を狩るのだ。
脚長蜘蛛の群れには、雷も数の上で対抗不能だし、森林大蜘蛛は、仮にスペルで倒したとしても、巣が消えることはない。
地面に降りるか…。
それは未知の食人植物と戦う、ということではあったが、森林大蜘蛛と脚長蜘蛛をまとめて相手にする愚策と比べれば、幾分利口にも思えた。
が、パトスの視野は人間をはるかに越える。
脚長蜘蛛たちは、確かに大量に集まっていたが、正面には近づかない、のが見えた。
森林大蜘蛛を避けているらしい。
「…ちさ、俺、上に向かう…」
パトスは呟くと、激しく吠えた。
「…蜘蛛の巣など、燃やしてやる…!」
雷を数発、森林大蜘蛛の巣に撃ち込んだ。
それで、高湿度の中では意外なほど、あっさりと蜘蛛の巣は燃えた。
蜘蛛の糸は良質な蛋白質であり、良い可燃物なのだ。
炎を見て、脚長蜘蛛たちが逃げていく。
いや、決して炎に怯えて逃げたのではない。
奥から、怒り狂った森林大蜘蛛が出てくることに怯えたのだ。
「、、パトス、森林大蜘蛛は簡単な敵じゃないわよ、、」
パトスは決然と、
「…だが一匹だ…。
やりようはある…!」
逃げることなく、燃える蜘蛛の巣から蜘蛛の出現を待ち構えた。
炎上した巣が、ガサリと揺れ、巨大な蜘蛛の、毛むくじゃらの右前足が現れた。
その太さだけで、パトスの首より確実に大きい。
「、、パトス、、危険よ…」
「…水地形、発動…」
パトスは空中で、水地形を発動させた。
海水は発生するが、およそ十メートルは下だ。
「、、どうするつもりなの、パトス、、」
「…燃やすだけ…」
言って、パトスは雷を放つ。
電気の球体は、森林大蜘蛛に突き刺さり、その巨体が不意にパトスに飛びかかった。
怒ったのだ。
「浮遊する壁!」
森林大蜘蛛が、壁に激突した。
そして、海水に落ちる。
「召喚、いさな、ならびに、いさな!」
海水に落ちた森林大蜘蛛に、二体のイサナが襲い掛かる。
蜘蛛は、あっという間にバラバラに砕かれてしまった。
パトスは、脚長蜘蛛が襲い掛かる前に、燃える巨木に入り込んでいく。
蜘蛛の巣は盛大に燃えていたが、さすがに森林大蜘蛛の巣だっただけあって、他の生き物は何もいなかった。
長い蜘蛛の巣を抜けると、青空が見えた。
樹上を抜け、空に出たのだ。
森の上から黒龍山を見下ろしたパトスは、川筋を見つけた。
この川は、遠吠え川に流れる支流であるはずだった。
川筋を辿ってゴロタの森の裾野に出た。
よし、とパトスは、自ずと勝利の旗のように尾を立てた。
なんとか動物森からは逃れ出ていた。
最悪は去っていたが、だがゴロタの森は、動物の森より安全、という訳では無い。
砂利だらけの河原に着陸しながら、パトスは、何とか安全な寝場所を確保しなければ、と考えていた。
川の水は飲めるが、当然水飲み場には猛獣も集まる。
そして日差しは、既に夕方の光を放っていた。
「、、あまり出歩いている時間は無いわ、パトス、、。
藪の根にでも隠れなさい、、」
おそらく動物のねぐらと言うのも、毎日の事と思えば、それなりに難しい条件をクリアしているのだろう。
だが、パトスにそんな選り好みをしている時間は無かった。
今日一日、何とかしのげれば目標は達成なのだ。
水を飲んで、藪に紛れるのが無難だった。
河原へ歩き、数時間ぶりに水を啜ると、不意に川から魚が飛び出してきた。
河原に住み着いたフナらしかったが、巨大だった。
パトスは、素早く雷で仕留め、黒龍山に来て以来の食事をとった。
塩一つ振っていないフナは、上手くもなんともなかったが、腹の足しにはなる。
パトスは、砂利から上がった高場の茂みを気に入って、その中に潜り込んだ。
砂地だったので、少し穴を掘れば、中々快適な一晩の宿になったようだ。
見ると、もうすでに夜と言ってもいい暗さが、ゴロタの森を覆い出していた。